2010年12月19日日曜日

書評リスト 2010.10~2010.12

ちょっと早いですが、今年のブログは今回で仕事納めとなります。当初の予定は100本だったのですが、皆様のあたたかいご支援のおかげさまで、150本もの更新数を行うことができました。ここに感謝の心を表します。ありがとうございました。

さて、来年も100本を目標に張り切って取り組んでまいります。引き続き、皆様からの叱咤激励のほどよろしくお願いいたします。

それではよいお年を。


~起業・ビジネス~
Business Model Generation
東京計画地図
想いと頭脳で稼ぐ:「20円」で世界をつなぐ仕事
武士道
学問のすすめ
スラムダンク勝利学
●編集進化論
●Buy-in

~政治・哲学・社会~
君主論
暗黙知の次元
ジンメル・コレクション
プラトンの哲学
ポストモダンの共産主義
中国経済の正体
重力と恩寵
公案
「縮み」志向の日本人
政治の精神


~芸術・科学~
脳の中の美術館
カイチュウ博士のオトコ強化論
日本語と日本語論
シュルレアリスムとは何か
工芸文化
トポロジカル宇宙
生とデザイン
ギルガメッシュ叙事詩
宇宙は何でできているのか
●フランス絵画史
●渋滞の先頭は何をしているのか

2010年12月16日木曜日

What it's we Should Perform in Clog ?

あと二週間で今年も終わりです。みなさま、抱負はきっちり果たせましたでしょうか?とかくいう僕は、一つ果たすことが出来なかった抱負が…例のあれですね。電車の中、カフェの席でと色々頑張ってみたのですが、見事に玉砕♪この抱負は来年に持ち越しです……いや、再来年まで伸びるかもしれない、そんな気概で一杯なんですけれど。そんなこんなで、只今来年度の抱負についてうんうん唸りながら考えているところです…達成できそうで出来ない、そこを巧くついた抱負を考えることはいい勉強になります。これまでの人生が築き上げた「自分」を俯瞰しつつ、その自分に次は何を付していこうか…過去、現在、未来の自分史を頭の中に思い描くには、相当なImaginationが必要となります。しばしば頭がショートショートしちゃって、自分を見失うことも。でも、このショートがあるおかげで、新しい「何か」がほわぁんと頭の中に浮かんでくる…そのときの快はそれはそれは相当なもの。一度経験するとやめられないんじゃないでしょうか。

さて、「あぁー良い男がいない」と愚痴をこぼす友人に、「いるじゃん目のまん前に♪」といって、「勘違い甚だしいわ」という顔をされたことに傷心しちゃうオトメン心の持ち主、えびすが紹介する一冊はこちら。

商品の詳細

「渋滞学」と聞いて、思い浮かべる対象が「高速道路」程度しか思いつかない私の思考力は、相当に硬化してきているようだ。即物的に「これだ!」という対象が一つ定まったとしても、その対象にとらわれず、他の対象を類推する力は一筋縄に身につくものではなく、それゆえ実産業でも広く様々な分野で(およそ全ての分野で)欲される力であろうと思う。

さて、本書に記されている渋滞がとらえるフレームは相当に大きい。笑いや流行、噂までも渋滞を起こすと述べられている。それらが伝わる過程には、かなり面白い数式(私の想像の範囲であるが)が隠されていることだろうが、そこは新書、流石にそこまで踏み込んで紹介をするには至っていない。しかし、定性的に「こういう具合に渋滞が起こる」という論展開をなぞるだけでも、興味をそそられることだと思う。本書のうちで難しい単語・知識をひけらかすようなことは全くなく、私のような素人にも理解できるような平易かつわかりやすい文章・単語で書かれている点、感謝の気持ちと共に頭が垂れる思いで一杯になる。

ただ一点、腑に落ちない渋滞があったのでそれについて紹介したく思う。その渋滞とは「恋愛格差の渋滞」である。本書によると、異性にモテる人とモテない人の間にある格差は、なんらかの措置をとらないとどんどん広がっていき渋滞を起こすとのことだ。ここで起こる渋滞は「だんご型渋滞」と呼ばれるもので、運行時間に遅れが生じると、あるバスには大量の人が乗り込むこととなり、次に来るバスには人がほとんど乗っていないといったものだ。さて、この渋滞を恋愛に当てはめるわけであるが…どうもしっくりこない。というのも、「恋愛の格差が何によって起こるのか」については、要因を一にきめることができないからだ。顔がいいから…お金持ちだから…性格がいいから…これら要因は互いに独立しており(あくまで私の主観だが)、要因が幾つか存在していること=渋滞は起こりにくいだろうと考えられるからだ。ただ、一人の人間の恋愛が、一の要因のみによって決まる場合は本書が記すように渋滞を起こすことであろうけれど。

※大変面白く読ませていただくことが出来ました。まだ大学の学部生だった頃、渋滞を数式を基にシミュレートしたモデルを教えていただいたのが、僕の渋滞学との始めての出会いでした。教えてくださった先生によると、「最初は車の速度(一階微分)しかシミュレーションモデルに組み込んでいなかったが、車が停車しスピードを上げる過程で変化する加速度の項(二階微分)を組み込むことで、実際の渋滞の流れとシミュレーションモデルが一致した」とのことでした(あやふやなところはあります)。何も特別難しい解析・分析をしなくとも、ちょっとした因子を加えるだけで、実際の現象をうまく説明できるモデルを作れる、そのことを教えていただいたことに感動したものです。基礎学問はあなどっちゃいけませんね…今一度、自戒を込めて。

2010年12月13日月曜日

To Tell something To someone is To be up To you.

物事を取りまとめること。これ、結構大変なことですよね。身近な例で言えば「片付け」もその一つに入ります。ただ綺麗に整頓するのもいいのですが、何をどこに、どうやって配置すれば、どういったときにどんなふうになるのかまで考えて整頓すると、これまた新しい境地を開くことが出来る・・・いや、皆さん既に実行されていることかもしれませんけれど。で、取りまとめることのフレームって結構大きいんです。仕事のマネジメントでもそう、彼女との旅行でもそう、友達の合コンセッティングでもそう、すべて物事を取りまとめる能力が要求されます。

さて、取りまとめることについて、さも自身はまとめ上手のごとく語っているにもかかわらず、実状は本の山をどないしましょと頭を悩ましつつも、まぁいっかとほったらかし状態という、なんともおこちゃまなオトコエビスが紹介する一冊はこちら。

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編集と聞くと、どうしても新聞の編集者を頭に思い描いてしまうのだが、編集は様々な場面において、重要な能力となってくる。ただし、断っておきたいのは「編集の小手先テクニック」ではなく、大局的に物事・情報を把握し、それを咀嚼・加工して、第三者がわかりやすいモノを生み出す過程を編集と位置づけたく思う。

編集の仕事を分解してみると面白い面が見えてくる。あくまで私の考える「編集のカタチ」ではあるのだが、少し紹介しよう。
まず、第三者・消費者に何を提供するか・提供するモノの「大元のテーマ」を決める必要がある。企業で言うところの「企画」だ。何を誰に、どのような形で提供することで、どんなインパクト・影響を与えることができるのか。とりわけ、最後の「どのような」は非常に重要なポイントだ。ここがぐらつくようであれば、どんなに質の良い「モノ」を提供したとしても上手く作用してくれないだろう。一昔前のCMを見ると、なるほどと思われるのではないだろうか。この段階で必要とされる能力は、想像力・論理的思考力といった能力である。
テーマが決まると、その中身・コンテンツをつくっていかなければいけない。どのような内容を誰に頼めば、質の高いモノをつくってくれるか。それを把握し、その人に依頼するのも編集の仕事の一つだ。隅々まで手を伸ばせるほどの人材を確保している大企業でも、小さな町工場でも同じことである。後者であれば、人材こそ限られているが「この人にはこの仕事が最適だ」と把握しているかいないかでは、生産性が俄然変わってくるのは容易に想像できるだろう。ここで要求される能力は、交渉力・人脈力・情報収集力である。
さて、コンテンツの中身・構成が決まったら、次は依頼した人たちのマネジメントをしなければいけない。モノを表に出す日はおおよそ決まっているため、それにあわせて各工程に締め切りを掲げるわけだが、これにあわせ依頼者との間で断続的にコンタクトをとる必要が出てくる。ここで要求されるのが、マネジメント能力・人格力であろう。これら能力は人当たりのよさ・人として尊敬できるかに大きく影響される能力であり、長年の経験がないとなかなか板に付く代物ではないと考えられる。

ここにあげただけでも編集には相当な能力が要求されることがわかる。が、編集は学生の間でも身につけることが出来る能力でもある。一例をあげると、サークルであれば「新歓コンパの計画」であろうか。・・・新人をあつめる目的でどのようなコンパをしようか、インパクトはどれくらいえられるのか、サークル員にどの仕事を任せるか、当日の連携はどうすればいいか・・・一つ一つ照らし合わせていただければ随所に編集のプロセスが含まれていることに納得していただけるだろう。

編集は今後、ますます多くの分野で需要なポジションをしめることとなりそうだ。とりわけ多くの人をまとめ、動かすポジションに着く人にとっては必須能力となるのではなかろうか。ただ、この能力を身につけるのは相当に大変なことであるのも事実である…それと同時に、その能力を身につけるチャンスは至るところに転がっている…家族旅行の計画、文化祭の出し物、グループ展の開催etc…それらを活かすも殺すも、当人次第によるのは言うまでもないことだ。

※編集は大切ですね。特に身内ではなく、広く第三者に「あること」を伝えなければいけない時に、その難しさ・大変さをしばしば実感いたします。エキスパートの間の意思伝達のほうが楽なんですね。例えば高校の数学Ⅲの極限の内容を高校生に教えるとして、その内容を理解している生徒は多少こちらの不備があっても勝手に理解してくれますので楽なんです。でもわからない生徒には、その過程を詳細に説明しなければいけず、結構大変です。が、これが上記にも示したように今後、ますます必要となってくる能力になってくることでしょう…うむ、われ精進あるのみであります。

2010年12月10日金曜日

Not Negative, But Affirmative .

言葉の力。しばしば、侮っていると痛い目にあいますね。特に、恋愛においては…ひょんな一言が相手をぐさりと傷つけること、多々あります。これは男女に関係ないことでしょう…なにせ、双方とも経験している僕が言うのですから、まちがいない(笑)。そして、反対に、嬉しくさせてくれる言葉もあること、忘れてはいけません。友人・知人からかけられる言葉にどれほど心励まされたことか。彼等・彼女達の心遣いにはいつも感謝感謝しっぱなしで、頭が垂れる思いで一杯です。ありがとう。

さて、言葉の面白くも、恐いところについても一言述べておきたく。それは、言葉の意味は、言葉を発した本人の意図にかかわらず(まぁ多分に意図して発している方もいらっしゃいましょうけれど)、相手の受け止め方によって様々に解釈されうるという点です。そして、なによりも恐いのは、受け止める人のコンディションによっても受け止められ方は刻々と変化するため、いささか難しいこと限りなし。そういえば、昔、展望台でアルバイトをしていた時に、老夫婦を観察しているスタッフがおりました。何十組もの夫婦を観察した結果出した一つの論が…「仲睦ましい夫婦の究極の姿は無言にある」ということ。全てを理解していれば、とりだてて口に出すようなことはないということでしょうか。なんとも興味深い極地であります・・・と同時に、元来おしゃべりな僕には到底たどり着けない境地であるように思えてならないんですけれどね。

さて、言葉、言葉と語っているうちに、1人の女性が離れていっていることに全く気付かず、気が付いたら独り身になっていたことしばしばな独男、えびすが紹介する一冊はこちら。

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経営戦略、マーケティング戦略、論理的思考力をテーマとしたビジネス書は、本屋(ネット書店含む)にいけばごまんとみつかり、「少し出しすぎじゃないか」と疑うほど溢れている。ポーターやコトラー等、偉大な先生の書籍は勿論、一平社員の書籍まで立ち並ぶ日本の書籍市場と海外のそれとを比較すると面白い。2010年のベストセラー「もしも高校野球の~」など、およそ海外の大手出版会社は出版に二の足を踏むのではなかろうかと思う。ジャンルとしてはおそらく「ライトノベル」として出版されるのではないだろうか。

…いつものコトながら、少し脱線してしまった。しこうして、本書もビジネス書の一つとして位置づけられよう。しかし、その目線が向けられているのが「自社の上層部に対してのポジションの取り方」である点、興味深い内容となっている。本書に収められている架空のストーリー(図書館のPC環境のグレードアップ)は、実務につくビジネスマンにとって、大変参考になる点多いことだと思う。とりわけ「厳しい質問をいかにスルーするか」、「提案を通すに一番効率よい方法は何か」に関しては、なるほどと唸らされるのではなかろうか。24-attacks(上司が発する24の攻撃・発言)と名づけた質問事項に対する受け答えに、一貫して共通するのは「相手の発言を否定しない」ということだ。発言を受け止め、「いいえ」「いや」で答えるのではなく、「たしかにその通りです。しかし・・・」「仰ることは私も悩まされました。そこで・・・」といった具合に、「ポジティブワード」から入るということだ。

ただ、数字による分析が載せられていない点は少し残念なところである。定性的な内容を数値に落とし込むのは難しいことではあろうが、24の項目に対して5つの受け答えを用意し、どれが最も評を獲得したか等の調査は可能なはずだ。今後、こういった定量的な調査もあわせて載せていただけると、内容の信憑性が高まるのではないだろうかと感じると同時に、本書の中で「論理的な受け答え」は提案の採択に繋がらないと述べている点も考慮すべきではあろうが…その点鑑みると、本書は一貫性ある構成になっているとも考えられよう。

※なかなか面白く読ませていただくことができました。本書の舞台はビジネスではありますが、その核にある「相手のことを否定しない話のもっていきかた」は、およそ全ての分野に共通して必要なものでありましょう。友人、恋愛、夫婦、家族、近所付き合いetc…およそ、人とかかわるところには必ず「相手の賛同」が必用な場面に出くわします。そこで、相手を傷つける・おとしめる・恥をかかすようなことがあっては、その後の関係が上手くいかないのは目に見えて明らかでしょう。それがもとで離婚・離縁することもしばしば起こっているのでは?しばしばビジネスの世界で出される「顧客思考」はプライベートの世界でも大切な思考方法であります。
ところで、本書の内容は以前、僕が紹介したブログの内容と一部(こちらですね。「不快の根源」)被っているところもあり、「復習」させていただいた思いであります。いやはや、経験を知識で補完することができたのは幸運でした。Kotter教授、ありがとうございます。

2010年12月8日水曜日

"Long time no see" could give you a lot...remember.

反逆者という存在に出会う確立はどれほどであろうか。僕の26年の人生を振り返ってみても、「反逆者」なる人についぞであったことはない気がする。みんな良い人ばかりで、ちょこっと幸せすぎる人生を送ってきたのかもしれないです。さて、翻って過去に遡ると、「「反逆者は歴史に名を刻む」傾向にあるようです。ブルータスのカエサルに対する裏切り行為は有名ですし、日本の戦国時代・明治維新時代は数をあげればきりがないくらい反逆者で溢れ、刻まれた名をここに記すのも億劫なほどであります(代表者として維新に立ち向かった西郷隆盛をあげておきます)。反逆者に共通することは、圧倒的な力を持つものに対し、反旗を翻すことでしょうか。もっとも、その翻し方は千差万別の形をとります。大勢が集まって1人の権力者を貶める場合もあれば、一対一で決闘を申し込むような場合もあれば、策略的に近づいて毒を盛る(アサシンに近いですね)といった場合も。一番かっこいいのは一対一の闘いでしょうが、戦略的にはもっとも無謀な行為でもあります。いやはや、かっこよさとスキニーさは別物なんですねぇ…うーん。

さて、学生時代は反旗の翻しすぎで、いろいろな人に迷惑をかけていたなぁと振り返りつつも、未だに反旗を納められない自分を自覚している、迷惑オトコえびすが紹介する一冊はこちら。

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19世紀から20世紀初頭にかけてのフランスの絵画史は正に黄金期である。いや、正確には革命期だと記したほうが適切だろう。1789年にフランス市民革命が勃発してのち、フランスの政治・文化・大衆意識は大きく変革した経緯はよく知られたところであろう。貴族中心社会から大衆中心社会(ブルジョワジー)への一歩がここで始まるわけだが、その門出は何とも危なげなものであったようだ。何せそれまでは従順に上から令に従っていた民衆が、農具・工具を持ち出して革命を起こしたものだから無理もないかろう。一介の市民をなめきっていた貴族が、武器を片手に怒りたけった市民に出くわし蒼白する顔がありありと脳裏に浮かぶ。

さて、そんな激動の時代に描かれた絵画とはいったいどんなものであったのだろうか。少し、その流れを辿ってみたく思う。革命以前、画家の仕事は主として貴族社会から降ってくるのが普通であったようだ。その数は相当な数にのぼり、貴族の名は知らないが画家の名は良く知っている作品にしばしば出会うことしばしばだ。一つのステータスとして、画家に自画像を描かせたのか、もしくは若い時代の美しさを後世に見せ付けるために描かせたのか…まぁ理由はいろいろあろうが、概して画家と貴族のバイパスは相当に強かったようである。
もう一つ忘れてはならないのがアカデミーの存在だ。ルイ14世のもと(実質的には右腕のコルベールによるところが大きいといわれているが)、1648年に設立された絵画彫刻アカデミーでは、古代やルネッサンス時代の絵画の模写が日常的に行われていたようだ…アリストテレスにまで遡る美学をこの時代の学者(画家と位置づけるかは微妙なところだろう)達は追い求めていたのだろうか。なお、この時代のアカデミーの作品に肖像画が多い理由として、絵画の順位付けがなされていたためであることはご存知のことだと思う。絵画としての「出来」以前に、人物を描く肖像画、自然を描く風景画、そして無機物を描く静物画の順番でその作品の価値が決まっていた点に甚だ疑問点を抱く人が多いのではなかろうか…私だけかもしれないが。当時の画家達も同じ様な疑問を持っていたに違いなかろうが、しかし「飯を食う」ためにも、その世界に無理をしてでも馴染まなければいけなかったことは察するに容易なことだ。

