野生の動物の死を通して考えさせられること、それは人間が生に固執しすぎているということ。昨今の行政・メディアによる情報操作の影響も大きいのか、「とにかく長生きすればいい」「長寿は名誉だ」という風潮が広く大衆の内に流れているように思います。
鎖国から開国へとシフトし、西洋の医療技術が大量に流れ込み始めてから、150年余りが経過した現在、日本の医療レベルは目覚しい発展を遂げてきました。昔ながらの日本の食生活スタイルが健康に良いことも相まって、広く世界に「長寿の国、日本」の名で知られるようになりました。
しかし、その長寿の中身を見てみると、いささか残念なところが多々見受けられます。病院のベッドで寝たきり、家族からは邪魔者あつかい(年金だけは搾取)、心を許せる友人の不在etc こんな状況で命をつないでいて、果たして幸せなのかどうか。今、ここで息をしている僕には、そんな生活は御免願いたいと思っています。…もっとも、まだ老衰による自身の死の訪れを感得できていないため、後世になって「あの頃は詭弁を吐いていたもんじゃわい」となっちゃうのかもしれませんが。
また、世論に耳を傾けると「孤独死が…問題…云々」といった声も聞こえてきます。「一人で寂しく命を引き取ることに悲痛を感じる…かわいそうなお年寄りを救おう!」という、あからさまな善意を国民に訴えている感が否めません。生命問題は話題にしやすく、政治戦略でも民意に訴えやすい事柄ですからね。
さて、孤独死からお年寄りを救うにはどうすればよいのか?しばしばメディアが取り上げるのは、「積極的に周りの人たちが高齢者の家を訪れてあげて孤独死を防ごう」という類の模範解答です。しかし、この問題の本質は「孤独に死を迎えること」にあるのでしょうか?何かもっと深いところまで探らなければいけないような気がしてなりません。
上に挙げたように、表面的には高齢者の難点を洗いだし、解決方向に導く政策・方策が採られているようです。でも、それは応急処置に過ぎない。高齢者の数は増加の一途をたどっています。
なかには、高齢者が増えれば彼らが自発的にコミュニティを作るようになるのでは?と考える方もいましょう。しかし、それは過去の生活スタイルがあっての話し。現在の「マイホーム」スタイルにあっては、そのようなコミュニティは生まれにくい。個人的な生活のフレームが狭すぎるんです。
経済成長にとらわれ、実生活を省みず、資本という直接的な富を手にすることに眼が眩んでしまった、日本国民・政府全体による「失態」でしょう。もちろん、若者達には何の非もありません。むしろ、彼らには謝罪しなければならない。
今の大人の大半は、「楽な解決方法」に走り、それを煽る「メディアに流される」という傾向を持っている気がします。むしろ、若者達のほうが冷静に判断できているかもしれない。仕事に追われる日々の中で、どこか空虚感を感じざるを得ない社会。その社会の内から「孤独死」も生まれてきたのでしょう。喫緊に要されることは「社会構造の変革」です。
インフラの整備がほぼ完備し、インターネットも広範に普及した現在ならば、変革のスピードは50年前よりは格段に速く進めることができるはずです。存分に変革を行うことができる土台はできている、のこる問題は国民の意識でしょう。
今こそ、メディア・政府を上手く活用し、全国民の意識変革を起こさなければならない。もっとも、そうなると全体主義的な感が否めません。しかし、そうしないと、日本社会は様々な観点でより大きな困難に直面することになります。
※さて、「言うは安し、するは難し」でありまして、なかなか腰を上げられないのが現状です。大事を語っているえびすもそんな一員。うーん、本当に「思い」腰を上げないといけないです。行動は迅速に、決断は慎重に。昨今は、決断さえも迅速に行わなければいけない状況ですけどね。