2010年3月28日日曜日

不夜都市、六本木。

3/27の夕方から3/28の朝方にかけて六本木アートナイトに参加してまいりました。いやーすごかった・・・人の数が。夜中の11時を回っても皆さん帰る気配ゼロ。美術館のチケットを買うのに20分待ち状態。日本だと東京でしか体験できませんね、この活気は。

アートが好きで参加しているのか、ただ祭り騒ぎが好きで参加しているのかはわかりませんが、多くの人が一同にアートを楽しむ時間を「共有」できるのは素晴らしいことです。とくにライブパフォーマンスは絶品。感動体験を共有する機会が減ってしまった現代社会にあって、ライブパフォーマンスのように「何かをきっかけに、全く繋がりのない人たちとの間で一体感を得られる経験」こそ今の日本に必要なことでしょう。今後、もっとアートナイトのような大多数の人が夜を通して通じ合えるイベントがたくさん行われることになるのではないでしょうか。需給バランス、収支バランスを考えて、アートナイトのような「ライブ型イベント」は優秀な数字を出している気がしてなりません。どなたか内実を是非ご教授くださいませ。

さて、アートナイトの中身ですが・・・総括すると「資本主義とカオスと大衆」といったところでしょうか。物質があふれすぎた社会、生活が便利になるばかりの社会、だけどそれは本当に我々が望んだ「社会」なのでしょうか。表層ではなく、深層レベルでの「望み」という観点においてです。世界の多くの社会は資本主義という一つの「価値創出モデル」のうちでまわっています。

価値創出モデルを上手く使用して、資本=富を獲得した人たちは物質的な豊かさという点で「satisfaction」を得ることに成功した。しかし、彼らは「それ」を獲得することで、それを獲得する前にもっていた何かを見失ってしまった。一方、資本を獲得した人たちの裏には、「物質」により色々な意味(ゴミ捨て場、労働力etc)で追い立てられる人たちもいる。

資本主義の価値創出フローは以下の通り。

無地のカーテン→ニーズにあう装飾の付与→無地のカーテンより「高い価値」

ちょうど芸術も資本主義のようなところがあります。全く無意味な「ゴミ」に近い作品たちに巨額の「価値」が付されることになる。それはまさに資本主義で執り行われている「価値創出」と同じようなものでしょう。しばしば問題としてとりあげられるのが、この「高い価値」により資本の循環歯車がひずんでしまうこと・・・第一次産業の農作物を安く仕入れて、「ブランド」を付与して転売するといったかんじですね。これと同じことが芸術の世界でも起こっていることでしょう。まぁ芸術の場合はもう少し入り組んだ構造(心理的な面の比重が高い)になっているのでしょうけど。

※ドンちゃん騒ぎの六本木アートナイト。当日参加した東大のセミナーとは全く正反対の域にあるイベント。そこに参加して得られたモノはprice lessな経験です。作品のボール皿に嘔吐してしまう女性とか、作品の前でいきなり鼻血が噴出してしまった人とか・・・まぁろくでもないような経験ですけど。しかし、この経験を少し掘り下げると、面白いものが見えてきます。たとえば、上に挙げたような「一見ハプニングにみえる」ものごとが、実は「あらかじめ予定されていたこと=予定調和」のうちにあるものだったとしたら?どこからどこまでが「パフォーム」という「創られた虚構の世界」で、「想定外の創出」との線引きを行うのが難しい・・・現代アートの可能性は「虚構と現実の境界線のピントがずれたとこ」にあるのではないでしょうか。そのずれたピントをどうやって表現しようかなぁとアーティストの方々が苦心して考え、創り上げた作品を大衆に上梓することで、「何」訴えたかったのか・・・答えは千差万別。だからこそ可能性の幅が広がる。「ゴミ」に「価値」を見出すことは、資本社会に還元すると、「直接的に無意味なもの(現代社会ならば、他者とのコミュニケーション・新規の気づき)」に「価値」を見出すことなのではないかな・・・とギャラリーの出口付近のイスに「並んで睡魔に襲われている大衆」を目にし、思った次第であります。

2010年3月27日土曜日

Next Education with Social XXX

今日は東京大学のセミナーに参加してまいりました。
であります。13:00~17:00の長丁場・・・にもかかわらず、当日睡眠時間2hoursの脳は活性状態から醒めることがありませんでした。