市民革命後もアカデミーは存続したが、絵画の世界における権威は次第に衰えていくことになった。貴族文化の惰性で生きていこうにも、ブルジョワジーが政治経済、しいては文化の世界で幅を利かせるにあわせて、絵画の分野も大きな変化に見舞われることとなった。革命以前、アカデミーが主催する「サロン」の入選によって、画家は仕事を貰ってきたわけであるが、革命以後はその系譜から外れる流れが生まれる・・・それが有名な「サロン落選展」である。

今日の絵画の世界で高い評価を受けている作家の多くが、落選展と密接な関係を持っていることは良く知られたところだろう。日本人が大好きな「印象派」の流れが、落選展にあるのも興味深いところである。落選展に集まる作品は、アカデミーの規律に沿わない作品が多かったようだ。代表格であるマネの作品を見れば、「あぁ、なるほど。アカデミーに反旗を翻した作家の新しい活躍の場だったんだ」と納得されることだろう。ただ、マネ自身は、それを表立って言明しなかったようではあるが…ある意味、世渡りの上手いオトコだったと考えられる。

さて、マネの「アバンギャルドさ」を、一層高めた作品を送り出した作家としてクールベがいよう(私が勝手にそう位置づけているのだが)。彼がキャンパスに描いた絵は、どれも「従来の規律・規則」に対し、真っ向から立ち向かっていくものばかりである。オルセー美術館に所蔵されている大作「オルナンの埋葬」から放たれる「妖気」にも似た凄み・批判性は言葉では表しがたい。是非とも生で鑑賞し、絵画が放つ空気感をじっくりと味わっていただければと思う。

思えば、今年は結構な作家の作品が多数海を渡ってやってきたように思う。マネゴッホモネドガドーミエ…みな素晴らしい作品を残した作家の企画展が目白押しだったように思う。なんとも、贅沢な国に生まれたものだなぁと思うばかりだ。
これほど多数の大作が日本で展示することができるのも、全てオルセー美術館の改修のおかげであろう。さて、改修後はどのような姿を見せてくれるのだろう?もっとも、現代アートとの線引きは明確に出してくるとは思われるが、興味深いところである。

※絵画の歴史をたどると、また違った面で作品鑑賞をすることができます。新しい気付きを得て、同じ作品を見ると、不思議と新しいストーリーが頭の中にほわっと浮かんでくるんですね。本当に不思議。そして、なにより知識というものは時の経過と共に変化していくものであります。色んな要素が組み合わさることで、たとえ同じ主題であったとしても、以前のそれとは全く異なる「カタチ」になっているものです。なので、「また同じ作品がくるのか~」と言って、美術館に足を運ばないのは結構勿体無い。年齢を重ねてこそ見えてくるものもあります…っとひよっこの僕が言っても説得力ないですね、すいません。

2010年12月6日月曜日

Is "The World" without Material Existing just only in mind?

さて街のお店は赤と緑と白のクリスマス色でおおわれている今日この頃。一人身の寂しさはどこへやら、何かに向かって猛進している自分にちょこっと酔ってしまったり。ナルシスになっちゃ駄目と言い聞かせておりますが、如何せん自暴自棄な気持ちも入っているのでしょう、そうならざるを得ないところもいろいろとアリ・・・。ともあれ、街行くカップルも幸せ一杯な顔をしている人が多いように感じます。いやはや、それを見ているとこちらも幸せになっちゃうもんだからありがたい。12月は『幸せの伝染病』に幾多もかかることになりそうで、ちょこっと期待しちゃいますね。

さて、幸せの形とはなんぞやと友人に問い詰めて、お前はなんでも考えすぎなんだよとたしなめられつつもやっぱりあれこれ思考を巡らせてしまう、歩くロダンことえびすが紹介する一冊はこちら。

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私の宇宙物理の知識は高校生で止まっている。いや、正確には高校生で学んだ内容の多くを忘れてしまっていることを考えれば、中学校で止まっているといっても間違いではないだろう。若い頃に詰め込んだ知識というものは、しっかりと復習しないとどんどん見知らぬ世界の果てへと進んでしまう。「今、ここ」に引き止めておくためには、相当なエネルギーを費やして引き止めるための力を生み出す必要がある。エネルギーの力への変換効率は年齢と反比例の関係にあるのは良く知られるところだろう。若い頃から、エネルギーを生み出すことに億劫にならず、それを力に変換する経験をたくさん積んできた人はどうやら大成する傾向にあるようだ。少なくとも、私知る限りではその法則が当てはまること、しばしばである。

エネルギーは力に変換される…この法則は物理の世界でしばしばお目にかかるところである。高いところからある物体を落とすと、その物体は位置エネルギーを失い、速度エネルギーを持つこととなる。ニュートンの万有引力によって地球の中心に吸い寄せられる力が働いているから起こることである…みなご存知のエネルギー保存則である。さて、このエネルギー保存の考え方こそ、本書の核として理解しておきたい事項であること、念を押して述べておきたい。ニュートンの古典物理を基とする特殊相対性理論の公式『エネルギ=質量×光速×光速』と『エネルギー保存則』をしっかりと頭に入れて置かないと、路頭に迷うこと請け合いである。

さて、本書の内容を少し紹介していこう。私が最も興味を抱かされたのは、素粒子の種類とその重さについてである。素粒子は粒子の基、つまりは原子の基であるわけだが、どうやらそれにも様々な種類があるらしい。本書では12種類の素粒子について、それぞれの特徴をわかりやすく説明してくれている。ど素人の私が説明するのもなんではあるが、次のようにイメージしていただければよいのではなかろうか。・・・宇宙殿が歳を重ねるつれ素粒子君も歳を重ね、若かりし頃の素粒子君の体重は相当に重かったのだが、歳を重ねるにつれ次第に軽くなっていった・・・という感じであろう。
これ以上小さくすることが出来ないといわれる素粒子、その質量に違いがあるということは理解に苦しむところだが、これは実験を経て確認されてた事実だとのこと。そして、実験と理論の誤差がまたもの凄く小さい…しばしば想うのだが、幾多の分野にわたる『理論式』を最初に考えた学者は真の天才であろう。

しばしば素粒子の世界を取り上げた書籍と出会うと、私のような凡人の頭には理解できない点が多々出てくるのだが、本書では著者の筆力に助けられ、何とか路頭に迷うことなく(とは言っても疑問点がいたるところで噴出したのも事実であるが)読み終えることができたように思う。興味をそそりつつ、上手く素粒子の世界に誘う筆者の心遣いには、感謝感謝の思いで一杯だ。宇宙について、一歩深い理解を得たい人にはもってこいの一冊であること、自信を持って断言する。

※いやはや、久しぶりに読み応えのある書籍に出会いました。素粒子の世界から、暗黒物質、宇宙の始まりにまで話は展開していくため、この世界のど素人である僕は、何度も何度も前のページを振り返らざるをえませんでした。が、めんどくさがらずに何度も振り返れば、壮大な宇宙観を学ばせていただくことができます。いや、本当に宇宙は深いです・・・。本書を読み終える頃に、物質では測定できない世界の存在を頭に思い描く人も多々いらっしゃるのではと思った次第です。パラレルワールドではなく、全くの異世界・・・物質の概念では捉えきれない世界がある・・・と考えてみたり。素粒子の理解以上のものを本書からいただくことができたのは本当に幸運でした。心より感謝いたします。

2010年12月4日土曜日

To Build a Team, Tilt a Head.

不思議なことは日常の至る所に転がっているものでありまして…それに気付き、「楽しいなぁ」と感じれるのか、それに気付かず、「変化が無くてつまんないなぁ」と日々を過ごすのでは勿体ない。少し目をきょろきょろさせてみると、街の意外な側面が見えてきたりするものです。え?例えば?そうですねぇ、某線の車両が『大きくなっていたこと』に気付くとか。で、その理由を色々考えるわけでありまして…何%容積量が増えたのか、それに伴いどれほどの経済効果が見込めるのか(この場合だと、朝の通勤ラッシュの居心地のよさでありましょうが)?開発体力がある=企業のキャッシュには余裕があるのか?…そういったことに思いを馳せているだけで、『あらもう2時間もたっちゃった』なんてことはざらでありまして。時間の有効活用ができていないといわれればそれまでなんですけれどね。

さて、ぼやぼやと思考をめぐらす癖が抜けず、傍目にはぼけーッとしている変わった人と思われているに違いないと自覚しつつも改善しようという意思がなかなか湧いてこない自称思想家えびすが紹介する一冊はこちら。

商品の詳細

巷には自己啓発書がたくさんある。気分が落ち込んだとき、もやもやした時、叱咤激励してもらい時にしばしば手にすることだと思う。書籍の中に散りばめ羅列されている言葉の数々は、琴線にふれる純真さと、スパッと言い切る素直さを思い出させてくれるものだ。

ただ、注意すべき点もある。あまりに書籍に感化されすぎて、自分を過信し、無闇・無謀に物事に突進してしまうことだ。「この人はこんな苦労をしたのか!それに比べれば僕の人生なんかたいした物ではないなぁ…」「学なんか無くてもでっかいことはできる!」「気力とヴィジョンさえ失わなければ、未来は明るい!」etc。外から聞く分にはどれも「カッコイイ言葉」であろう。しかし、ちょっと待って欲しい。その言葉はかっこいいかもしれないが、実際に何かを成し遂げるのはとても難しいことだ。言うは易し、するは難しとはよく言ったもので、コトを成すことの苦労については相当な覚悟を持つべきであろう…若造の私が言うのもなんではあるのだが。

さて、そんな辛口の自論をひっさげた上で本書の内容を紐解いていきたいと思う。
本書は全部で26章からなっており、その内容は「チームの中にあって自分はどう動くべきか」を細分化して紹介・解説してくれている。率先してするべきこと、チームにあってはすべきでないこと、何を目標とすべきであるのか、意志の統一をはかるにはどうすべきかetc。個人のモチベーションをあげるだけではなく、周りの人を上手く巻き込みつつ、良い流れ(モチベーション)を自分のチームに生み出すにはどうすればいいのかを学ぶことができるだろう。「スラムダンク」という日本が誇る巨作の一場面、一場面を題材にしていることもあり、26章全て異なる「あるべき姿」について腑に落ちてくるのを感じ取れることだろうと思う。

もしもこの書籍にある内容を、全ての企業のマネジメント層が実行していれば、日本社会は今以上に発展を極めていたかもしれないし、若手が働きやすい環境構築にも今以上に関心を抱いていたかもしれない。…まぁ、書籍の内容をそっくりそのまま受け取って、ひょんなことで化けの皮が剥がれた上司を見るのもなんだかなぁという思いを抱かざるをえないわけであるが。

※さて、本書は結構な版数が出ている書籍であります。10年以上の書籍なんですが、書いてあることは今の時代にも十分通用するものでありましょう。とりわけ、チームを考えたときに、自身がどういったポジションで動くべきなのかについて、「相手が嬉しい・楽になる」ことを第一に考えて述べられている点は見逃してはならず、これは昨今のマネジメントにも当てはまることで、どのマネジメント層も手をこまねいていることなのではないでしょうか。人間の進歩に合わせ、人材は過去にも増して多様化しており、上手く纏め上げるには相当な「チカラ」が要求されます。多様化の功罪については少し掘り下げても面白いかもしれません。

2010年12月1日水曜日

有限な空間と展示と。

「考えても考えても答えが出ない。そんな時は一晩寝かせるといいよ~」と巷で耳にします。これ、的を得ているなぁと実感することしばしば。僕はどちらかというと、考えに考えてそれでも考えるという人間でしたから、答えを出すに当たって「思考をストップさせる」コトとは真逆の方法論を歩んできました。しかし、最近は先人・偉人の言葉を信じ、2、3時間考えても答えが出てこな~い、なんて時は一先ず寝かせることにしています。すると不思議なもので、夢の中に答えのヒントが現れたり、何気なくのほほんとしている時に答えが頭に浮かんだりするんですねぇ…本当に不思議なんですけれど。ただ、一点注意しておかなければいけないのは、浮かんできたことを「メモに落とす」ことを怠ると、折角浮かんだ答えがいつの間にか頭の中から消えうせてしまっていることがよくあります。この時の悔しさといったらそれはそれは…。その悔しさを幾度か経験・反省しまして、ようやっと最近になって小さなメモ帳や携帯電話に頭に浮かび上がってきた答えを書き落とす癖をつけるようになりました…あ、これも先人・偉人がおっしゃっていたお言葉ですね。ははぁー。

さて、メモを取るもその字の汚さのゆえ、誰かに見られようとも判読不能だろうと軽い優越感に浸りつつも、実社会では綺麗な字を書くことの大切さを痛感させられる場面に出会うたびに、どうすればいいのかと頭を悩ます不器用なオトコえびすが紹介する一本はこちら。


『カンディンスキーと青騎士』。果たしてどれほどの人が画家『カンディンスキー』と芸術誌『青騎士』を知っているだろうか?私が最初にカンディンスキーの作品と出会ったのは、今から7年前の森美術館『HAPPINESS』展と記憶している。『馬上の二人』という作品だったかと思うが、作品から醸しだされる雰囲気は他の作品とはかなり異をことにしていたこと記憶している。モネ(モンティーブ岬)やマネ(草上の食卓…の習作)の作品もあったが、『馬上の二人』ほどには良さを感じ取ることができなかった…。一体何に惹かれていたのか?今回の展示を訪れた理由の一つに、私が「カンディンスキー」に興味を抱くに至ったルーツ(私の場合は抽象画ではなく、具象画から興味を抱くようになった)を探る目的もあった。

今回の展示はカンディンスキーが画家を志した後、一つの抽象画の世界を築きあげるに至る過程で生みだされた作品を中心に構成されている。有名な抽象画シリーズ(?)「コンポジション」の作品は一点のみであり、これを目当てに来館すると痛い目にあうのでご注意。ただ、彼が初期に残した作品の中には「コンポジション」に勝るとも劣らない作品もあること、述べておきたい。上で紹介した『馬上の二人』は展示されていなかったが、これに肩を並べる(私の主観だが)魅力を作品『花嫁』に感じた。二つの作品に共通する魅力は、その技法であろうか。

『花嫁』

ステンドグラスを通して対象を捉えたかのように、多数の『黒い輪郭』で仕切られた作品には、独特の世界観が築かれている。一つ一つの輪郭の内で生まれる物語とでも言うべきだろうか…隣り合うストーリーは一見異なる世界を築いている、いや築いているのは間違いないんだろうが、遠めにみると不思議と異なる世界が「一つの世界」を創りあげている。なんとも幻想的で奥ゆかしささえ感じうるこの作風の背景には何が隠されているのか?一つの要素として考えられるのが、カンディンスキーとともに旅(不倫旅行?)をした愛人ミュンターの影響であろう(当のカンディンスキーは否定しているようだが)。彼女もまた画家であり、透明な物質性を持つ「ガラス」に強く魅了されたと紹介されている。彼女はカンディンスキーと旅をする過程で、様々なガラス作品と触れ合ったに違いない。その中には勿論、異なる色味を帯びた多数のガラスを、黒い境界線で区分けした「ステンドグラス」の作品もあったことだろうと思う。彼女の傍にいたカンディンスキーが、ステンドグラスに興味を抱いたのかは定かではないが、少なくとも無意識下においてなんらかの影響を受けたことだろう。『馬上の二人』『花嫁』を見る限り、その印象はぬぐえない。

私がカンディンスキーに惹かれるに至ったルーツについても触れておこう。今回の展示を経て、初期の作品で感銘を受けた作品に共通するのは、どうやら『輪郭線』にあることがわかった。黒い枠のうちに描く世界、その閉じた世界に何を描くのか。閉じられた世界だからこそ、自分を思いっきり出し切ることができる。しかし、それはあくまで一つの枠の内の事でしかなく、他からの干渉・惹起は期待できない。もちろん、量子の世界まで降りていけば、話は違ってくるのだが、そこまでフレームを広げると収拾がつかなくなってしまうのは火を見るより明らかなことだ。…さて、この輪郭線について思うことを少々綴り筆をおかせて頂こう。纏まらない思考を載せるのも恐縮ではあるが、しばしお付き合い願いたい。
…哲学・社会学の世界にあしを踏み込んだことのある人は、しばしばTheme:「芸術は現実を模すのか、それとも現実が芸術を模すのか」について思考をめぐらせたことがあるのではなかろうか。私も素人見ながら双方の立場から各論を構築した記憶がある…どちらの論ももう一方の論をもって論破できる類の「論」しかたてられなかったのが苦い思い出だ。ただ、双方に共通する確かな要素があることは否定しえないだろう。それは、どちらの過程を経たとしても、その「模し方」は一様な相貌をもちえないということである。言うなれば、模した対象を見る人、その人の解釈は多様なfaceを帯びるがために対象を一意として囲うことはできえないということだ。しこうして、この多様な解釈のうちに見出す「囲い」、これこそまさにカンディンスキーの作品にみる『輪郭線』に共通するモノではなかろうか。一つの世界を区切る、その世界は自身の思考のうちにある限り、外からの干渉を受けることはない…ここで、キャンパスのセカイを離れ、実世界の輪郭線をなぞると何が見えてくるだろう?戦争・ジェンダー・貧困etc…どうやら実セカイの個と総の境界線は「離れた場所」からしか見出せないらしい…芸術のそれが示すところと同じように。

※久しぶりの三菱一号館でした。数回の来館を経て感じたのが、「内装が固定されていること」と企画展の選択の難しさであります。森美術館や西洋美術館のような「白い壁」と「広い空間」を確保できるようであれば、企画展のジャンルも様々に選択できますが、三菱一号館は「古い内装を活かした空間」の内で何を展示するのかを決めなければいけません。「制限付き」の中で何を展示するのか、その展示の魅力を社会一般の人にどうリーチさせるのか…広告は勿論のこと、展示内容がどれほどいいかが成功の鍵を握るのは言うまでもありません。何せ、芸術系の口コミのはやさと強さは相当なものでありますから。今後どういった方向性で美術館を運営していくのか、『三菱』の手腕の見せ所に期待するばかりです。

2010年11月27日土曜日

What's the Lack of Skill in Descendants of Past-time...

