2010年2月20日土曜日

What can we do in front of the real world ?

この時期になると、執筆欲がじわじわ僕の心を奪い始めます。はぁ、社会人は自由な時間が少ない(そら当たり前だが)、時間を上手く使わないと、人生を棒に振っちゃいそうでちょっと不安になります。

でも、最近の社会人は、結構場当たり的に楽しんでいる人が多いのかな?少なくとも、僕の周りにいる人達は「仕事が忙しい、終わらない、今日も残業だ」とは言いつつ、「自分を磨くための時間がたりない」という意識はもっていないようです。うーん、あきらめにも似た感じでしょうか。「もったいないなぁ・・・」とつぶやいておきます。

さて、時間がないことを言い訳に、自分磨きに怠けているえびすが紹介する本はこちら。

商品の詳細

現実をどのように捉えるか。われわれ一般の人たちが捉える現実と、特異な人たちの集団が捉える「現実」には境界線が引かれている。後者の「現実」を、しばしば「現実からの逃避」と一般の人たちは捉えようとする。しかし、彼らの現実は、ある意味で超現実的だ。なぜなら、彼らは現実から「逃避」していることをわきまえつつも、「現実」の世界へと踏み込んでいくからだ。非難されていることは知っている。だけど、そこに踏み込んでいかないと、自分のよりどころがなくなってしまう。一種のスノビズム(無意味・反対の効果があるとわかっていながらも、それを肯定する選択を選ばざるを得ない)に陥っている。

「現実と虚構」。私が生きている「この世界」には虚構だらけだ。TVのCMで「これを使えば、さもモデルのように綺麗になれる」といった類の虚構、ディズニーランドのように、「全てを理想化し、非現実的な楽しさを提供する」虚構、「長生きこそ人間の美徳」という宣伝文句で固めた医療世界の虚構・・・数え上げればきりがない。

一見、われわれが現実と捉えている世界が、じつは「現実」であるという可能性を排除することは不可能だ。なぜなら、われわれは何が「正しく」「正義」であるかの真理を述べることはできないから。無理やりにマスを築いて、さもそのマスの考えが「正論」であるかのように社会を上手く操作すること、根本的な統制欲は古来ギリシャ時代から変わっていない。

上に挙げたことを基軸として、贈与システムと資本システムを比較していく。そこに現れるのは「資本主義社会」の不可能性だ。「リスク社会」、「自由の奨励、「豊かな生活」 etc…これら資本主義が生み出した「概念」はそもそも徹底的に追求することで、「萎える」システムを内包している。(バタイユではないが)過剰がすぎると、そこには「破壊」しか起こらない、いや起こさざるを得ない。

本書から、今の日本社会に対する解決策を読み取ろうとすることは無意味なことかもしれない。しかし、「不可能」と思われるうちにも、一輪の可能性は残されているはずである。読者には是非、その一輪の可能性を見出し、育て上げてほしい。

※「不可能性の時代というタイトルから何を想像するか?」・・・最近の読書への取り組みに、「タイトルからコンテキストを想像し、一つの完結するストーリーを築く」というステップを組み込んでいます。これ、結構面白いんですよ。とってもクリエイティブな思考が要求されると共に、コンテキスト構築能力も身につきます。「難しそう・できなさそう」なことに挑戦することで、自分の能力リミッターを大きくはずすことができるものです。ぜひお試しくださいませ。