セミナーの内容ですが、講演2本に、グループディスカッションとパネルディスカッションがそれぞれ1本のセミナー構成。それぞれの講演は、教育の世界に不慣れな一般人にもわかりやすいように、かなり噛み砕かれた内容となっておりました。

最初の後援者は慶応大学の上席研究員、松村太郎講師。講演の内容は、Social Mediaについて。Socialという単語は最近良く耳にしますね。ここでのSocialは広く社会全体を指します。日本だけでなく、世界規模での社会。そこに焦点を当てて、Mediaを語る、語る、語る。iPhoneというハードの世界的なヒットとTwitterというソフトのinnovationは、2009年度に「iT革命」を引き起こしました。で、今年がiT革命元年だとか。どこまで広がっていくのかは未知数なところがあるが、今後の10年ぐらいで、twitterやGoogle bazzを利用した、従来の対面型とはまったく異なるネット上の「ネットワークインフラ」が構築・整備されるとのこと。

僕自身が今考えていることとリンクしているのが、Social mediaを教育に取り入れていくこと。日本で4月の末に発売されるiPadを用いると、どのような教育ができ、社会とどういった個々人の環境を築くことができるのか。今後の経済・社会環境が辿る方向性を考えた時、今の教育モデルでは必ず「至らないpoint」がたくさんでてくるのは間違いない(今の日本社会でも十分にそれを感じ取ることは出来るでしょう)。上手く社会のneedsに沿った教育を行っていかないと、日本沈没は間違いありません(ここは僕の考え方です)。

プレゼンテーションはジョブスを意識している感がありました(松村さんがどういうスタンスで作っているのかは知りませんが(笑))。余計な情報を盛り込まず、露出を抑えたスライドと明確な言葉の選択のおかげで、手元資料無しでも十分に理解することができました。真似したくなるほど、素晴らしいプレゼンスタイルにため息が出るばかりでしたね。

二人目の後援者は藤沢烈さん。RCFの代表です。講演題目は「自律的人材像と求められる教育」。実はこの藤沢さんの講演目当てでこのセミナーに参加いたしました。なんたって経歴が面白い。僕の経験上、普通とちょっと違う経歴を持つ人の話は、Attract・Awarenessされることが多いです。 

藤沢さんのお話で興味深かったのは、「企業が求める人材像の変化」についてであります。上に記した松村さんと同じ様に、「既存の教育方法から一皮剥けた教育方法を身につける必要性」を熱弁。そのためには教師の質を上げなければいけないとのこと。ただし、何を持って教師の質を定義するかについての明確な線引きは出来ないものであり、難しい問題。また、今後の「Work Styleの変遷」がどういった感じで起こりうるのかについて、呑み込み易く説明していただけました。生まれてくるであろうビジネスの多くは、規模の小さい「マイクロビジネス(not 零細企業)」が主流であろうとのこと。その内実は、企業に属しながら、各々が仕事が終わった後の時間、休日の時間を上手く活用し、小さなビジネスを展開していく時代がやってくるというもの。マイクロビジネスならば、手持ち資金も必要でなく(必要最低限は必要ですが)、失敗しても「次ぎの可能性」に賭ける事ができます。自分のやりたいことを手軽に出来る世の中(Social mediaの恩恵)になった今、これを積極的に利用しようと意気込む人は多いはずとのこと。Yes. I suppose so too.

ディスカッションでは、各分野で働く人たちから、ためになるお話を聴くことが出来ました。ディスカッションレベルまで持っていくことが出来なかったのがちょっと悔やまれましたね。次ぎはもう少し勉強して参る所存であります。

東京の魅力は、こういったレベルが高く、社会のためになるようなセミナー・シンポジウムが無料で沢山開催されているところです。東京への憧れは日に日に増すばかりです・・・うむ、苦しい(笑)。必ずや帰ってまいりますぞ!