12月も目前ですね。師も走る季節とは言いますが、子は呼吸困難になるほど全力で走り続けていることと存じます。良い形で一年を終える、これは結構大切なことです。もし、今年が良い年であった人は、来年もその良さが続くという期待以上に、今の良い流れを活かして何か一つじっくり取組んでみよう!と考えるのもいいことでしょう。また、あんまりよろしくない一年だったなぁと思いの方は、心機一転良い流れを作るためにも、一年を振り返りつつ、来年の豊富を組み立ててはいかがでしょうか?豊富というと、結構その場の流れで決めてしまうことかと思いますが、しっかりと構え、これは達成するぞ!という意志を吹き込める抱負を時間をかけて考えてみることをお勧めいたします。達成した時の感慨深さは相当なものだとおもいます。

さて、去年の抱負を振り返りつつ、成し遂げられなかったことを成し遂げることにやっきになりつつも、空回りばかりが目立つ、自称「言明の回転車」えびすが紹介する一冊はこちら。

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これまでも、政治について古今東西様々な考え方を持つ学者の書籍が出版されてきた。ウェーバーの「職業としての政治」、マキャベリの「君主論」、アダムスミスの「国富論」etc。私が本ブログで紹介させていただいた政治に関係する書籍は、政治学のほんの一角を占めるに過ぎない。この学問の世界は想像以上に様々な学問と関係を持っているのは皆よくご存知の通りである。何せ、政治が包括するフレームの広さは、国家の統制、国家間権力争い、経済政策、教育改善、科学振興etc…およそ、数え上げればきりがないほどの分野にわたって、直接ではないにせよ影響を与えているのは間違いない。

本書は、近代以降の政治の流れ、各々の組織の構成・目的、古典にみる政治感とバラエティに富んだ内容である。しかし、各論ともにすっきりと腑に落ちる内容と明快さを備えており、政治学について少し深く知りたい人にはもってこいの一冊であろう。各論で興味を持った箇所・内容があれば、そこに記載されている参考文献等をあさり、いっそう深い理解へと繋げる楽しみも生まれることであろう。

さて、早速本書に収められている言論について紹介していこう。政治家の言論は、一国の未来、国民の将来を左右する効力を持つ。であるから、私が本書で展開しているような軽々しい言葉の羅列などは到底できるものではない。言論が機能を果たすには、入念な計算のもとつくりあげられたメッセージと今・ここのタイミングが必要となる。さて、翻って今の政治家はどうだろうか?小泉首相以降の政治家を見ていると、どこか彼らの素質に疑問点をつけざるを得ないと感じるのは私だけではないだろう。ただ、もう一点、注意すべきことはある。それは『また失言』『リーダー性の欠如』『信念の無さ』を押し付けている我われが、どういったポジションで何を考えて発言しているかについてだ。安全な場所から小石を投げるのは楽で良いが、石を避ければ非難され、受け止めれば傷つくポジションにいる人のことも考えるべきであろう。もし、丸山真男が今の時代に生きていれば、即刻議会の「総辞職」を要請するのはもちろんのこと、選挙制度・政治家育成の改革を断行するに違いない…帝国日本とまではいかないにせよ、幾分過激な政治家が多々現れることであろう。同時に国民の教育・政治に対する考えかたについても、色々と変更点を加えなければならない。

最後に、上述の延長線上で個人的に想うことを述べさせていただきたい。それは、昨今の「勢いで新しいことに身を投げる若者について」である。彼らの新しいことへ挑戦しよう!という意気込みは素晴らしい点、私も認めよう。しかし、歳を重ね、思考を重ねることなく、一面的にしか物事を見ようとしないままに、ふらふらと地に足をつけぬまま、飛び出す…日本社会が丈夫な基盤を持っているのを鑑みると、いささか勿体無い気がしないでもない。少なくとも、一つの分野で何かしらの結果を残してから外に飛び出して欲しいと願う「大老」の意は、なかなか汲み取られることがないのではないだろうか。ある著名人がいうには、社会のシステムを理解し、少なくとも一つの強みを持ったうえで新しい世界に飛び込む人は成功するだろうが、勢いだけの人はどうも上手くいかない傾向がある。仕組みをしっかりと考えること、その仕組みを回すにはどういった資源が必要なのか、どれほど確保できそうなのか、自身でカバーできる範囲はどれくらいかまで把握すること。そこまで理解したうえで新しいことに取り組む…明治維新の獅子達にあって今、新しいことに挑戦する人たちにないものは何か?時代が要請するもの、人として大切なものは、外から見て・聞いても「カッコイイ」。しかし、渋沢栄一や福沢諭吉、岩崎弥太郎らに学ぶべき「もの」も見逃してはほしくないと思うばかりである。

※大手オンライン書店のレビューでは色々と書かれております。確かに、本書の内容は明確な答え・解決方法などが記されているわけではなりません。どちらかというと、論文らしく各々の取り組み(マニフェストや派閥)がなぜつくられたのか、どういった弱点があるのか、その効果はどれほどであったのかを客観的に評するものとなっています。普段、論文を読むことに慣れている学者さんの目から見れば、すーっと納得いく書籍となるでしょうが、なんらかの答えを書籍に求める人たち(僕もこっち側の人間でしょうけれど)には、これをせよ!こうあるために、こうかえよ!といった主観的な文言は収められていないため、幾分有用な書籍と感じ取れないのも事実であります。ただ、過去の事例がどういった成り立ちを持っているのか、構造的にどこがよろしくないのかを知るには素晴らしい内容を備えております。事例・事実の背景をみんなが知ったうえで、それに対してどのような流れを築いていけばよいのかを考えること…「あなたまかせ」から脱却せよ!と暗にほのめかしているように感じとれました。丸山真男、ハンナアーレント、ウェーバー、マキャベッリ辺りの著作を1,2冊かじっておくと内容理解が深まるのではないかと思います…ただ、彼らの書籍を読むのは結構骨が折れるのも事実であります。

2010年11月24日水曜日

Make your life for yourself !

継続して読書に取組んでいると、不思議と「変な癖」がついてくるように感じます。それがいいものであるのか、よろしくないものであるのかは本人にはわかりません…ですので、ちょこっとやっかいなんですね。僕の癖も結構強いものであるということを、先輩諸兄と和気藹々談笑している時に痛感したしだいであります。え、癖の内容?それはそれは、僕の書評をご覧になれば一目瞭然の内容です…ので、詳しくは述べません。最近はフィードバックをしてくれる人が、たくさんもてることのありがたみを感じている次第です。持つべきものはなんとやら。もはや、友の範囲がどこまで広がるのか自分ではわからない、そんな感じですね。

さて、嬉しいことも厳しいことも、忌憚なくズバズバ語ってくれる人の存在に頼ってばかりで、成長の速度が著しく遅い和製おとこ、えびすが紹介する一冊はこちら。

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とうとう、この書籍を紹介する日が来たかと思うと感無量の思いになる。私のようなものが紹介するのもなんだかなぁという思いもあるのだが…そこはご容赦いただきたい。本批評を通読し、もう一度本書を手にとり、思考にふけることを期待して、本書を紹介させて頂きたく思う。

さて、様々な学問に対して全霊をかけて取組んだ福沢諭吉(以下先生)が、後世に残した財産として一級の価値がある本書は、社会に出た人間にはひどく心打たれる言葉で溢れている。また、時に厳しい口調で、我われが新しいことに取組む姿勢のあり方・先人を越えることの必然性・明晰な観察力をもちつつ様々な物事に触れる重要性について説かれている。だらだらとした人生を過ごしているものにとっては、ぐさりと心に突き刺さる言葉が至るところに散りばめられているのも事実だろう。

学問はいかにしてあるべきか。先生が本書で伝えたかったこと、それは学問をする意義ではないだろうか。今の社会にあっては、「学問など実社会で使えるしろものではない」としばしば耳にする。しかし、本書で先生が述べるように、実社会における物事に対し「批判」の目を通して、それが正しいものなのか間違ったものなのかを判断することができる力を養う、という点で学問ほど有益なものは無いはずだ。論理的に確固とした位置づけを持つ「学問」は、実社会で獲得した「経験知」を補強するものとしてこの上なく有用なものであると私自身は考えている。というのも、たとえ素晴らしい経験を積んだとしても、経験知だけではぐらぐらと揺れ動き、どこからともなくやってきた一撃にバタンと倒されてしまう恐れがあるからだ。本書に記された先生の考えを汲んでも、経験に基づき、芯の通った体験知を学問で補強しつつ、様々な分野で応用していくことを読者に期待し、実践して欲しいと願う姿がありありと浮かび上がってくる。

学問以外についても、はっとさせられる洞察に多々出逢う。人付き合いの作法、交際範囲の広げ方とその効用、人望を得るためには何をなすべきか…etc。これらを方法論としてとらえられる人もいようが、それに求められる水準は巷に転がるビジネス関連のHow to本のそれを大きく凌駕していることは容易に理解されたい。『言うは易し、行うは難し』。本書に収められている名言・格言を実行しうる猛者が、本書を通じて多数輩出されることを期待してやまない。

※学問の進めは発売された当時、大ベストセラーとなったことで有名です。10人に1人は本書を読んだとか。そのお蔭もあってか、明治維新の大躍進があったのではないでしょうか。今の日本にも同じ風は起こせないものでしょうか。版権も切れて無償で手に入れることも可能な「学問のすすめ」、著者名と作品名だけではなく、その中身をこそ多くの人に伝えたいものであります。

2010年11月22日月曜日

Beyond the Words, We should Proceed now.

野郎と二人で、洒落たお店で『百年梅酒』の味に感嘆している僕に、ワインがさまになる友人が「男の生きる道とはどんなもんや?」と友人が唐突に問い、「信念を持ってまっすぐ生きることじゃないですかねぇ」と適当にあしらうと、「信念すらも時流と共に変わるもんやろ。それでええんか?」と返され、うむむ・・・と30分ほど考え込んでしまいました。確かに、どのような強い人でも信念は『時流とともに』変化してきたはずです。過去の偉人を鑑みてもそう。ただし、「根幹」は変わっていません。変化してきたのは、幹の先の枝葉たちです。これを木にたとえるならば、春に青々と茂った葉が、秋を迎えると赤く染まり、冬になって枯れ落ちる。青年時代の信念なるもの、とくにより現実世界に近いところのものは短い期間で塗り替えられていくものです。幹ではなく、葉がぐるぐると消滅・再生を繰り返す…信念も葉と同じ様に、消滅・再生を繰り返すものではないかと。思想というものの可変係数は往々にして大きいものであります。

さて、こまごまとしたことばかり口にしていると、変人あつかいされちゃいますよ。と学生に窘められ、既に多くの人から変人扱いされている身としては、なんとも返し方に困りつつもacknowledgeを返した心優しい男えびすが紹介する一冊はこちら。

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新渡戸稲造の「武士道」を知らないという人はいないだろう。が、その原著が英語であるということを知る人は少ない。今回紹介する武士道は初版の出版が2005年と新しく、岩波のそれ(旧言葉使いが随所に見られる)に比べてかなり読みやすい内容となっている。ただ、若干の省略が加えられている点は否めないため、「武士道」をしっかりと読み込みたいのであれば、原著に当たるのがよさそうだ。

さて、武士道とはなんぞや?言葉ではそれを知っているが、その中身を知らないということは多々ある。表面的ない理解で満足しうるならば、国語辞典でも引けばよい(なお、私は2009年以降のウィキペディアは侮れないと感じている)。いつ生まれて、このような思いを抱いて、本書を上梓したと。ただ、もう少し深いところの理解を手に入れたいという思いを持つ人もいよう(私はその1人だ)。本書は現代に生きる人からみて、『武士道』とはどういったもののであるかを簡潔かつ明瞭な説明で持って紹介している。私のような初学者にはもってこいの一冊といって過言ではないだろう。

さて、武士道の中身であるが、そこには「かつての『日本人』はこうあった」という第二次世界大戦前の文化背景を垣間見ることができる点、気付かれたい。弱気を助け、強気を挫く精神、失敗に対しては死をも問わない覚悟、ぶれない正義の心。並べてみると、今の日本人にかけている要素ばかりが目立つことに気がつく…いや、反対の行動をとっていると言っても過言ではない。弱い者いじめ、挑戦からの逃避、芯のない揺れ動く心…誹謗中傷を並べる気は毛頭ないのだが、今の日本社会を鑑みると、武士道が書かれた時代の人々の心情・行動とは『真逆の方向』に向かっていると言わざるを得ない。

しかし、上記に述べた内容について早急な断定を下すのは危険だ。私自身の実体験に照らし合わせ、武士道に通ずる心を持っている人々に多々出会うのも事実であるからだ。もちろん、昔の武士道をそのままの形で実践している人は現代社会にいないだろう(いたら即逮捕されるに違いない)。しかし、武士道に書かれている「人間として生きていく姿勢」に多くを学び、間接的・自己流に取り入れている人はたくさんいるように思う。小さな思いやり、間違ったことに対する疑問、弱い人を恥ずかしながら助ける心…。こういった『小さいけれど、誰かのためを思って』行動に移す人に出くわすと、心がほっこりするものだ。100の奇麗事を口で並べるよりも、1の小さな行動で誰かのためになる…そんな心を持つことができる日本人、まだまだ捨てたものではない。

※本書によると、日露戦争で日本が勝利を収めた陰に、『武士道』が当時のアメリカ大統領ルーズベルトの琴線に触れ、日本人に対し好印象を抱き、調停役を快く引き受けてくれた事実があるそうです。一冊の書が一国の将来を左右す…なんとも、スケールが大きい話ですが、過去を遡ると素晴らしい業績を残した偉人、歴史的な変革を左右した事件の裏には、いつも『書物』の陰を感じざるを得ません。これらの書物が共通にもつ特徴、それは『誰かの琴線に触れる言葉』がそこに書かれているということです。言葉の力…今一度、その力を見直す必要があるのかも知れません。こと、技巧的な遊びではなく、魂を揺す振る言葉の見直しについてであります。もちろん、言葉の先にある、行動こそ最も見習わなければいけないんですがね。

2010年11月19日金曜日

A myth with a notion of death gives...

TVを見なくなってから早くも2年が経過しようとしております。この生活が板につくと、かなり有効に時間を使うことができます。読書しかり、ブログ更新しかり、仕事しかり。僕も昔はTVにaddictされていました。意味もなく、ただ画面をつけているだけ…なぜか家にいるとTVをつけていないと「落ち着かない」そんな感じでした。けれど、歳を重ねるとともに、番組内容の程度が低く感じ取られるようになり(いや、いい番組もたくさんあるんですけれど)、コメンテーターの意見もどうも腑に落ちなくなってきたと…そこで実験として「TVの電源を2週間つけない生活をしよう」と思い立ち、実践に移したところ、2週間が2年になっちゃったと。いやはや、今度はTVを見ないことにaddictされちゃったようです。

さて、TVを見なくなれば視力が良くなる・回復するだろうと、安易に考え、読書ばかりにふけっていたらいつのまにやら視力の低下がとんでもないことになってしまい、どうしたものかと未来の展望が霞む思いに苛まされえる男えびすが紹介する一冊はこちら。

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ウルク城の暴君として君臨する半神半人のギルガメシュ。彼の横暴振りをおさめるために創られたエンキドゥとの闘いと深い友情。そして、森の怪物フンババとの死闘とエンキドゥの死。親友の死を省みての自身の死…ギルガメシュ叙事詩は非常に「人間臭い」物語構成になっている。現存する最古の文学作品であるこの叙事詩が神話の形をとっていない点は興味深い。英雄を称ええる物語の多くは、その不死・成功・繁栄をもって物語を終えるものだが、この叙事詩にあっては、ギルガメシュが「死の恐怖」に直面し、葛藤を重ねつつも「死」に対して自身の内投稿を公開でけじめをつけるという類の物語になっている。

さて、この物語が語られた場面とはどんなふうであったのだろうか?繁栄を極めた都市の頂点に君臨する王の目前で、このような「死の物語」を語ること、それは甚だ「無礼」にあたるものであろう。信頼できる者の死、権力の所在とは何か、そして王すらも死からは逃れられないと言う事実。精神面にマイナスの要素ばかりをもたらすに違いないギルガメシュ叙事詩ならば、発禁・処分という訓令が下ってもいいはずだ。それにもかかわらず、この叙事詩には多くの版が存在している。その理由は何か?私が考えつく理由としては、死に絶えゆく王への「レクイエム」として永きに渡り伝承されてきたのではないかといったところか。「英雄さえも死からは逃れられなかった。王である貴方も死からは逃れられない。しかし、死を迎える前にできることはたくさんある。そう、太古の英雄ギルガメシュが成し遂げたように…」

一つの叙事詩から何を受け取るか。そこに描かれた物語は自身の人生にどのような教訓を与えてくれるのか。ただ、漠然と読み進めるのも一つの読書法だが、そこに自身の姿を投影し、「はて、我も同じ道をたどらんや」と自問を重ねていく読書法もある。「書を読むこと」から「書を我が人生に活かすこと」…その効果は実践した者にしかわからないものであり、同時に味わえないものである。

※久しぶりの物語系(とはいっても文学作品ですが)の書評でした。でも評すると言うよりは、そこから何を読み取ろうかという僕の読書法の紹介文になっちゃいましたね。書を読むことから一歩踏み出して書を吟味すること・書を活かすことへ、書物のvirtue(byアリストテレス)は本来そうあるべきものでしょう。僕自身、まだまだできていないことなんですけれど。

2010年11月15日月曜日

いきとしいけるもののために。

11月も半ば、今年もあと一ヵ月半を残すところとなりました。街にはちらほらと冬の景色を見かけることも多くなってきました。何せ、12月から2月にかけては「記念日」ラッシュですからね。クリスマスに始まって、大晦日・元旦、成人式そしてバレンタインデー。恋人達にとっては大忙しの季節の到来です。え?僕ですか?もちろん暇に決まっているじゃありませんか。巷では「持つべきものは友」といいますが、僕としては友の後ろに恋人も入れるべきかと。いや、ただの戯言として受け取ってくださいませ…。


さて、秋の終わりの茜空に、哀愁の思いを投射しつつ、明日があるさとポジティブシンキングに浸りたい思いで一杯の独男えびすが紹介する一冊はこちら。


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我われがデザインに求めるものは何か。デザインが醸し出すものとは一体何か。そもそも、何を持ってデザインと定義するのか…。問いを重ねれば重ねるほどその本質は見えにくくなる。逆説的ではあるが、知れば知るほど本質から遠ざかっているかのように感じられてくる。このような経験をされた人は、相当な猛者であるに違いない。一人夜中まで物思いに耽る…あぁでもない、こうでもない、これはどうだ?いや違う、あの考え方はどうだったか?応用はできないか?いやだめだ…気付けば窓から光が指し込んでいたという経験を持つ方もいられるだろう。

本書は、デザインの起源に始まり、それに向き合ってきた人たちの思想・哲学、人間が生きることとそこに潜むデザインのかけらについて、美しくも切れのある論説を展開してくれる。肉体的経験からデザインに落とし込む方法、精神的経験をデザインに造り上げていく過程、デザインが生まれる過程は、同じ時代に生きた芸術家たちの間でも様々である。

さて、今回は20世紀後半以降のデザインに焦点を当てて本書を紐解いていこう。この時代にデザインは産業・学問・社会でどのようなポジションを獲得してきたか?産業としてはプロダクトにその変遷を見ることができる。視覚的な快適さ・機能的な美・周囲とのマッチング…根幹にある「理想のデザイン」そのものは19世紀のそれと大きく変わっていないように感じる。そして、学問の世界で「デザイン」が適用される『フレーム』の枠がぐっと広がったことは、非常に興味深いと同時に注意を払うべきことだ。生態学、人類学、工学、医学、天文学…およそ、全ての分野において「デザイン」なる言葉はなんらかのポジションを獲得しているものと思う。これほどまでに広範にデザインが拡張して用いられるに至った背景には、単に「響きがかっこいいから」という理由もあるだろうが、各々の分野が提唱する「デザイン」は相当に奥が深い点も見逃してはならない。私が研究していた分野でいう「デザイン」とは、使用環境(水環境・高温環境・高湿度環境・応力振幅環境)に応じて最適なマテリアルを設計するというもの。近年では複合材料(Carbon Fiber Reinforced Polymerとか)の研究における材料設計を「デザイン」するといった具合に使っていた記憶がある。

一言にデザインといっても、それが言い表すところは各学問・産業分野で千差万別であろう。しかし、全てのデザインには共通するものもある。それは、「誰かのために・何かのために役立てたい」という心がそこに内包されていることである。個々の小集団単位で進化・成長を続けるデザインの「木」たちが集まり、一つのまとまりとして「林」へと成長し、長い年月を経て「森」へと成長する…なるほど、デザインという言葉がもつ魔力には心躍らされるわけだ。

※おもえば僕の研究室も「~デザイン研究室」という冠名を持っていました。学問の世界でデザインはどんな形で用いられているのかを実例で示したく。M. AshbyというMaterial Scienceの世界で高名な学者が創りあげた『Ashby Chart』を紹介いたします。
File:Ashby plot big.jpg

このChartは数式を基に、使用目的にあわせてどのようなMaterialがどれほどの機能を備えるかをわかりやすいfigureに落とし込んだものです。上の図ではヤング率と密度の関係を示しています。ちょっとマニアックな世界なんで、中身は割愛いたします…話し出すと止まりませんから(笑)。Ashby先生には実用的かつ、理解しやすい図を作ることで、実学の世界でも大いに活用してもらいたい思いがあったのでしょう。科学者の「愛」を感じ取ることが出来る素晴らしいChartであり、学問から実学への橋渡しを上手く成し遂げた実例として、見習うべきところが多々あります。おのれのフィールドで積上げてきた知識・技術を他者のフィールドへ応用する…理想の形ですが、これがなかなか難しい。自信も精進せねばと思う次第であります。

2010年11月13日土曜日

New face and inspiration at the same time !

身辺が忙しくなると、日常生活のバランスが崩れることありますよね?最近はこなさなければいけないタスクが増えてきており、あな辛しなスケジュールになっちゃっています。うむ、自己責任。突如として幸運が舞い込んできたとして(例えば恋人が見つかるとか♪)、この状態だとそれはそれはもう、残念な結果になるのが目に見えてしまいます…はぁ。デキル男ならば、ホイホイとこなすことができるのでしょうけれど、デキナイ男の代表格である僕には、そのような余裕など全く無いわけでありまして…。成長を臨むだけで行動を起こさないようではだめだ!と自分に活を入れる毎日を送っております。

さて、行動が大切だ!といいつつ、びびって自ら行動をとることに躊躇してばかりの小心者えびすが紹介する一冊はこちら。

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日本人による日本論、欧米人による日本論はしばしばよく目にするところだ。前者であれば、古くは新渡戸稲造の『武士道』、近年であれば内田樹の『日本辺境論』あたりが参考になる。後者であれば、ルース・ベネディクトの『菊と刀』、ロラン・バルトの『表徴の帝国』(本人は日本論ではないと述べているが)が有名であろう。私自身、これら著作については「なるほど」と思わされるところが多々あった。とりわけ、『表徴の帝国』には舌を唸らされたものだ。

さて、アジア人による日本論にはお目にかかったことがある人は何人ぐらいいるだろうか?私自身について述べれば、客観的な視点から、その生活スタイル、観念・思想、歴史・文化背景について分析した書籍に出会った記憶は皆無だ。であるので、今回本書と出会えた(韓国と日本の比較)のは非常に素晴らしい糧となった。読了後、「自身、よくもまぁ隣国の声を聞かずしてどうして『日本論』を語ってきたものだな」と自戒の念にかられた次第である。また、この世に行き渡る『知の海の広大さ』を改めて感じ取ることができた点においても、本書には感謝しきれない。

本書の素晴らしい点、それは今まで「日本独自のもの」と考えられてきたことの多くが、実は層ではなかったということを教えてくれる。また、日本人の自然観についても、それが「本来の自然」そのものを取り入れる類のものではなく、なかば「力ずく」で取り入れてきたという解釈は私の目に新しく映ったものだ。著者がとりあげている日本の石庭について当てはめると、石庭にみられる世界、それは宇宙・自然界を「手ごろな場所」と「手ごろな大きさ」に圧縮したものであり、そのためにもの凄い労力が費やされているとのことだ。なるほど、日本人は西洋人のように「自然を支配しよう」という意気込みはなかったが、「自然を手元に置いて楽しもう」とした点で、西洋人と同じく「力ずく」で自然に手を加えてきたのは間違いなさそうである。

また、扇子の解釈についても面白い論を展開している。扇子は外部に漂う様々な事象に触れ合い、扇ぐ行為を通して、外部の事象を要約することができる道具であると述べる。また、小さく「縮める」ことができるので、どこへでも持ち運べることができ、かつ、不意をついて取り出すことができる道具でもある。「要約性」・「携帯性」・「隠遁性」…日本人が得意とする能力の多くが扇子という一つの道具に集約されていること、理解できよう。

その他、茶・文楽・家紋・食べ物に関しても、鋭い切れ味ある論を展開している。日本について多角的な視点を学びたいという人は是非とも本書を取っていただきたい。欧米人の考える『ニホン』とは、一味も二味も異なる『日本像』を垣間見ることができるに違いない。

※改めて多角的な視点を取り入れることの大切さを思い知らされました。同時に、自分の中で、割れた茶碗に対し「割れた茶碗を繋ぎ合わせる金・漆に、モノに宿る魂」なるものを見出すことができました。見出した内容を記すと、次のようになります…【茶碗の修復が目指すのは、「割れた瞬間の形態」…割れた瞬間にモノから「魂」が抜け出すと考えると、修復の際に用いる金・漆は魂そのものを表現しているものではないか】…うーん、もう少し詰めて論に仕上げたいところですね。

2010年11月10日水曜日

My Suspicious eye on the enlightenment in deep consideration

空間の演出と創造性の喚起についてしばしば考えさせられます。最近は専ら広い空間の下で色々と思念を馳せているのですが、これがどうも狭くて窮屈な場所より、ひらめきがバンバン生まれてくるような気がするんですねぇ。家で机に向かってグーッと集中するのはどうも苦手になっちゃったようです。これについて、先日友人とだらだら話していたのですが、お互いの同意が取れたのは「他の人の視線が程よく入ってくる空間が一番集中力が出やすい」という点。なんか、頑張ってる俺ってかっこいい?みたいな錯覚に陥るのだとか。え、僕もそんなひとり?いやいや、カフェで仕事している姿を見たら、傍から離れたくなること保証します。

さて、カフェを渡り歩く生活がすっかり板についてきて、定員さんに顔を覚えられるまでになってしまったことに、おどおどしている小心者えびすが紹介する一冊はこちら。

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公案は臨済宗の修行において、欠かすことができない「修行」ツールとなっている。その修行スタイルは、師匠が弟子に「ナゾナゾ」を問いかける類のものだ。ナゾナゾが解けた弟子は、晴れて師匠から悟りの印加を貰う。師匠から印加を貰わない限り、悟りを開くことはできないとするのが臨済宗の教えのようだ。ただし、公案はあくまでも悟りにいたる修行ツールであり、それを解くことが目的になっているというわけではない点、留意されたい。

さて、臨済宗を取り上げれば、真言宗を取り上げないわけにはいかないだろう。真言宗は師空海によって開かれた宗派である。その修行スタイルはいたって明瞭簡潔、肉体的・精神的に自身を極限状態に追い込んでいくものだ。臨済宗のように頭であれこれを考えることによって、悟りに至る(師匠より印加を貰う)のではなく、自身の内で「これだ」と悟って初めて開眼したとする宗派だ。

日本には数多くの仏教の宗派がある。天台宗、全ての宗派に通じるものもあれば、宗派ごとに異なるものもある。先に示した臨済宗と真言宗の悟りに対する考え方の違いが良い例となろう。「悟る」という共通の目標に対して、両者は全く異なる考え方に従って修行を課している。
宗派による考え方の違いは何も仏教に限ったことではない。これはみなよく知るところだろう。イスラム教のスンニー派とシーア派、キリスト教のカトリックとプロテスタントなど、共通の師を持つにもかかわらず、宗派ごとに戒律を異にしている例はごまんとあるに違いない。また、自分が属している宗派の考えと違う考えを持つ宗派に対しては、敵対的な態度をとることもしばしば起こっている。

実は公案については私自身、懐疑を抱いている点打ち明けたい。なぜかというと、「印加」をもって「悟り」を認めるという明確な基準があると、いくら弟子に「公案は悟りにいたるツールだ」と諭したとしても、それを解くことに目的意識が移ってしまうのは避けられないだろうと考えられるからだ。言うはやすし、制するは堅しである。このような危惧は本書にも記載されているところであり、悟りの必須要件に位置づけるに否定的な人も多数いることだろう。ただし、公案そのものの内容はとても素晴らしいものであり、これを後世に伝えていくという点を鑑みると、「公案による悟り」を廃絶してしまうのはいささか勿体無いのも事実だ。もっとも、公案が仏教の枠を越え出でて、広く大衆一般にまで知れ渡るようになれば話は違ってくるのだろうけれども。

※書評というよりは、禅に対する僕の考えを述べるカタチになっちゃいましたね。公案を褒賞に変えて考えてみると、面白い一面が見えてくるのではないでしょうか。褒章というインセンティブを掲げると、多くの人はそれを目指して頑張りますが、それを勝ち取った瞬間・目的を達成した瞬間に一気にモチベーションが下がる・怠けるといったことが起きています。これについては先に紹介した書籍「Drive」を参照していただくとよくわかるのではと思います。人のやる気・モチベーションを操るのは本当に難しい…僕が公案から学んだものは「反面教師」であるような気がします。かなり否定的な表になっちゃいましたが、公案の問題自体はどれも素晴らしいものばかりです。頭の体操をしたい人は是非挑戦してみてください。ちなみに僕は1問も解くことができませんでした…何を持って解けたかは師匠に教えてもらうしかないので、今の環境下で公案を解くことなどできるはずが無いんですけどね。

2010年11月8日月曜日

A little money could change the world !

新しい季節の始まりには、新しい志を持って歩みたいもの。立冬も過ぎて、いよいよ夜風が体に刺さるくらいになってきました。僕自身も、将来のことで色々と変なものを自らの手で刺してしまっている状況です。改めてflexibleな心を持つこと、相手のことを思うことの大切さを感じた次第であります。え?失恋?あたって砕けてなんぼです、人生は!

さて、寂しい夜長を癒してくれる「ほっとココア」を飲みながら、のんびり桑田さんの歌に心を慰めてもらっている、冬の河原に体育座りする姿がやたらさまになるオトコ、えびすが紹介する一冊はこちら。

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近年の社会起業家の活躍には目を見張るものがある。3年ほど前までは、社会起業家という言葉が耳に入ることなど、ほとんど無かったように記憶している。3年前といえば世界経済が絶好調に突っ走っていた時代であり、社会貢献・弱者救済などに「かまってられない」環境だったのだろう(と私は勝手な解釈をししている)。とりわけ、一般大衆の人々の経済危機前後における社会起業家に対する眼差し・注目は大きく異なるのではなかろうか。自身が厳しい身におかれた状況にあって、弱者の立場にちかいポジションに立つに至って、初めて社会起業家の存在意義なるものを理解することができたのかもしれない。もちろん、メディアの効果が最も大きいのは承知の上である。

さて、社会起業家がたくさん生まれるのは喜ばしいことである。世の中に「良いことをしよう」という熱い思いを持つ人がたくさん現れれば、社会もより住みやすく、協同しようという気概が生まれやすくなるに違いない。どこで発生したかもわからないほどの小さなはばたきが、世界を変えうる大きな風に変わりうる可能性など皆無だと誰がいえようか。偉大な先達はみな小さなはばたきからスタートしたものである。今日の社会企業の5年後の姿を頭の中に思い描いてみよう…1から3へ、3から10へ、10から100へ…世界を変えるまでに成長した姿を想像すると、自然と頬が緩むものである(少なくとも私はそうだ)。

良いことは続けたい。この事業を持続できればもっと世界はよくなる…ここで社会起業家に一つ目の壁が立ちはだかることとなる。その壁とは「継続性と収支」である。世間の中には「社会企業なるものは利益を求めない団体(NPO)だろ。お金を儲ける・有料でサービスを提供するなどといったことは言語道断の行為だ!」という観念をもっている人もいると聞く。ここまでいかなくとも、多くの人はお金を徴収するというモデルに対して、いささか抵抗を抱いているのが現状だ。

そんな中、NPO法人Table For Two(以下TFT)代表である著者が打ち立てた経営モデルは異彩を放つ。経営モデルとして彼が提唱したのは、「お金を全く貰わずにサービスを提供するのではなく、小額のお金を消費者から頂いて、そのお金を貧しい国への寄付や自身の社会企業の運営資金に当てる」というものだ。会社での食事一食あたり20円を半強制的(自由意志でプログラムが提供する食事を選択できる)に徴収するプログラムを大企業各社で展開している。

ビジネス畑出身の筆者が企業に歩み寄るテクニックは勉強になる。CSR部門なら「どれだけおおくの従業員が社会貢献に参加できるか」を強く出し、人事部の場合なら「メタボ対策」、総務部なら「給食会社との価格交渉の請負」をする等、TFTのプレゼンス内容を各々の部門が「触手を出し」やすい形に変えていく。相手側のメリットをしっかりと考えることで、採用の確立もぐっと上がり、お互いにwin-winの関係を築くことができる。

「ビジネスとしての社会企業」という言葉ほど、TFTが提供する事業内容に適した言葉は無いだろう。企業運営を寄付に頼ることなく、なおかつ社会貢献に繋げられるビジネスモデルが日本から生み出されたのはとても有意義なことだ。今後、世界中で本プログラムが展開され、一つの成功モデルとして確立されれば、日本社会でも「職業の一つ」として社会企業が認知されるようになる、そんな気がしてならない。

※本書を読んだときの衝撃はかなりのものでした。社会貢献とビジネスをつなげる方法など、到底思いつかなかったのですが、本書を読んだ後に「あぁ、こんな展開の仕方があったのか」とひどく納得させられてしまいました。無理なく・持続的に・多くの人を巻き込むためにはどうすればいいのだろうか?とりわけ、社会企業が取り扱う事業内容は短期間で効果が出るようなものではありません。持続性を持たせる、そのためはどういったところからお金を集めてこればよいのか…今後、多くの社会企業がTFTのようなビジネスベースの事業モデルを導入し、持続性を持った運営ができるようになると、よりすみやすい社会ができるのではないでしょうか?「綺麗ごとばかりいってんじゃねぇ」としばしば言われるのですが、「綺麗ごとが無い」=「綺麗ごとが普通」な世界を作って生きたいものです。あ、希望じゃ駄目だ、作っていきます!

2010年11月6日土曜日

Does A Χ Dimensions World Exist?