教育のいかん。

「今年の新入社員はETC型」
なんでも、「心のバー」がなかなか開かないとか。誰かがレッテルを貼り、それを流布するのは自由だが、流布されたレッテルを見た人は「それ」に振り回されているようではいかん。いかんせん、昨今の社会人は即席の情報にとらわれすぎな感は否めない。情報過多な時代であるが故、己の頭を用いて考える暇もないのはexcuseでしかない。寝る間を惜しんでも、考え抜くのだ。

結構、たいそうなことを述べておりますねぇ。これ、私の脳内思考です。まぁ思うのは簡単で、実際に実行に移すのは、思うの100倍以上難しいものであります。私の有言実行率はおよそ一桁台・・・うむ、今年はせめて二桁台に上げることを自身に誓います。

さて、社会人関連で考えさせられるのが、教育についてであります。国を考える、世界を考える上でも、教育政策は数ある国策のうち、かなり高い優先順位に位置するべきであります。金銭的な裕福レベルで考えてはいけない。世界がこれから進んでいく方向性は教育の如何で大きく様変わりするのは間違いないわけであります。そこで、重要となるのが、どのような政策モデルを率先して取っていくのか。最優先で執り行われるべきモデルとして、「現状の資本主義から脱したモデル」、「資源・食料・エネルギーが上手く分配されるモデル」、「自由と平等の折衝がうまく成り立つモデル」、「国家の資本量ではなく、幸福量に重きを置いたモデル」などが考えられます。そして、これらの問題と同レベルで考えるべきものとして、「未来の世界を見据えた教育のモデル」を挙げたい。

さて、そんな日本が現在とりくもうと知っている教育政策はどんなものか。子供手当てもいいが、それ以上に「教育の根幹」を今一度考え直さなければならない。そう思うのは僕だけではないはず。これまでのブログでもしばしば述べてきたことではありますが、今一度声を大にして言いたい(まぁ言うだけなんですが・・・)。「ニトロを積んだ列車が、ものすごいスピードで暴走状態にあるとして、その辿る線路を上手く操作しないと、とんでもないことになる」と。今回の金融危機はある意味で、鎮静剤になりました。が、再び暴走のエネルギーを貯えつつあります。はてさて、世界はどうなることやら・・・

少し脱線してしまいました。今日紹介する評はこちら。


政府の方針としては、今後の10年間で、教育特に大学における「海外留学生」をひきつけてくることが出来る政策をとっていくらしい。competitiveness(優位)とHuman resource(人財)の二つに重点を置いて政策を執り行っていくとのこと。

で、その中身とは一体どんなものか。日本の大学が、海外の留学生をひきつけることができない要因として、「高い日本語のハードル」がある。ごもっとも。その対策として、英語だけで授業が行われ、かつ、単位を獲得することのできるコースを増やす。その他の意見としては、サポートスタッフを充実させる、インターンシップを増やすなどが挙げられております。

うーん、正直いって、大学院の授業ならばすべて英語でやっても良いような気がしないでもない。特に、国文学とかいった日本語専門科目でないならば、英語でやるほうがbetterだろうと思います。そして単位取得を難しくしてしまえば、なおgood。英語でコミュニケーションくらいは取れるようでなければ、これからの社会で生きていけないのは間違いない(内需は覗きますよ)でしょう。

あと、日本の「国際学部」についても言及されています。なんでも現在のkokusaikaは、日本文化を外国文化から守るような方策が採られているとか。ほんまかいな。で、行政は「諸外国の文化・言語を学び、日本語とその文化をより深いものにしていく」ことに重点を置いている・・・これは実際に大学の講義を受けてみないとわからないところがありますのでなんともいえないです。僕の友人の話をきく限りでは、結構行政の方向性に近い指導を行っているようですけどね。

で、このプロイジェクト(kokusaika seitei seibi jigyou)が現状どうなっているかというと・・・先の日本経済の先行き不安によって、「予算カット・次ぎのステージに進める(実施までには至らず状態)次期の延期」という結果。なんとも残念な状況にあります。まぁ、危機に瀕して「何を優先するか」を考えた時、諸外国の人たちよりも自国民の生活・幸せを大切にするのは最もなことなのでしょうけど・・・僕としては、予算維持で積極的に次ぎのステージへ歩を進めて欲しかったなぁと思います。
少子化、リーダーの不在、経済の先行き不透明を考えた時、諸外国の人たちを受け入れることで、直面している、これからするであろう困難を乗り切るためのアイデアが生まれることは、多々ありますからね。上手く、外国の学生を誘致できるようなプログラムを早急に施していけることを願います。

※冗長な文でスイマセン。

2010年3月24日水曜日

read between the lines...