大好きなことに熱中すると時間を忘れる…歳をとると時間が立つのが早くなる…面白いもので、二つの時間の感じ方の核は供に「時間が過ぎるのが速く感じる」というものなのですが、その感じ取り方は大きく異なるように思います。前者は、未知のものにふれあって「なんじゃこりゃ」と思っているうちに時間が過ぎていくのに対し、後者は、いろいろ知りすぎてすぐさま直感的に物事・事象の展開を捉えるうちに時間が過ぎていくように思います。前者は頭をフルに回転させて、倍速で脳を酷使することにより時間が早く感じる、後者は反対に、直観で物事・事象がどのような結果に至るかがわかってしまうので、身の回りの様々な物事・事象が頭の中を通り過ぎていく。しこうして、時間が早く感じるというわけです。まぁ僕の考えなんで、科学的な根拠は全く無いんですけれどね。

さて、理系の道から外れて早3ヶ月、最近妙に数式と向かいたい思いがふつふつと湧き上がってきているけれど、いざ向き合うとそっぽ向いてしまう軟弱男えびすが紹介する一冊はこちら。

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われわれが生きている世界は何次元だろう?次元という言葉を覚えたのはおそらく小学生時代のTV番組特集からだったと記憶しているが、次元の概念を理解したのは中学校に入ってからだった。先生は「この世界は3次元で成り立っている」という類の言葉を発していたように記憶しているが、その後、高校に上がってのち、世界はデカルト座標の3次元に時間軸をあわせた4次元であることを理解したものだ。

次元の概念は様々な事象に展開できる。あるフレームの中での原子の動き、統計データの解析、人間の人生etc…それぞれ特有の「次元」を有しているのがわかるであろう。例えば統計データの解析であれば、x=全体売上量 y=リピーター率 z=市場全体の変化 t=時間 α=年齢層 β=各時間の売上量と6次元の世界で統計データを考える必用がある。「数学は苦手」と言っておきながら、実務では学校で教わらないようなレベルの次元を容易く扱っているのだから、ビジネスの世界で働く人たちのポテンシャルはあなどれない。

さて、本書の中身に入っていこう。我われは宇宙を4次元(3次元のデカルト空間+時間)でとらえている。これは教科書にもその図が描かれていることから、宇宙の一概念として広く受けとめられている。だが、それは本当に宇宙は4次元の世界に収まっているのだろうか?銀河なるものは、外に開かれたまま、膨張し続けているのだろうか?
現行の考え型に則ると、宇宙には「端」が存在することなり、そこにいたった時には何が起こりうるのか予想ができない。いくら宇宙が膨張しているとはいえ、短い時間でとらえれば「端」はその都度そこに現れるはずだ。だが、それでも、概念として捉えることができない…色んな考え方が展開されてきたがイマイチ腑に落ちる物が無い…宇宙を4次元の世界で考えている限り、それを頭の中に思い描くことはできないままだ。ではどうする?宇宙を4次元で考えなければ良い。

いきなり4次元でとらえるなといわれても、理解に困るものだ…一度染み付いた概念というものはなかなか拭い去れないのはどの世界でも共通のことである。大切なのは、新しい概念・考えに出会ったときに、自らの頭を使って考え、理解しようという心だ。というわけで、4次元の宇宙観から脱出し、新しい宇宙を頭の中に思い浮かべていこう。
まずは宇宙の平面化から考えてみる。3次元にばーッと広がっている宇宙を平面に落とし込んで考える。身近な例で言うところの「写真」を思い浮かべてもらえれば良い。
苦労して、何億年もかかって宇宙の端までをくまなく「写真」に収めることができたとしよう。各々の写真を繋ぎ合わせてると3次元だった宇宙が「2次元」の世界に収まる。次に、この写真を丸めて、上下、左右を繋ぎ合わせて欲しい。すると、ドーナツ状の3次元の宇宙が出来上がることがわかる。この宇宙にあっては、一つの方向に進むと、グルーッと宇宙を周るだけで、「端」に行き着くことは無い。閉空間の宇宙が出来上がったわけだ。さて、ここで注意していただきたいのは、我われが思い描く3次元の宇宙が、ドーナツの表面に「乗っかっている」点である。ドーナツの中に存在しているのではなく、その表面に存在している…ふむ、難しい。

本書で描かれる宇宙は、さらに広がりを見せていくのだが、これ以上は上手く説明できそうに無いので、ここで筆をおかせていただきたく思う。深遠な世界をのぞくこと、頭を唸らせながら、何時間もかけて事象を把握すること…是非とも若いうちに経験しておきたいことである。

※おそらくこれまで紹介した書籍の中では、「書かれている内容を理解する」という点で断トツのNo.1に位置するかと思います。ぼく自身も相当に頭を痛めました、はい。4次元の宇宙をぶち壊せといわれてもねぇ…新しい像を思い描くにあたって、生半可な思考・短期的な解決の期待をもってしても、有益なものを得られる可能性は低いと思います。じっくりと腰をすえて、長い目で見て理解に励む。問題に直面した時に、すぐに答えに走ってしまう現在の風潮の下では「煩わしい」と思いのことでしょうが、一流の人はこれを「楽しい」ことと捉え、ああでもないこうでもないと考えるそうです。これを繰り返して、一つの自分の理解像が組みあがるわけですね。比較的時間に余裕がある学生時代に、頭を使いまくって「楽しい」世界を経験すること…今一度、世の中に呼び戻したい流れであります。

2010年11月3日水曜日

『和の心』 ≠ 『無為自然』 !?

秋の深まりを感じ取る今日この頃。散歩中に、金木犀の甘い香りが、銀杏の渋みある香りにうつりかわった空気をしばしば感じているところです。香りから我われ日本人が感じ取るものは、諸外国の方々のそれと少し違うものでありましょう。これは古来のアーティストが残した短歌や俳句にしばしば見出すことができます。で、この香について、僕がしばしば経験し、不思議に感じているのが『香りが引き起こす想像』についてです。例をあげるとこんな感じ。

ある場面(B)である香り(A)を感じ取ったとします。意識化では、A → B といった形で結びつけることはしていないはずなんですが、どうも、無意識下ではA ∊ B といった具合にその二つを関連付けていると。よってAと類似した香りを感じ取ることで、Bが引き出されてくるというわけです…ここまでは、まぁ理解できるんです。でも、もう一段階下に降りたところ、AがBではなく、全く身に覚えのないCを引き出してくることがある。系譜としてはA ∊ B ∊ C もしくはA ∊ C ∊ B といった感じです。Cの位置はぼく自身も良くわかっていません、はい、すいません。

これは世間で言うところの『アナロジー』と一致するところがあります。ただ、アナロジーは連結点を明確に「意識して」造り出すプロセスを踏んでおり、連関に論理を持たせることができている。しかし、上に述べたAがCを引き起こす事象では、論理なるものは全く欠けているわけです。「なんでそこにつながるねん」と突っ込みたくなるばかりに。
面白いのは、この一見連関がないように見えるCが、様々な場面で「新たな創造性」を生み出しうるということです。既存の枠に当てはまらないからこそ、ぶっ飛んだところに行き着く考えだからこそ、誰にも上手く説明ができないことだからこそ、それがもつ可能性のフレームはもの凄く広い。ただ、誰にも理解できないから「そっぽ向かれ」「どこかに捨て去られる」という問題を抱えているのは事実。脈絡のない、だけど可能性だけはやたらにドデカイものを持つこいつを以下にコントロールするか…。

ここまで綴ってきた文章を鑑みると、僕はどうやら『直観がもたらすチャンスをいかに形にしていくかの術』を模索しているみたいです。まぁ、そもそも論として、そんな術があるのかという話なんですけれど。さて、前置きが長くなりましたが、今日は一つの展示を紹介したく思います。※内心久しぶりの芸術評、どうなることやら…と怯えております…。


ネイチャー・センスを直訳すると「自然を知覚する潜在的な力」といったところでしょうか。ただ、『自然を感じ取るという力』ではなく、さらに深く踏み込んで、『自然が織り成す事象とはいったい何ものであるのかを身体で感じ取る力』を指しているものと推測します。自然から刺激を受け、その刺激が五感を経て、我われの脳内で多様なフェースを持つ情報に変換され、その幾つかが魂にと送り出される…各々のフェーズをしっかりと理解したい所ではありますが、いかんせん、それには超人的な思考力が必要とされます。刺激を受ける対象はどういったものか。その対象は五感の感覚のそれぞれに収まりきるものか否か。収まりきるならば、それぞれの五感にはどういった作用があり、その作用はどんな情報へと変換されるのか。その変換の過程で他の要素が関連してくるのかしてこないのか。情報の加工の幅はどこまで広がるのか。広がった先にあるのはどういった世界か・・・書き連ねるときりがないです、はい、ここで止めます。

ネイチャー・センスがゲストにどの程度の力を要求しているのかはわかりません。上に挙げたことも、僕の勝手な脳内想像にすぎません。ただ、勝手な想像ではありますが、この想像を繰り返すことで、物事を多面的に見る、深く考えてみる、逆さ眼鏡をかけてみるetc…といったことが、瞬発的にできるようになるのではと思う次第です…もちろん、「~してみる」先に待ち構える「深い思考」に至るのが本当の目的である点、見逃してはいけません。

ちょこっと、持論がすぎました・・・。肝心の評について一つだけご紹介させていただきたく。

『GINGA』

作家によると、重森三玲が設計した庭に着想を得てつくった作品とのこと。枯山水の砂紋を水面の波紋に見出したとのことで、この作品を少し深く探って見たく思います。

1.波紋と時間と人生と。
上空から水滴が、地上の水面と交わるその瞬間に生み出される波紋…それは時が経過するにつれ、同心円状に外に歩みゆき、やがては力尽きて消えていくもの…いや、消えたわけではない。微かな「波」は永久に消えうせることはない…ただ、僕達が感じ取ることができないまでに減衰しただけ。なぜ減衰するかって?それは、波が外に歩みだす力に変わったからだ。高いところから水滴が落ちる。その水滴は位置エネルギーというポテンシャルを持ち、水面と接触することで波を創る。たとえるならば、『卵を床に落としたときに、卵の殻が割れる、殻を割る力は「高さ」がもつポテンシャルがあったからこそ生み出された』…これを作品に当てはめると、高いところから落ちた雫のポテンシャルが波を生み出すために使われたわけだ。そして、生まれた波は外に向かって歩みだす。最初は赤ちゃんのように、活発で力強い…そして、時の経過と共に波の高さは低くなり、波紋は大きくなっていく…日常の感覚では捉えきることができないレベルまで減衰していく。でも、完全に無くなりはしない。波は一定の周期を維持し続ける…たとえその大きさが変わろうとも。そこに見出すは、事象のフラクタル性であろうか…我われが把握する世界は、我われが想像する以上に「同一性」ある「何ものか」から織り成されているのは間違いないだろう。

2.時を止める・時を放つ
時をとどめた世界だからこそ見出せる何か、時をとどめない世界だからこそ見出せる何か。枯山水の石庭では解放されなかった「時間」をこの作品は見事に解放した。枯山水にみる宇宙は「こんにゃろう」という封じ込める力を、GINGAに見る宇宙は事象の儚さと永遠性を感じ取れるだろう。
ただ、一点考慮されたい点もある。それは『日本人のネイチャー・センス』についてだ。しばしば、無為自然こそ日本の芸術に見出せるものだと述べるヒトもいるが、日本の芸術においては、無為自然を感じ取れる作品は少ない…というのが私の見解である。枯山水にしても、欠けた茶碗にしても、生け花にしても、それを留めるに外から多大な力を付与している点は理解されよう。さて、この事実を鑑みると、いささか本展覧会の主題に疑問が湧き出てくるのは致し方がない…。

※さて、久しぶりにじっくりと美術館をまわらせていただいたのですが、今回の3人の作家がつくりだした空間に、ため息ばかりが出る結果となりました。「あぁ、なんと素晴らしい展示であるか」と。現代アートを「わけがわかない」で済ましてしまうのは勿体無いです。そこには色んな潜在性が内包されています。とくに、若い作品ほどその潜在性のフレームは広い…というのも、旧く有名な作品には、たくさんの「解釈」が付けられているため、どうしてもそれに影響されてしまうところがあります(良いにつけ悪いにつけです)が、人目に触れず、あんまり解釈が世のなかに広まっていない若い作品については、外から受ける情報の量が少ないため、自分の力で解釈を生み出す必要がある。もちろん、そんなことしたくな~いって人はする必要はありません(笑)。でも、僕はしちゃうタイプです。何せ、この自ら創りあげた解釈は『世界にたった一つの考え』であり、後世のいろんな場面で役に立つものでありますから。様々な経験を積み重ねつつ得たものを上手く人生に応用する…その上で「鑑賞」はとても有益なツールとなります。見ることの先へ、是非挑戦して見てくださいませ。

2010年11月2日火曜日

Dependence of the beautiful sense in one people.

東京の素晴らしい点として、ギャラリーがいたるところにあることがあげられます。仕事の合間に、移動の合間にしばしば「気分転換」を兼ねてギャラリーを訪れることしばしば。新進気鋭の作家さんの作品はどれもエネルギッシュ!というわけではなく、中には物静かでおどろおどろしい作品も。まぁ総じて良いと思う作品は、人目でグーッとひき付けられるんですよね。悪魔の手ほどきのごとく、一時間ほど対面するなんてことも。気付いたら時計の針がえらく進んでいたなんて経験はざらであります。あぁもう少し自制せねばなぁ…。

工芸の美とは何ぞや。日本人が持っている美意識と西洋人が持っている美意識はかなり異なると言われている。日本のそれは、「捉えがたく、一瞬のうちに消えゆく…その時間をとめたところに現れる美」であるのに対し、西洋のそれは、「普遍的で、生々しく、我をみよ!といわんばかりに強硬な美」であるように感じる。

本書の著者、柳宗悦が論としてこの世に落とした美の意識、それは日用雑器の中に見出す美である。がっちりとした美ではなく、ほのかにたち現れてくる類の美…代表的な作品として、高麗時代の青磁器、江戸時代の誰が作ったのかもしれないひび割れた茶碗などがある。我われ日本人に日用雑器(茶碗や湯のみ)のうちで、美を感じるものはどんな茶碗か?という質問を投げかけると、ここにあげたような「時間の経過を感じる・歪な中に垣間見える美がある」茶碗や湯のみを上げる人が多いことだろう。一方、西洋人に同じ様な質問をすれば、およそヒビ一つ入っていない、左右対称・均等なマイセンの食器などを上げる人が多いと考えられる。

「芸術作品」について、宗悦がどのような考え方を持っていたのかも記しておこう。彼は総じて宗教改革以降に生み出された「芸術」なる概念に否定的な態度をとる。作品の評価が、作品そのものではなく「誰が描いたものか」によって評価されることに大きな疑問と懸念を抱いていた。ただ一点のみ素晴らしい作品を生み出した作家がいたとして、どうしてその作家の「他のさほど魅力的でない」作品の価値まで上がることが起こるのか?宗悦は例え大量生産であっても、美しいものは美しくあるという考え方を持つ人だ。その美しさは古来の匠たちが長年の修行・鍛錬を経て作品に宿らせることができるようになるものだという。工房で何百という数の茶碗を作っていれば、自然と型も身につくものである。一個人で終わる技巧と比して、長き伝統に裏付けられた型がより高次の美を宿すのは自然なことだろうと宗悦は考えたのだろう。

もし宗悦が現在の世界に存在しているとして、彼はどのような作品に価値を見出すだろうか?昨今の混沌とした現代アートには見向きもしないのは間違いなさそうだ。そして少なくとも、無印良品の一部製品に心奪われるのも間違いないだろうと考えられよう…もっとも、それを作る工程が全て機械によるもので人間の手による介入が全く無いと知った時点で評価は変わりそうではあるのだが。

※宗悦の提唱する美とウィリアムモリスが考えた美は共通するところがありますね。それは生活の中に美を見出したところです。日常の中で使用される道具に宿る美、それは目的意識を備えつつも光り輝くものであり、芸術作品以上に評価されるべきものであると述べます。まぁ大量生産しないと多くの人が「美」を手にすることはできないことを考えると一理あるように思います。けれど、一人の作家さんが長い時間をかけて渾身の魂を込めて生み出した作品に美が宿ることもしばしばあります。宗悦の考える美は一つの美の形としてとどめておきたい、というのが僕の本音ですね。

2010年11月1日月曜日

A Layer of towns in future.

頭の中では上手くいっていたのに、実際に表に出してみると「あれ?」といったこと、結構ありますよね?いかに完成度の高いものを作ろうと、最初のそれはしょぼいものにならざるを得ない。どこかの借り物であるならば、問題ないのでしょうけれど、全くのオリジナルであるならば、それはそれは結構な労苦を要するものです。まぁ苦ではなく快を感じるヒトもいるのでしょうけれどね。リバイスは大切ですね…それは物の世界に限ることではないとひしひし実感しているところであります。

さて、自身のリバイスに励むも、リバイス後の像がなかなかすんなり収まらないことに葛藤を覚えるオトコえびすが紹介する一冊はこちら。

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東京都市再開発はいつまで続くのだろうか…ここ10年ほどの大規模再開発として、六本木ヒルズ(2003)・東京ミッドタウン(2007)・赤坂サカス(2008)があげられる。大々的な宣伝効果もあり、どの施設も来客数はかなりの数に昇ったと聞く。私自身も上記に上げた某巨大複合施設の一部にて働いていた経験もあり、そこに集まるヒトの数には圧倒されたものだ。一日に10万人が、「来る」という意識をもって訪れるのだから、それはそれはもの凄いエネルギーである。そこに湧きだす「熱」たるものは、駅の混雑のそれとは大きく「質」が異なる。意識の執着点のポジションにいてこそ、感じ取れたことなのかもしれない…大変貴重な経験を積むことができたのは幸運だった。

さて、そんな熱狂を生み出す都市開発であるが、その成功・失敗はしばしば議論されるところだろう。しかし、その評価軸をどこにおくのかは難しいところもある。地域貢献・社会インパクト型であれば収入はぎりぎりでもOKだろうし、完全利益追求型であれば(ほとんどはこれに属するのだろうが)、その利益額で成功・失敗を判断するところである。ただ近年の都市開発は双方の型を完備するようなモデルで開発が進められているのは間違いない。本書には今後進められるであろう都市開発計画が多数収められている。東京スカイツリー、日本橋、京橋、大丸有、御茶ノ水、環状二号線、渋谷…プロジェクトの戦略・主眼はどれも興味をそそる計画ばかりだ。

なかでも三菱グループのお膝元、大井町~丸の内~有楽町に渡って勧められている再開発プロジェクトは壮大だ。オフィス街としてのイメージが強いが、実は古い歴史をもつギャラリーや三菱一号館美術館、さらには大学の進出など、アートシティとしての魅力も十分に持ち合わせている。そして、何より無料のシャトルバスが運行されている点、他の街とは一線を画すといってよい。現状は丸の内エリアと日本橋エリアの二つに限られているが、今後の再開発にあわせて拡張(特に皇居方面)していく可能性は十分に考えられる。シャトルバスは観光客にも人気で、新しい街つくりにおいては欠かせないものとなりそうだ。

他にも働く女性のための保育所完備や地下通路を活かして地上階に出ることなく移動ができる計画なども盛り込まれている。森ビルの社長が構想する「vertical garden city」の前駆モデルとしても参考にすべき点は多いに違いない。

※都市開発たる言葉を、大学4年生になるまでまったく知らなかったのですが、一度その内容を知るやぐいぐい引き込まれてしまいました。ここまで壮大なプロジェクトを計画できるものとは…。もっと若くしてこの世界の魅力を知る機会があれば、建築の世界に足を踏み入れていたかもしれません。もっとも、芸術センス・未来視点が要求される建築の世界は大変な能力が要求されることも記述しておかなければ…数値・資格では測れない【天分の才】がもっとも要求される理系分野ではなかろうかと思う次第であります。

2010年10月28日木曜日

Is time really equal between human beings?

今回は最近の思うことを少しつらつら書き連ねてみました。

Picture of my thought
しばしばテラス席に座って通り行く人たちを観察するのが癖になってるのですが、この観察が結構面白いんですねぇ。コンクリートの出っ張りに躓く動作、ビルの隙間から吹いてくる風に流れる髪の毛、何かをカメラに収めようと頑張っている青年etc。僕の視覚が把握しうる世界のうちですら、多様な事象が起こっている。もしも、僕の頭が視覚を超えいでて世界中の事象を把握することができるならば、頭の中にはどういった世界がたち現れるのでしょう。ちょこっと想像してみましょうか…とはいっても、僕には全く思い浮かべられないのですが。

The goodness and badness of five senses
長年生きてきた五感の経験量のおかげもあって、人間が事象を把握するにおいては必ず一つの面しか感じ取れない。他の面が現れるとしても、それは必ず先の面とは時間的な隔たりを持った状態においてであり、先の事象と全く同じであると言う保証はどこにも無い。コンマ一秒以下の世界でも、我われの身体を流れる電子は勿論のこと、事象に含まれる物・ヒト・空気の電子状態も変化しているはずです。なんで、視覚・聴覚・触覚・嗅覚・味覚なるものはすべてとして「同じ感覚」を得るということは極めて確率的に低い…というのも、電子は電子雲の状態で存在しているわけであり(霧吹きのミストを丸いケースにおさめたのが高校で習う電子です)、確率的にその挙動・ポジションが刻々と変化するため、一に…。ちょっと小難しくなっちゃいました。前置きが長くなりましたが、今日は時間について少し考えてみたく。

Time could not be arrested with one face
さて、ある哲学者の言葉をふと思い出しました。たしかこんなくだり…「観察することからすべてが始まる。事象に対して疑問を抱くのも、解決策を閃くのも、観察をもってしてである。みよ、過去の哲学者の観察力たるや、その凄さを」…誰だったか忘れてしまいましたが、いい言葉だなぁと思ったのでしょう。僕の脳にしっかりと刻みこまれております(あくまでその考え方だけですが)。しばしば出てきた観察、これが時間と密接な関係を持っております。観察においては、我われは意識をある程度長い時間維持した状態に持っていきますね。で、あまりに集中力が凄いと時を忘れてしまうといったことがしばしば起こる…その「時の経過」は私が経験するそれとは大きく異なるものであり、なかなかに不思議なものであります。ほんの少し人間が意識の在りかたを変えるだけで、時の経過への感じ方が大きく変わる…そこはまさにパラレルワールドとも考えられる。自分の意識だけが、少し時間軸が異なるステージに移行したと。

Are we spending the same time in one world ?
現実の世界では「一応」我われは同じ時間を共有していることになっております。が、それはあくまでも世界が定めた「総意」においてであり、時間の本質を捉えたものではありません。上に挙げた集中力がもの凄い状態がずーッと続いている人間がいたとして、彼の感じる時間は集中力が無い状態のそれとは全くの別物であります。さて、ここで不思議な疑問が沸いてくるのですね・・・それは、集中した時間=感覚的には短い時間ということは、その間に僕が知覚する経験量なるものは減じられているのではないか?しかし、実際にはその逆のような事態、すなわち経験量が増えているように感じると。ストックとして我われの能が貯えうる情報量はどれほどかという点も興味深いのですが、また、どの程度までを我われの能は情報として捉えるのか、そしてそれを捉えるにあたってどのような過程を踏んでいるのか…。考えるほどに思考が散らばり、散らばった思考が新しい型を形づくる…が、再びそれは散らばり、一向に形にならない…「時間」、この不思議なる魔物は僕を魅了してなりません。

※暇さ和えあれば色々と思考をめぐらせて考えているのですが…闇夜の雲の隙間に隠れる月のごとく、ちらりちらりと僕の思考は誘惑させられているようであります…。あと50年くらいかけて、自分なりの答えを「形」に残してみたいものであります。

2010年10月25日月曜日

Beauty without wisdom is nothing.

しばしば代官山駅を利用するのですが、そこにある看板が結構良い味を出しているんですねぇ。無広告の看板なんですが、誰かが落書きしたのを消した後にのこった「もごもご」とした「絵」が、何やら幻想的な表情を醸し出しているわけであります。不思議なもので、意図的に描いたものではないのに、ふと眼を留めてしまう、惹かれてしまうモノと出会う、その経験は美術館に足を運ぶといった目的意識が無いところで得られる感動でありますゆえ、不思議と時間が経過しても尾を引かれる思いがぬぐえないんですねぇ…過去最高に惹きつけられたのは、どこのだれぞやが書いたのかわからないバイトのシフト表の裏に書かれた「走り線模様」。あの美しさを越える「線」に未だ出会えずにいます。

さて、へんてこな感性を持ち合わせているがゆえに、へんてこなことばかり思いつく、へんてこな人生を送ることを楽しんでいる、へんてこ男えびすが紹介する一冊はこちら。

商品の詳細

ヴェイユの思想を理解するのは骨が折れる。「まぁこの手の書き方はニーチェの系譜」かと昔は考えていたのだが、今読み直して、当時の自分がいかに浅はかな(勿論、今も浅はかではあるのだが)読み方をしていたかを実感させられた。私自身への戒めの胃として、今回は本書の一遍を紹介し、それについて少し掘り下げたところまで思考を深めたく思う。少々長いが本書P140~P141に記載されている文を以下に載せよう。
知識としての、苦しみとしての楽しみ。蛇はアダムとエバに、知ることを得させようとした。セイレーンたちは、オデュッセウスに知識を与えた。こういう物語はたましいが快楽の内に知識を求めようとして自分を滅ぼすことを教えている。それは、なぜか。快楽はおそらく、その中に知識を求めることさえしなければ、罪の無いものであろう。知識を求めることが許されているのは、ただ苦しみだけである。 
~重力と恩寵 P140,141 出版:ちくま学芸文庫~
アダムもエバも、蛇にそそのかされたとはいえ、その誘惑に負け神からの約束を破って、自らの選択で未来を切り開いた。禁止ごとに手を出すことはまさに知識の探求の好意そのものだ。しかし、その結果、彼らは楽園を追放され、苦しみの世界に生きざるを得なくなってしまった。では、オデュッセウスにあってはどうか?彼は、セイレーンの声を聞く誘惑と同時に自身の命を守る術を考え付いた。その術とは部下達には耳栓をさせて、自分だけ耳栓をしないというものであった。声を聴いて、そちらのほうへ行きたいという快楽に抗うことは大きな苦痛を伴ったことであろう。しかし、その苦痛無しに快楽は手に入れることはできない。死んでしまっては、快楽も何もなくなってしまうのは自明だ。しこうして、ヴェイユは二つの例から「知識を求めることが許されているのは、ただ苦しみだけ」だと述べる。

知識の獲得は、苦しみの中でのみ可能だ…なんともヴェイユらしい考えである。ヴェイユはまた、善についても大多数の悪の中、それがあってこそ獲得できるものだと考えた。悲観の中・罪の中にこそ、善・幸福が転がっているのだ。彼女が思考するのはあくまでも「善」であり、「幸福」であり、「知識」である。苦しみはそれらを獲得するための手段に過ぎない点は留意されたい。

ヴェイユが残した言葉の数々。断片であるゆえの魅力…それらは一遍の「詩」に匹敵するものであろう。美しさの中に垣間見る苦悩・皮肉・楽観etc。本書を通じて感じたこと、それは、ヴェイユの真髄を味わいうるためには、私が人間として「幼すぎる」ということである。

※いやはや、ヴェイユの言葉は珠玉であります。巷では「ニーチェの言葉」なる書籍が売れているようですが、僕としてはヴェイユのほうが好きですね。ニーチェのようなシニシズム全快で物事を考えるのはどうも納得できぬものでありまして…。あぁ、昔はニーチェ通だった自分を振り返ると、なんだか寂しいような嬉しいような複雑な気持ちです。あ、学生の皆様には是非読まれることをお勧めいたします。社会人になる前に、思考を深める訓練をするという点でも、本書は有益でありましょう。

2010年10月21日木曜日

New Comer !

さて、また新しいブログをたち上げます。いよいよ海外の新聞記事・雑誌記事を紹介してまいります。
新聞については…New York times, Washington Post, News Week, BBC, Japan Times あたりから
雑誌については…Mckinsey-Quarterly, Harvard Business Review, Wired.com あたりから。
政治・経済、教育、文化・芸術、科学について一週間に5本くらい紹介していきたく思います。目標は年間で250本。これを来年の抱負の一つにしたく。うむ、精進あれ自分。

さて、今のブログを上回る頻度で更新するのは結構辛いところもあるんだろうなぁと思いつつ、その辛さに恍惚の思いを馳せる一風ならず三風くらい変わったオトコ、えびすが紹介する一冊はこちら。

商品の詳細

しばしばメディアでも取り上げられている通り、中国の経済成長には目を見張るどころか脅威を感じるのが本音だ。二桁で規模で経済成長する国が隣国にいるということ、その恩恵は計り知れないものであると同時に、将来への不安は日を追って増すばかりである。

脅威の経済成長の中身を詳細なデータを持って分析した本書は、新書の域を越えているといっても過言ではないかもしれない。将来の中国ビジネスがどういった方向性をとるのか、いつ経済成長がピークを迎えるのか、どういった市場の成長が見込めそうかについても、データがあるので推測をたてやすく、一つのケーススタディの材料にしてもいいかもしれない。

興味深いのは「人口オーナス」についての分析だ。人口の減少がもたらすデフレ効果については、先の「デフレの正体」で紹介したとおりだが、同じ様に中国においても人口ピークを越えると、経済成長の伸びが鈍り、やがては日本と同じ様な問題が露出してくると考えられる。何せ、一人っ子政策を進めてきた国である。一人っ子政策が始まったのが1979年、ちょうど30年が経過したことになる。人口構成としてはキノコ型に40~60歳の世代がおおいこととなる。ここで懸念されるのが、経済成長に伴う長寿化と生産年齢人口の減少だ。この二つが引き合わさって起こる問題については言うまでも無い。わが国が先をとって直面している問題、まさにそれである。

また、一人っ子政策により、親に甘やかされて育った我が儘な層を「皇帝(女帝)」と呼ぶらしい。自分勝手で他人への配慮が欠ける層だ。この皇帝が成人に達し、広く社会にはびこってしまった中国では興味部会現象が起きている。それは、日本でも話題になっている「離婚コンサルタント」や「婚活コンサルタント」なる職が中国本土で生まれてきていることだ。背景として、皇帝は自分の思い通りに全てをコントロールしようとするし、女帝は自分に見合う男は所得・容姿で周りの男よりも優れていなければ行けないという思いが強いことが影響しているのだろうと考えられる。ちなみに、別途調査したところ、中国の婚姻届件数に対する離婚届件数の割合は20%程度であり、日本のそれ(30%)よりは低い数値となっている。日本の離婚率が30%近いのは意外であり、3組に1組は離婚にいたるとの統計結果だ。ふむ、なんとも興味深いデータである。

上記に上げた内容のほかにも、「地下経済」「日中関係の今後」「外貨準備金とその戦略」「男性の出生率が高い理由」など示唆に富む分析が多数繰り広げられており、一読に値する内容となっていること間違いないだろう。堅さ、複雑さを抑えた本書は高校生でも十分に理解できることであろう。

※本書を通読することで、中国経済の今後に関し、どの市場がどれほどの飽和状態にあるのか、どういった市場が今後現れてくるのかを考えるいい機会を与えてくれたように思います。尖閣沖の衝突事故での中国の対応の取り方など、中国当局内でもいろいろ問題が起こっているように思います。政府としては問題解決に踏み切る政策を採りたいんだがそれを抑えるタカ派がいると。共産党の中での派閥争いは、日本のそれ以上なのかもしれません。あな恐ろしや。

2010年10月19日火曜日

An advertise of work-shop (a false information)

Spending deep autumn with sitting on a bench in Tokyo-Ebisu Garden, I sometimes plunge my consideration into making a new work shop which I am thinking of holding next March. The number of work-shops I have constructed reaches 12 and each one differs in the core point but have a mutual relationships among them. Today I would like to introduce the one of them to know how much of you audience have an interest on it. After knowing and analyzing the response of you guests, I would modify the contents and main stream of the work-shop.

Here, This is the work-shop which I am going to be held in next March.

『Imagination work-shop』 

 Thinking of the skill needed in the field of business, academy and entrepreneur, imagination should not be missed in these fields (maybe all fields I suppose...). Today, I would like to focus on one field that is business field. After visiting a lot of companies and hearing what kinds of skills are required in the business fields, it turned out that the skill needed in common in all fields is the one to be able to imagine/create new things (strategy, value-chain, research method etc).

 So I made a work-shop the contents of it could be understandable for high-school students by extracting items from what they are using and seeing in their ordinal life that are Manga, Game, and Love hearts. The following are the contents of it.

1st  What is Imagination?
2nd What kinds of imagination are there in the business fields
3rd  With imagination, What can I do?
4th  Without imagination, What would I be?
5th  How can I train my imagination?
6th  Let's take a work-shop ~Make the words with passionate love!~
7th  What is important to create the words?
8th  Things which we must take into consideration in business.
9th  Builds the words of the item with the steps ~Imagine a most suitable words for one item~
10th  Another desired points of view in sales marketing ~from items to catch copy~

If you are interested in this work-shop, please send me a e-mail and I'll invite you to this work-shop.


いやはや、やっぱり英語はなれないですね。ちなみに応募はしないでくださいませ。表題の通り、false informationであります♪

2010年10月18日月曜日

小さな世界の中にたたずむ広大な思想

東京都心には無料のギャラリーがたくさんあります。街ごとのギャラリーを紹介する書籍まで出ているほどであります。そんなギャラリーがたむろする東京都心でも、屈指のギャラリー数を誇る街、銀座に本日は足を運んでまいりました。気温も湿度もほどよく、ギャラリーをはしごするには最高のお天気♪ただし、次のアポまで2時間弱しかなかったため、いささか急ぎ足での鑑賞となってしまいましたが、展示されてるのはどれも興味深いものばかり。とりわけ、資生堂ギャラリーの石上純也さんの作品にひどく感銘を受けましたゆえ、今回はこのギャラリー展について少しご紹介したく思います。

建築はどこまで小さく、あるいは、どこまで大きくひろがっていくのだろうか?

これでもかとぎらつく太陽。夏が終わる気配などこれっぽちも感じられない8月の終わり、インターネットの世界をぐるぐる廻っていると一報のニュースが僕の目に飛び込んできました。「建築家の石川純也氏、ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展にて金獅子賞獲得」。金獅子賞といったらグランプリ、つまり一等賞。若手建築家の海外での偉業達成は、ネガティブなニュースばかりが横行し、「なんだかなぁ」と思っていた僕の心に小さな光を差し込んでくれました。

今回、資生堂ギャラリーに石川氏が作った空間は、建築家の作品のなかでもコンセプトと位置づけられる作品です。横一列にずらーっと並べられた建築コンセプトは「この建物を現実の世界で作るのは難しいだろうなぁ」と思うものばかり。でも、あくまでコンセプトですから、それでいいんですね。現実の建築物を作るに当たって必要とされる創造力・構築力を鍛えるという点で、普通の人の想像を超えた建築をコンセプチュアルに考える訓練は、かなり重要な訓練なのではと素人ながらに思ったりします。これは建築の世界に限ることではないんですけれどね。

全56の作品のなかから、印象に残っている作品をいくつかを紹介したく思います。
~No. 11  椅子のスタディ~
針金でできた、個々に独立した椅子たちが、他の椅子と針金を解して「接触」している作品。keyコンセプトは『家族のような椅子』。家族の絆を椅子に落とし込むのですが、石川氏の考える家族は一本の針金で数脚の椅子が繋がっているというのではなく、個々の椅子は独立しつつも、相手の天板、脚、背もたれetc…といった所に結節点を持つというもの。一つの椅子が動くとして、必ずしも他の椅子が動くというわけではない…大変勉強になる作品でした。

~No. 27 天気と家 雨の降る家~
ホルンの形に似た大きな口が天空を向き、その口の中に家がたたずむ作品。なんでも、一度雨が降ると永遠に雨が降り続ける構造になっているのだとか。降り続ける雨がもたらしてくれるもの、それは「自然のメロディ」。楽器などを全く用いずとも、自然を上手く利用した空間を築けば、力技ではなく、自然とゆるりとした娯楽・癒しの場をつくることができる。…いやはや、発想の転換ほど面白いものはありません。

~No. 41 風船と美術館~
風船型のアクリルの透明な空間を、美術館の休憩スペースに持ってくる作品。休憩スペースが完全な外部空間(亜空間)であるため、頭・心・体をリセット・休憩させることができる。一つの完結した空間にしてしまうと、美術館の作品チック(休憩場所かつ作品!?)になっちゃうのではと思いました…が、風船というコンセプトは素晴らしい。美術館の中から『息吹』が送り込まれてきて風船が膨らむ…その『息吹』を送り込んでいるのは他でもない作品たちだという意図を感じ取りました。うむ、本展No.1のコンセプト。


※見て楽しい空間の遊び方の作り方、といった具合の講義を受けることができたように思います。改めて、芸術・アートの可能性は深遠なものだなぁと感じた次第であります。従来の見方を疑う、規制に縛られない、逆の方向を極める…芸術家に限らず全ての人、少し違う世界をコンセプトから考えてみたいという人がたくさん現れると、世の中にもいっそうの多様性が生まれるような気がします。
あぁ、自身も精進せねば…。

2010年10月16日土曜日

The Worlds are Suppressed by Mutual Consciousness.