自転車で二人乗りしているカップルを見ていると、若かりし高校生時代を思い出します。黄昏の刻、ギコギコペダルを回しながら、ぶらりぶらり時間をつぶす・・・帰り道にあえて遠回りして、price lessに流れる一時がどれほど楽しかったことか。時間に追われる社会人になって、あの時代、あの自分の、あの時間の使い方が愛おしくてたまりませんね。

過ぎ去りし過去を、美化したメガネでしか見られないえびすが紹介する本はこれ。

商品の詳細

さて、ロジカルシンキングや論理的思考力が謡われたのは何時のことか。日本で一年間に使われている箸の数は?日本にある電柱の数は? 大局から小局へ、つながりを見出しながら掘り下げていく。それが、いわゆるロジカルシンキングなるもの。

口で言うのは簡単だ。そして、簡単な事象と例題としてロジカルシンキングを考えるのは誰でもできる。しかしだ、実際のビジネス、社会問題にかんしてロジカルシンキングを用いるのは難しい。なにせ、我々が直面しているのは、答えがないものなのだから。答えが見出せるうちは、まだまだ真のロジカルシンキングを行っていない。せいぜい、ロジカルコネクティングがいいとこだろう。

では、どうすればロジカルシンキングに達することができるのか。その方法が、まさに本書で述べられているコンテキスト思考だ。では、そのコンテキスト思考とはなにか?

簡略して云うと、「文脈を読む」思考。少し説明を加えるならば、「あるデータが示す傾向の背景に隠されている<お宝情報>を読み取る」思考。例えば、コンビニで弁当コーナーの充実が、店の売り上げに貢献しているというデータが出たとして、サラダコーナーを縮小したとしよう。確かに、弁当の売り上げは伸びたが、全体の売り上げはむしろ減少した。商品としては、サプリメントの売り上げが急激に落ちている。さて、この要因は何か・・・これを探ること、これが「コンテキスト思考=文脈を読む」である。

コンテキスト思考を身につけるには、かなりの努力を要する。ある分野の本を1冊読んだくらいで、いや、10冊ほど読んだくらいで、身につくような代物ではない。いってしまえば、その人が「どんな人生をこれまでに送ってきたか」が最も重要となる。主体的に物事を考え、判断を下してきた人ならば、コンテキスト思考などは、もはや板についているだろう。一方、ニュースに振り回されたり、誰かの思想にどっぷり漬かってきた人が、コンテキスト思考を身につけるには、相当大きな壁を乗り越えなければならない。

※僕の周りにも、コンテキスト思考をできる人はたくさんいます。そして意外にも、コンテキスト思考を備える人たちの多くは、芸術家や建築家だったりします。疑問に思ったことを、一度自分の思考の中に落とし込んで、そこから答えを紡ぎだす能力を築いてきたことが要因でしょうか。概して、コンテキスト思考ができる人は社会から「何か」を吸収する量が半端でない。好奇心旺盛で、少しでも興味を抱けば挑戦し、体は動きながらも頭で色々と考えています。端から見ている僕には、なんともうらやましい能力であります・・・うむ、我精進せよ・・・でも、欲張りすぎて「変なもの」まで吸収しないように注意しなければ。変なものが何かはここでは言いませんけどね。

2010年3月22日月曜日

思想って何だろう?

Google TVのうわさに心躍らせている今日この頃。なにせ、僕の部屋にはTVがないものですから。NHKのいくつかのプログラムと朝ナマぐらいしか見たい番組はないんですけどね。でも、この二つだけは、番組としてのクオリティが高いので見逃すべきではない・・・民法はyou tubeとkey hole TVがあればこと足りるんですが、NHKだけは・・・。

さてさて、TVなし生活のおかげで、今年に入り60冊の本を読み終えることができたえびすが紹介するtoday's bookはこちら。


久しぶりにヘビーな内容の本に出逢ったように感じる。およそ、日本の近代の歴史、現在の政治情勢を把握できていないと、本書の内容を味わうことはできないだろう。一昔の書物にあったように、「ある程度の下準備」をしてから読むのが著者たちへの「礼儀」であろうか。まぁ、そんなことまで口出し・教養すべきではないのは百も承知ではあるのだが。

日本の思想とは一体何か。この素朴な疑問に答えるのがどれほど難しいことであるか。日本の古来からの歴史を鑑みれば容易に想像がつくであろう、そう、確固たる思想(およそ哲学的な考え)というものが日本には古来より存在していない。いや、存在はしているのだろうが、「つかみにくい」のだ。