金木犀の香が心地よい季節も過ぎ、一層の秋の深まりを感じる今日この頃。街を歩く人たちの服装も二週間前と大きく変わったなぁと感じている次第であります。カラフルなストールをしている学生風の青年、ベージュのカーディガンを羽織る女子高生、暖色のスーツを着たサラリーマン…四季に合わせて服装を変える文化は、着ている人はもちろんのこと周囲の人にも新しい発見や心地よさを与えてくれるものであります。まぁ、そのほとんどは輸入文化の洋服ではあるんですけれども…。

さて、秋の深まりとともに、心の寂しさもぐーっと深まり、帰宅してクノールのポタージュで一人暖まる日々を過ごす日々を語ったところ、友人に「哀れみを通り越した趣があるねぇ」といわれちょっと嬉しい気分に浸った変わり者えびすが紹介する一冊はこちら。

商品の詳細

シュルレアリスムとは日本語訳で超現実主義を指すらしい。現実に超という接頭語が付いていることから、私は当初それを「現実を細部まで精細に模しすことを第一とする主義」であると考えていた。浅はかな思考もいいところだと反省するばかりである。では、シュルレアリスムとはなんぞや?というと、それは、「過剰なまでの現実」、「日常の延長線上に現れる未知の客観的な現実」の世界に舞い至る主義と考えていただければよい。ここでは、主観の世界の延長ではない点に留意されたい。

言葉尻ではよくわからないので、具体的な例を持ってこよう。本書に収められている、シュルレアリスムの第一人者アンドレ・ブルトンの「自動筆記」をベースとした解説を、自己流に落とし込んで紹介したく思う。少し小難しいと自身でも把握しているのだが、頭の体操と思ってお読みいただければ幸いだ。

ブルトンの自動筆記作品として有名な「ナジャ」。パリでであった娼婦との交際の記録「ログ」がそこに記されているのだが、自動筆記と言う一種のトランス状態に入った状態で描かれているため、我われの意識が感得する世界を超越した内容がそこに散見している。最初にあるテーマを設定し(作品「ナジャ」ならば「パリの女性との交際」)、そのテーマに沿って自分が紙の上に書画を意識的に描いているのだが、次第にその描くスピードを上げていくと、自分の意識が描くという行為に「これを描け」というう信号が伝わる前に「何か」が紙の上に描かれることとなる。私たちがよく知るところの熱い物に触れたときの「反射」に似た行為を想像していただければ良いかと思う。自動筆記において反射が働く対象…それを「意識」ではなかろうかと私は考える。

意識に反射する行為が生み出したアウトプット…それは「目的」を持たない、方向性が定まっていないがゆえに様々な可能性を内包している。脈絡の無さ・前後関係のなさなどは当たり前で、全く理解できない「混沌とした世界」がそこには描かれているわけだ。この世界を描いた(と私は勝手に解釈しているのであるが)世界的に有名な画家、それがサルヴァドーリ・ダリである。彼の描く世界には秩序だった系譜がなく、各々のオブジェが「独立した個性」を放っていることが理解できよう。ここで、ダリの言わんとするところはこうだ…「我われが意識の下に把握している世界、それはあくまでも我われの意識が勝手に秩序立てているのではないかだろうか?」

我われが認識している世界とは所詮意識の下に秩序立てられた世界であり、そのエントロピーは極めて低く抑えられている。エントロピーが大きくならないよう、意識は多大な労力を持ってそこに「秩序」を生み出しているのだ。シュルレアリスムの作家が描く世界、それはこの労力が取り去られた世界である。そこではエントロピーは大きくならざるを得ない…自然の摂理に逆らうエネルギーはそこに存在していない。さて、このエントロピーの増大は一体何を生み出すか?…シュルレアリスムが残した功績を我われの世界に投射してみよう…なるほど、超現実世界は確かに存在したことが理解できる。

※「書」を少し深く掘り下げてようと思い至った時に手にしたのが本書。ブルトンの有名な自動筆記についてわかりやすい解説がなされていたなぁと思い出せたのは幸運でした。まだまだ記憶は鮮明に残せているようです。何かを残そうと思って書き始め、次第にヒートアップして脳裏をよぎる言葉・単語をどんどん紙(今ならタイピングですね)に書き連ねていると、不思議と我を忘れた状態でも「なんらかの文章」が出来上がると。この一種のトランス状態で書き上げられた文章・画が、何によって描かれているのか?ブルトンは「誰かが乗り移ってかいている」と考えたようですが、僕は意識に対する反射によってそれが描かれているのではないかと考えたのですが…掘り下げると結構面白い論文ができるのではないかなと思う次第であります。気が向いたら書いてみようかな。

2010年10月13日水曜日

Could capital become a caterpillar of our life ?

小難しいことばかり考えていると、逆に思考が固まってしまいますよ。流転のごとく、思考も変わるものです。とはよく言われたもので、でもねぇ、考えるのって辞めようと思っても辞められないんですねぇ。不思議なもので。考えるのが嫌いな人がいるように、考えないことが嫌いな人もいるということです。日常の些細な事に対して、「お、これはここに活かせるんじゃないか?」「まてよ、これこれをここに移行させれば…新しいビジネスが展開できるじゃないか!」まぁ、どんどこ出てくるわけでありますね。多分、ある臨界点を越えると、自動的に「一つの思考の答え」が出てくるまでになるんでしょうが、僕の場合はまだまだそこまで達していないわけでありまして。「日々、これ考えよ」を貫きますよ~あと20年は。

さて、頭を使うこと=エネルギーを多大に消費すると信じて、歩くこと以外の運動を全くせずに体型維持に努めている自称歩く虚人えびすが紹介する一冊はこちら。

商品の詳細

ジジェクが広く知られるようになったのは、アメリカの同時多発テロ以降だろうか。他の論客とは良い意味でも悪い意味でも一線を画す鬼才ジジェクが、ポストモダン世界の社会情勢・政治動向・経済動向についての辛辣・鋭利・奇抜な自論を、惜しげもなく我われに提供してくれるのが本書である。

グローバル資本主義、エコ資本主義、ロハス主義、イスラム原理主義etc。世の中にはなんと様々な「主義」が転がっていることであろうか。しかし、各々の「主義」がどういった経緯で築かれたのか、誰が何を思って当該「主義」にどっぷりつかっているのかといった、一歩踏み込んだ調査・勉強をした覚えは無い。が、それらを理解しておくことはmutual-relationshipを築く上で大切なことである。今回はエコ資本主義について、ジジェクの考えをともに少々深入りしてみよう。

エコロジー+資本主義≒エコ資本主義。しばしば、企業・個人は社会的貢献という「善意」を掲げて、そこに「資本」を投入するスタイルを取ってきた。…「Reduce/Reuse/Recycle、地球に優しいことを始めましょ」「絶滅危惧種を量産しているのは人間です」…発端は世界各国の個人・機関であろうが、人間の心に響く「綺麗な言葉」をフラッグに、世界中の人々をエコを合言葉に啓蒙することに成功したのは素直に認めるべきであろう。では、その成功の「カタチ」はどうだろうか?「エコ」という「表面綺麗な商品」の資金集めの容易さ、それに投資する人達の期待のあり方・裏切り方、そして成功者というレッテルにあこがれる「希望主義」etc。これらの水源を辿ると、どこにいきつくだろうか?

40年まえの"革命"を経て、資本主義社会に入り浸る我われ人間たちが獲得したものはなんだっただろうか?今一度、それらを列挙してみよう…シニシズム・スノビズム、嫉妬的・楽観的希望主義、自己責任の放棄・責任の転嫁/転換…書き連ねるのもいやになる言葉ばかりが出てくる。「失われた過去の負の遺産」としばしば言われることに至極納得させられた気分だ。では、そんな負の遺産を生み出すに至った背景はとはどんなものであったのか?…なるほど、ジジェクの考える「資本主義の姿」が、これほどまでに辛辣な様相を呈している理由が腑に落ちよう。

※資本主義を事例を踏まえて、メタメタに斬っちゃうジジェク。そのスタイルには賛否両論起こりそうですが、非常に過激(あくまでも批判に徹しており、案の提言にまではいたっておりません)な独自の考えを、惜しげもなく表に出してくれる研究者は少ないものですから、僕としては嬉しい限りであります。一歩、二歩ほど距離を置いて、資本主義を俯瞰することの大切さを改めて感じた一冊です。大学生以上の方には是非一読されることお勧めいたします。

2010年10月10日日曜日

Not only philosophy, but also way of life we should learn from him.

秋も深まり、食べ物も美味しい季節になってまいりました。今日は秋刀魚を自由が丘の東急ストアで調達。家でフライパンで焼いていたのですが、出るわ出るわの旨み脂。鮮魚は脂のノリが違いますね。冷凍品ではこれほどの脂は出ません。とはいえ、冷凍食品の素晴らしい点もたくさんあるんですけれど。とくに、保存期間に関してはそら、凄いですよ。冷凍したカレーなんかは6ヶ月保存しても、十分に食せましたしね。え?お前の胃がおかしい?だてに蝦蟇の胃袋を持ち合わせていません。※みなさまは真似されないほうがよろしいかと思います。

さて、そろそろ若気の至りもほどほどにして、規則正しい食生活を送ろうと計画はするものの、なかなか実行に移せずに自暴自棄になりがちなダメ男えびすが紹介する書籍はこちら。

商品の詳細

プラトンは哲学の世界に多大な功績を残した人だ。ソクラテスが書籍を残さなかったため、哲学の祖とも言われている。プラトンが後世に残した有名な概念はイデア論であるが、私自身、当のイデアとは何を指すのかについて深く考えたことはなかったように思う。本書を読むまでは「物事の起源にある理想の世界」=「イデアの世界」という、何とも浅はかでは済まされない程度の知識しか持ち合わせていなかった。

本書は、プラトンに関し、極浅い知識しか有していない私にも、理解できるように非常に平易かつわかりやすい文体で書かれており、すらすらと読み進めることができた。著者の分を書くという力量は相当なものであろうと思われる。プラトンについて浅はかな知識しか持ち合わせていない私が、その哲学について紹介するのは、何とも恥ずかしい限りであるが、プラトンの人物像について少し述べさせていただきたく思う。

プラトンのイデア論は中期に完成したのであるが、その内容については後期にプラトン自身も過誤がある点に気付き、その点修正した。攻防も筆の誤りという諺はよくできたもので、賢者でも間違えることはある。プラトンの素晴らしい点は、自らの間違いを認めたことだ。無理に自分の考えに固執するわけではなく、周囲の人の意見をしっかりと聞き、その上で間違いがあるならばそれを修正する…文字で並べるとなんだ簡単なことじゃないかと思われるかもしれないが、実際に行動に移すのは至難の業だである。一度造りあげた像、とりわけ観念的な像というものは壊しにくいものである。

晩年期の「ティマイオス」についても述べておかなければいけない。その内容は、これまでにプラトンが著してきた作品とは「袂を別つ」とまではいかないが、かなり趣が異なる。そこに見られるのは、一種の「諦念」に落ち着いたプラトンの姿だ。それまでの完璧を求める(たまに【例外】もあったりするのだが)姿勢を貫いていたプラトンであったが、晩年には「~らしい」でよしとする言説が多々見られ、完璧を求める姿勢はかなり薄れたのは間違いないだろう。長年描いてきた理想も、肩を張って相手に押し付けていても、一向にうまくいかないことに対する「諦念」が湧いてきたのだろうか。人間らしさに溢れたプラトンを知ることもまた良い機会だろう。

偉大な哲学者プラトンでさえも、自身の思想を「欠点なく完璧な状態」で世に送り出すことができたわけではない。長い年月をかけて、随所で修正を行いながら「イデア」を目指したのだ。そして、晩年の著作から何を見出せるだろうか?ほどほどの「諦念」…日本社会が忘れてしまった大切な「考え」を今一度呼び戻したいものである。

※本書はプラトンの哲学という表題でありますが、僕としては、何よりもプラトンがどうやって人生を全うしたのかを辿って欲しく思います。自身の過ちを認め、晩年には完璧を求めない心も持っていた、哲学の祖プラトン。彼の生きること・学問・政治に対する姿勢には、現在社会に生きる僕達が学ぶべき点がたくさんあるように思います。そこを是非汲み取っていただければと思います。

2010年10月7日木曜日

The width of One Language.

日本人がノーベル化学賞を受賞とのこと。こういうポジティブな報道を耳にすると、大変嬉しい思いになります。僕自身、研究者であったので、研究の醍醐味は大変身にしみております。まぁ同時に辛いところもあるんですけれど。何においても、簡単に答えが出ない問題に対して、時間をかけてじっくりと取組むことはとても素晴らしいことであります。とらえ方によっては昨今の「インスタント」に答えを求める社会風潮に反するように聞こえるかもしれません。このように書くと、僕が「じっくり考えること」にしか価値を置いていないように聞こえちゃうかもしれません…ので、インススタントに答えを求めることも重要だと思っておりますこと、付しておきます。じっくり考えることとスピードを持って考えること、この双方を使い分けられるのが一番ですね。そのためにも、若い内に双方の思考方法を経験し、該当する問題がどちらに分類されるのかを判断する「感覚」を磨くことが重要なのかなと思います。

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母国語である日本語、その日本語を我われはどれほど理解しているのだろうか?とりわけ、他の言語と比して、日本語の解釈の幅は広い。読み手・読者一人一人が一つの作品に対して様々に思いをめぐらす…ベンヤミンが述べたアウラは作品に宿ると言うよりは、ここの人間の内に宿っているっものだという解釈のほうが、我われ日本人にはしっくりくる理由がよくわかる。今回は本書に収められている「詩」を題材として、その翻訳による表現の幅、訳者の感性を探っていきたい。有名な「古池や 蛙とびこむ 水の音」を英語訳した時、どのような表現になるか、少し考えていこう。

日本人の感覚としては、ここでの「蛙」は一匹の蛙を頭に思い描くのはおおよそ総意が取れる。だったらば、これを英語約すると「frog」という単数になるはずだ。一匹の蛙がぴょこんと池の中に飛び込んだ時に、水面から発せられる儚くて素朴な音響、その趣や筆舌に尽くせぬものだ…といった感じだろうか。しかし、この詩を英語約した小泉八雲は「蛙」を複数の形「frogs」で表したという。なぜ複数形に訳したのか?欧米人にはたくさん飛び込むイメージのほうがしっくりと来ると想定して複数形にしたのか?八雲ほどの文人が、日本の侘び錆びの心を持ち合わせていないとは考えられない。ここで我われが考えるべき要素、それは「時間軸」である。

芭蕉の有名な詩に対して、我われは「蛙が飛び込むのは一度きり、その瞬間だけ」を思い描くことと思う。かくいう私もそのように描く。しかし、八雲は一度きりではなく、縁側に腰をかけて、長い時が経過する過程で蛙が一匹一匹、ぽちょん…ぽちょん……ぽちょんと飛び込む情景を思い描いたのであろう。だから「frog」ではなく「frogs」と訳したのだと考えられる。

私たちが物事・事象をとらえ思考する過程は十人十色であり、一つとして完全に同じアウトプットは生まれ得ないはずだ。長い時間をかけ、思考をこらして導き出した答え・表現であるほど、その色合いに違いが現れてくる。そして、それが「一人一人の個性」へと変わっていくものだ。もしも、個性を伸ばしたり自分の考えを持つことを望む人がいれば、もう少し「時間をかける余裕を持つこと」に専念してみるとよいだろう。生きてきた人生の厚みに比して、人間は一層輝くものである。

※ノーベル賞にあわせた書評を選択するべきなんでしょうけれど、専門的な分野は僕が理解できる範疇を越えていますゆえ、巷の書籍を軸にノーベル賞にみられる「じっくり思考すること」の大切さとその例を上述の評にて示させていただきました。時間をかけて物事・事象を考えることは大切です…そして、その上で答えが出たときの嬉しさは経験しないとわからないものと思います。若い内に、何十時間・何百時間もかけて「一つの問題」に対してあれこれと思考をめぐらす経験を積んでいただけると嬉しい限りですね…っと、自戒の念も込めて思いました。

2010年10月6日水曜日

Within the frame, Women can be free.

時がたつのは早いもので、今年も残すところあと二ヶ月半となりました。みなさまいかがお過ごしでしょうか?僕は年度はじめに立てた豊富を見直しております…。はい…未達成項目がありますねぇ…しかも…結構なハードルです。豊富の内容は『外国人の彼女をつくる』というもの。いやはや、有言実行の性分なもので、これは是非とも達成せねばならんと思いながら、ずるずると今日までやってきたわけでありまして…。やはりこちらから積極的にアプローチをかけないといけないですね。一目惚れの恋を成就すべく、残り二ヶ月半positiveアタックに励んでまいる所存であります。

さて、ドでかいことを口でいっておき、その後に慌てふためきながら帳尻合わせのごとく、緻密な計算と戦略をたてることに楽しみを覚えている、ちょっと傍目には近づきがたい男、えびすが紹介する書籍はこちら。

商品の詳細

Georg Simmel。彼の名を記憶している人は、おそらく相当な強者に違いないことと思う。社会学・哲学の世界の中でも「都市の諸事物」を批評した人物として有名なのは、長大な論考かつ才気に溢れ鋭い視点を記した「パサージュ論」の著者ベンヤミンだろう。独特の視点から綴られる文章とその構成(まぁ諸事情は多々あるのだが)には頭を悩まされるばかりだ。ベンヤミンの陰に隠れて、その功績の素晴らしさを過小に評価されている人(私がそう思っているだけかもしれないが)、それがジンメルだ。

本書に収められている論考の入り口は、誰が読んでも理解できるように書かれているので、巷に転がる社会学書にありがちな「頭から迷わされる」ということはないだろう。題材も興味をそそられるものばかりが揃っている(「愛の哲学」「女性心理学の試み」「橋と扉」「額縁」「よそ見について」etc…)。その中から二つの論考「女性心理学」「額縁」を少し紐解いていこう。

「女性心理学」では、近代社会における女性の閉鎖性を主軸において、当代の女性の慎ましさ・貞操さに関し、口語調(訳者によるところもあろうが)で柔らかく解説している。興味深いのは、女性と芸術作品とが似ているとして、論を進めているところだ。女性=芸術作品性の簡単な流れを記すと以下のようになる。
女性
⇒家に閉じ込められる
⇒閉鎖的な環境
⇒内面世界への没頭
⇒自己の充足と統一≒芸術作品。
重要な点は、内面世界において世の中の諸事情を理解し体験する傾向が強いということだ。ジンメルは、女性は、男性のように物事を人類一般の事柄とした枠組みで考えるよりも、「自分ごと」として考えるため、「縛りの中」に己の自由を見出すことができるわけだ。これを踏まええて、芸術作品について考えてみよう。なるほど、額縁という縛りのある枠の中でしか、自由を発揮できない点、女性との共通点が垣間見えよう。

「額縁」では、広く人間一般の閉鎖性に焦点をあて、人間の外に向かっての自己防衛と、内に向かっての統一的結束の双方向性に関して、論を展開していく。小さな絵の場合、それ単品では自己主張がしにくいため、あえて「大きな額縁」を着飾る。これにより、散漫しがちな鑑賞者の意識をぐっとひきつけることができる。また同時に、周囲の作品との「独立性」も築くことができる。一方、大きな絵にあってはその必要はない。単独で十分な主張を備えているため、鑑賞者の意識を無理にひきつけてくる必要もない。ジンメルはこの額縁に関し、それ自体が個性を持つべきでないと述べる。額縁はあくまでも作品という「魂」を入れる器にすぎず、無駄に着飾っては魂そのものの存在が稀薄になってしまうということだ。…さて、これを踏まえて、少し私たちの世界を俯瞰してみよう。なるほど、世の中にはなんと大層な額縁を携えた人が多いことか。

ジンメルの凄いところは、諸事物の特性・素材・使用目的等に応じて、こと細かな論考を立てることができることだ。そして、その多くがすーっと腑に落ちるものばかりである点、彼の観察能力・類推能力は当代随一であるといっても過言ではない。もっとも、こじ付けだと言われてしまいかねない点は多々あるわけであるが…。

※都市に見られる諸事情を、これほど興味深くかつ含蓄に富んだ論考に纏め上げる手腕は、おそらく社会学者の中でも随一ではないでしょうか?無理に難解な言葉を連発して、読者を迷わせるようなことはせず、初心者の人にも想像しやすい展開の仕方には舌を唸らされます。社会学の入門書、頭の体操の一冊として、本書を書架に加えることを心底お勧めいたします。後世に残したい社会学書でありますね。

2010年10月5日火曜日

Train your heart&spirit with passionate love!

さて、書きかけのブログが消失したときの悲しさといったら…それはそれはもう、何ともいえない気分になっちゃいますよ。そういえば昔、8時間かけて解析したデータが突如PCの不調で消失したことがあったなぁと思い出しました。そのときは、もう研究なんかやめてやる~!と思ったものですが、翌日にはすぐにまた研究生活に没頭していましたね。基本、嫌なことは翌日には忘れてしまう達なんで…人生前向きが一番。まぁ嫌なことでずっとドロップしてても気が持たないので(正確には懐が持たない)、前向きに生きるようにしております。これでも昔はペシミズムだったんですけどね。

さて、最近いろいろな人に「顔つきが変わったねぇ」といわれ、歳を食ったんだなぁとしみじみ感じ入りながら、自分の人生を振り替えることしばしばなえびすが紹介する書籍はこちら。

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人間の体内に住まう回虫の代表といえばサナダムシ(勝手にそうであると私は思っているのだが)であるが、著者はサナダムシの研究の権威である。が、今回はサナダムシのお話は一先ず脇において、オトコの生命力について熱く語っている。その内容を少し紐解いていきたい。

世の中で「草食男子」という部類が生まれたのはここ数ヶ月のことであろう。女性に対してがっつかず、女性の家に泊まっても何も無く帰ってくるという草食男子。勿論、この件だけで草食男子と決め付けるのはいかがなものかと思うが、世の中のオトコが以前ほど女性にがっつかなくなったのは事実であるようだ。以前ならば、気になるあのこと寝た寝ないの話題で、半日がすぎてしまうこともしばしばあったようだが、昨今では続いても1時間程度がいいところだろう。女性の話題よりも、漫画の話題や、芸人の話題、サークルの話題などのほうが、話の主導権を握りやすくなっているようである。もっとも、私の知る限りの狭い範囲のことではあるのだが。

異性への興味が減退している要因として、昨今の情報社会の弊害と家庭における過保護があるのではなかろうかと筆者は述べる。その内容は以下の通りだ。
まず前者について。今日我われは興味のあること(例えば女性の身体とか)について、インターネットを使えばその内容に関し即座にかつ容易に知ることが出来るようになり、以前は神秘的な存在であった「モノゴト」についても詳細な情報を手に入れることが出来るようになってしまった。その結果、実世界で生身を持って神秘を調べることなく、神秘を手に入れることができ、そこで満足してしまうオトコがたくさん現れてしまったというわけだ。
次に後者について。親から比較的やさしく育てられた青年は、自身が傷つくことを恐れ、自分から好きな人へ思いを伝えるという挑戦をしなくなってしまった。自分が傷つくことを避け、なぁなぁで成り立った男女の仲で満足する人が多くなってしまった。なので、肉体関係をもったとしてもそれは互いの「遊び」で終わってしまっているというわけだ。著者はこのフラットな関係に関して危惧を抱いているのであるが・・・私個人としては白黒付けられないこと記しておきたい。白黒付けられないのは、昨今の若者を取り囲む社会情勢・将来観を鑑みた上でのことである。

著者の博士という立場を考えれば、様々なデータを基に裏づけのある「堅い」論考を記すことも出来たはずだ。しかし、本書がとる体裁は「若者にも読みやすく、納得できる内容」を保っている。おそらく、著者の「今の日本の若いオトコたちに、諸外国のオトコたちと肩を並べるくらいまでに元気になって欲しい」という願いが本書に込められているような気がしてならない。暗い話題ばかりが目立つ日本社会を明るくしていくのは今の若い世代の力である。そのためにも、まずは恋愛・肉体からオトコを強化していこう!…著者の思いが今の若手に届くことを願いたい。

※僕が藤田先生を知ったのは高校生のときでした。当時、大学への数学のコラムにてサナダムシの素晴らしさを語っていらっしゃったのを記憶しています。世間一般ではサナダムシに対して悪い印象が貼られているようですが、実際は腸の調子を整えてくれるありがたい存在なんですね。本書でも「全ての虫に悪者あつかいするという風潮」に対して危惧を抱いていらっしゃいます。程よく菌がいる状況でないと、人間の免疫力はどんどん低下してしまい、しまいにはひょんなことで疾患にかかってしまうと藤田先生は述べます。元気に外で泥だらけになって遊ぶ、汚れること=成長することなんですけどねぇ…今のご時世ではなかなか通用しないようで、なんとも残念であります。

2010年10月4日月曜日

The People are Inclined to Dive into Implicit Knowledge.

さてさて、ここ数日ラジオ版学問のススメにかなりはまってっしまいました。いやはや、無料で1時間弱にわたる一流の方々のインタビューを聞けるのは嬉しい限りであります。お勧めは栗城史多さんの回。栗城さんの「自分で決断して、実行して、失敗してもそれを隠さず、次の目標に挑戦するその姿勢」にひどく感動しました。彼の生き方・考え方には見習うべきところはたくさんありますね、新しい何かに取組もうとしようとする人にはそれを特に感じ取るのではないでしょうか。更なる活躍・経験の積み重ねを期待するばかりです。

さて、「ロールモデルは誰ですか?」と聞かれたときに、「いません。僕自身です」と大見得きって答えてみたい誘惑に駆られる、3小(小心・小物・小動物)男、えびすが紹介する書籍はこちら。

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しばしば本ブログでも言及している無意識下の知識。今回紹介する「暗黙知」も片足を無意識の世界に踏み込んでいるといっていいだろう。夢の中に出てくる、"全く聞いたことも見たことも無いような物事に出会う"といった意識下には昇ってこない"明瞭な知"はなく、「こんな感じもあったかなぁ」といった"不確かな認識程度の知」と考えていただくといい。さて、前置きはこれくらいにして、さっそく本書の内容を評していこう。

「暗黙知は身体と事物との衝突から、その衝突が意味を包括=理解することにより、周囲の世界を解釈する」とポランニーは述べる。噛み砕くと、次のようになる。…我われ人間は物事と出会ったときに、対象を理解するに当たって「あぁ、この人・これはこういった特性があるのか」と理解する。そして、そこ出生まれた理解(例えば気持ちい・不快だという理解)を、対象を取り囲む世界にまで我われが半ば無意識に「滲み出し」てしまうということである。一人の無礼な男がいたとして、彼と接した人は彼の家族や友人までも「喋ったことも、あったこともない」にもかかわらず、勝手な「像」を脳裏に描いてしまう。この半ば無意識に造り上げられた概念・像こそ、暗黙知そのものだ。この暗黙知、何も言葉だけで形成されるものではなく、対象の表情・匂い・感触といった「五感」全てを通じて形成される点、心にとどめておくべきだろう。

しこうして、我われ人間は五感をフルに活用して暗黙知を造りあげるわけだが、この暗黙知の功罪について少し考えてみたい。まず功についてであるが、これは日本人お得意の「空気を読む」にしばしば現れる。その場の状況、相手の表情の変化、言葉の使い方を敏感に感じ取り、物事がうまく運ぶように取り計らう…こういった点において、「それが成功」した時には、暗黙知の功は多大なものであろうこと、容易に想像されよう。さて、もう一方の罪についてはどうだろうか?これもしばしば経験していることだと思う。一つの情報から類推される「こんなかんじだろう」に翻弄され、自分勝手な断定を下してしまい、「偏見」を生み出してしまう。その偏見が基となって、対象に対して物理的・精神的な攻撃が下すに至ってしまう。

ここまでは個人の中での暗黙知について論を掘り下げてきたが、これを広く社会一般にまで拡げるとどうなるだろうか?個々人の考え・思想・意思が集約した「社会」が備える暗黙知…個の内で収まっていたはずの「自分勝手な断定」が「共同体・国家レベル」で行われた時に一体何が起こるだろうか?我われが直面している社会の中に、その答えの片鱗を見出せるのはいうまでもない。

※サンデル教授の「justice」を読む前に本書を読んでおくと、内容理解が深まるのではないでしょうか?暗黙知の存在を理解すること、ただ理解することだけでも関係性の構築の仕方が大きく変わってくるものと思います。あと、そろそろ新しい形での書評を始めようかなと考えています。その形とは、一枚の「クリティカルFigure」を添えるというもの。言葉のみではなかなか理解しづらいというお声を多数頂いておりまして…近く、その形での書評を展開させていただきたく思います。しばしお待ちくだされ。

2010年10月3日日曜日

MAC skills will be of great importance in future

時々、あまりに素晴らしい書籍に出会うと、誰かに教えたくなくなることありませんか?これだけは、座右の一冊として、あんまり広く世の中に広めたくない…みんなが知っちゃうと、なんだか、この本の価値が(勝手な解釈なんですが)減じられてしまうようで嫌だ…実は僕の周りに結構いるんですよね、本当に素晴らしい書籍は誰にも教えないというヒト。とかくいう、僕もその一人だったりするのですが。とりわけ、洋書で翻訳されていない書籍に多いです。これは、俺だけのものだぁと自己満足に浸る自分に酔っちゃうんでしょうか。まったく卑しいこと限りなしですね、すいません。

さて、そんな卑しい心を持っていながらも、結局は喋りたくて仕方が無くなり、周りの友人たちに「これはやべぇべよ」とぽろぽろ内容をこぼしてしまう、アポ男えびすが紹介する書籍はこちら。

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とうとう出合ったか…本書をぱらぱらと見渡した瞬間に、これは「大当たり」の書籍だと直観した。出会いはAmazon.USA。本書に付けられたブックレビューの数(発売一ヶ月で50近く)に、「どないな本やねん」と興味津々で中身拝見をクリックした時だ。次の瞬間、あふれ出る珠玉の「Figure」に感嘆するばかりの自分がいた。

絶賛する理由は、ビジネスモデルについて「口」ではなく「図」をフル活用して紹介している点だ。巷に溢れるビジネス書の類は、おうおうにして方法論についてはたくさん書かれているのだがの質が稚拙なものが多く、記載の内容を勝手に図に落とし込んでもいまいちわかりにくい書籍が多い。まぁ私の理解能力が劣っている点もあろうが。翻っての本書、抜け目がないのだ、初めから終わりまで一貫して。本書は、新規のビジネスモデルを創出するための「教科書」として、広く大学・企業で有効に活用することができるレベルを保ちつつ、その内容説明・j方法論は簡略に書かれており、途中で迷うことなくビジネスモデルの創出プロセスを学ぶことができる。

さて、その方法論を少し紐解いていこう。
世の中には様々なビジネスがうごめいている。洋服をうったり、自動車を売ったり、ネット上で講演記録を売ったりとビジネスの展開の仕方・収益の上げ方は、千差万別に見えるものだ。しかし、どのビジネスにも共通する「核」となる要素および要素同士の「関係性」は存在する。違いはそこではなく、要素の展開の仕方・要素同士の関連性の付け方にあり、それらが「コア・コンピータンス」になっているわけだ。このコア・コンピータンスを把握・創出するためのツールとして、筆者らはBusiness model campusを提唱する。9つのビジネス要素とそれらの連関を、Firgureベースで感覚的に理解することができるcampusだ(以下参照図)。


分析事例に関しても、WiiやPSP、iPodにCar2Goなど、とっつきやすい題材が選ばれており、常に右脳・左脳を刺激されることだろうと思う。また面白いのは、ビジネスモデルを「平面」だけでなく、「階層」にわけた(3次元ビジネスモデル)概念が簡単にだが付記されている点だ(※ちなみに、3次元モデル図については使っているのは私だけしかいないようだが)。時間の流れを加えると、どうしても「階層」で考えなければならなく、二次元では限界がある。そこで、うまく階層を作り、時系列による影響までも含めたビジネスモデルを描くわけである。まぁほとんどの人には理解されない代物である…経験者は語るだ。

巷に溢れるビジネスモデル・イノベーションを謡った書籍に翻弄されている方には、是非本書を手に取っていただければと思う。経営の基礎であるManaging-Analyzing-Creating(以下MAC) 三つのスキルを身につけるにもってこいの書籍でであること間違いない。また、今後のビジネス社会を鑑みるに、どのような職種にあっても、「経営センス」なる力が要求される時代がやってくるのは時間の問題だ。一歩、二歩先を見据えて、今の内に経営センスを磨いておくのも良いのではなかろうか。

※先日、松岡正剛氏があるラジオ番組で語っていたことを思い出しました…日本を除くアジア人の現代アートがかなり凄い。日本人は良くも悪くも村上隆以降、原研哉に代表されるような「ミニマリズム」の路線をとってきたが、今のアジア各国では、膨大な情報量を一つの作品に落としこむことができる作家がたくさんいる。彼らの凄いところは、複雑怪奇で互いに喧嘩しそうなモノ同士を、うまくカオスの中でコントロールしていることだ。コントロールできていないと、まぁ子どもの遊びなんだが、それがしっかりとできているので凄い作品に仕上がる。日本の現代アートはいよいよ絶壁に立たされるんじゃないかな…かなり僕の編集が入っている点、ご容赦ください。これと同じことが、教科書や参考書にも当てはまるんですよね。日本発の教科書で「コレは!」という書籍に、ついぞ出会った覚えがありません。難解な言葉をわざとらしく使って、図は全くなく、視覚的な理解ができない、そんな書籍がほとんど。反対に、図を使ってわかりやすく書かれていると思ったら、内容が稚拙であったり。高度な内容を維持しつつ、わかりやすい説明・図が満載されている教科書が出てくることを願います。あ、ちなみに、本書は2010年度後期No.1候補の書籍であります。

2010年10月2日土曜日

書評リスト 2010.01~2010.09

2010.01~2010.09までの書評リストです。


~起業・ビジネス~


~政治・哲学・社会~


~芸術~


~科学~