この「思想のつかみにくさ」が我々の政治・社会に引き起こしたもの、それは、「誤った言葉の使用」である。例えば保守。今の日本社会で保守といえば、伝統文化を守るとか、国のしきたりに忠実になるという感じに捉えられているようだが、本来はそのような意味ではない。保守とは、「理想社会など所詮ユートピアなんだよ。そんなものできるはずがない。我々の社会に完全など存在しない。不完全ななかでベストを探していくだけだ」という姿勢に根源を持つ。以外に聞こえるかもしれないが、現状の問題を解決していくために、改革を進めていく姿勢こそ保守の意味するところである。

本書の前半では、上に示した「保守」に端を発し、政治・社会でまかり通っている様々な習慣・考え方について「ほんとか、それ。」という疑問を発していく。そこから見えてくるものは、目からうろこ、非常に興味深いものばかりだ。例えば、話が繋がりやすいからといった感覚で、不用意に「昔の習慣が現在の習慣の基盤に生きている」といった感じの思想の展開ほど危ういものはない。関連性は小さいのに、無理矢理「それっぽく聞こえる・みえる事柄」を当てはめようと躍起になってしまう。その背景には、権力・名声に駆られる「人類の性」を垣間見られる。そして、無知な大衆は、その考え方に疑問を持つことなく、丸ごと吸収してしまう。

諸悪の根源はどこにあるのか。丸山真男が述べるような視点ではなく、もっと「人間的な」視点から眺めると、ある種の全体主義に偏りやすい本姓が、我々日本人の根本に潜んでいることが見えてくる。大局観としての日本人の本章を捉える分には、歴史ある習慣・考え方を持ってきても納得いくが、個人や、小さな組織にまでこの大局観を持ってくることには疑問が附く。個が総を形作るわけではあるが、個が内包する「習慣・考え方の振れ幅」は総のそれよりも、大きなものであるのは間違いない。

本書の後半は、日本の哲学者・政治学者・経済学者を取り上げ、過去の政策や社会情勢がどのように変遷していったか、そして、今われわれはどういった舵取りをしていくべきかについて述べている。もっとも、社会現状を分析しただけで、時流にあった新しい具体的な解決策は何も提示されていないのだが。

※うーん、この本には苦労させられました。なにせ、内容が結構なものでしたから。政治に疎いのを省みて、本書から知識を創っていこうと考えていたのですが・・・無計画もいいところでしたね。大反省。だけど、政治に疎い僕にも、本書の魅力は訴えてくるものがあります。とくに「疑う」「考える」「逆を取る」ことで、当事象が、一面だけでなく多数の面から成り立っていることに気づくことができます。そして、各々の事象について深く思慮すること・・・これを継続的に活用するようにするれば、独自の理念・信念に基づく「強い思考力」を手に入れられるはずです。いやはや、精進あるのみであります。

2010年3月20日土曜日

理想への道こそ至高。

s1oの社長さんのブログが素晴らしいので、載せておきますね。青年・若者は必読であります。


うーん、素晴らしい。実体験をもとに語られる苦労話ほど、人を惹きつけるものはないですね。
さて、最後の文章にあるように、お金がないだとか仕事がつまらないとか愚痴っている人は、自身の今ある姿を見つめなおしてみるべきではないでしょうか。日本に生まれたことが、物質的に如何に恵まれているか。日本に生まれたことが、如何に世界で通用する人になりえるか(努力は必須)。

「チャンスは待っていても来ない、自分から取りにいくもの」。こうありたいなぁという理想に達するためには、どのような場所で、どんな人たちと、どんな体験を創っていけばよいのか…その理想にたどりつくための道筋を、自分なりに考えて、勤勉に実行し、努力を積み重ねることが必須なことは言うまでもありません。いくら努力しても、どんなに血反吐をはいても、自分が思い描く理想に至らないことはたくさんあるでしょう。しかし、至ることができなかったことに悲観すべきでしょうか。本当に大切なことは、理想に達することなのでしょうか?

たいそうなことを述べながら、理想と現実のギャップに悩んでいるえびすが紹介する本はこちら。


国とは一体何か。国を構成するのは、国民である。国民を構成するのは、多様な民族であったり、富める者であったり、武力行使に訴える者であったりする。このように、国は様々な異分子から成り立っており、一つに纏め上げるのは非常に難しい。甲を立てれば乙がたたずなんてとはざらにある。一つの政策・施策をとるとして、それがどのような層にどんな結果を生み出すのか極限まで考え抜く必要がある。

小さな集団の利益が最大限になるように極限まで考え抜くといった能力を備える者・組織はたくさん存在するだろう。しかし、国単位で、様々な意志を持つ者たちの「総意」を汲み取る能力を備える者・組織は数えるほどしかない。しかし、この能力なくして「国はうまくまわらない」・・・ここで挙げるのはあくまでも途上国であり、日本のように社会・経済がmatureした国では事態は変わってくるだろう。

本書で最も印象的なのは、著者の「果敢なフィールドワーク」と「真のリーダー像」である。本書を通読した人の多くが、著者に頭をさげたい気持ち・著者の背中を追いたい気持ちに駆られるであろう。「自らの目で確かめないと、本当に必要なことは見えてこない」という考えの下、世界各国を自分の足で回る。危険を顧みず、時に激しく叱咤し、時に涙を流して周囲の者に訴える姿に惹かれるのは人間の性か。何時の時代も、このような「人を思う熱い情」をもつリーダーは必須だ。しかし、悲しいかな、そのような心を持っている人は少ない。わが国を省みてもそう。熱い心を持っていたとしても「同じ穴の狢」に入ると、その心は次第に私益に侵食されていくのだろう。

高き志も、やがては低き場へと落ち着く。水が上から下へ流れるように・・・

高い志を維持するのは多大な努力を要する。その努力を自ら進んで買って出ようとせずに、未来がどうして切り開けようか。本書で考えさせられるのは、途上国のリーダーシップだけではない。先進国でも、同じようなリーダーシップをもつ者が現れなければいけない。途上国の「縁の下の力持ち」役である先進国が崩れては、途上国の「国つくり」などできるはずもないのだから。

※著者は世界銀行の副総裁まで勤めた「草の根魂」のフィールドワーカー。彼女が「つくっていかなければならない」と思うのは「国民」ではなく「世民」、すなわち世界レベルの「民」ではないでしょうか。その延長線上に「国」という単位がある。「自国の幸福なくして他国への幸福なし」という信念を感じ取ることができます。何よりも現場を意志・意見を大切にし、積極的にフィールドワークをこなすその姿は、日本の政治家が見習うべき点ではないでしょうか。机上にそろった資料を基に、「こうすれば上手くいくはずだ」と思い政策を作ったとして、はたしてそれが「本当に民が望むことなのか」は汲み取りきれていない。僕自身の経験と照らしあわせても、資料・書物で得た「知識」をもって、現地に足を踏み込み、そこに住む民を眼(マナコ)でみて接すると、頭ではわからないこと・気づかなかったことを「体験」することができます。そして、この体験と積み上げてきた知識が織り交ざって、「体験知」が生まれる。この体験知に基づく案は、結構なアウトプットを生み出してくれます。ぬくぬくと安全な部屋に閉じこもって「あぁでもない、こうでもない」と愚痴ってばかりいないで、フィールドワークを積極的に取り入れることこそ、今の政治家・国を背負うリーダー達に必要なことではないでしょうか。
まぁ、すべてを自分の目で見ようとするような時間はないのが実情でしょうが・・・若者を側近につけて、「忌憚のない現地レポート」をさせるような政策があってもよいかなと思います。

2010年3月17日水曜日

つぶやいてますか?

皆様、つぶやいておりますか?私の周りの住人もTwitterで、がんがん発言している人が結構います。まぁ思ったことをどしどし書き込めばいいわけで、文の前後関係・文脈はあんまり考えなくていいわけで、相手の反応を予想する必要もないわけで・・・これらが意味するところはなんでしょうか?

Twitterがここまで流行した背景から、「物事を考えるのがめんどくさい」という風潮を読み取ることができます。一つの題材を掘り下げること=思考力、読者の誤認の恐れ=文章力、一連の流れを組み立てること=構築力 これらの能力全てが、Twitterでは無用の長物となっております。必要なのは、「気分」だけ。気分が乗ったときに、気分に乗った言葉を書く・・・うーん、なんだかもったいないなぁ・・・文章に色気を出すに、140文字では少なすぎると思うのは僕だけでしょうか?達人なら、140文字もあれば十分なんでしょうけどね。

Twitterの良い面も勿論あります。例えば、何気ないつぶやきから、他者との思いもよらない連関(創発とでもいいましょうか)が生まれると、ものすごく気持ちいい。ブログのような長い文章に対するresponse形式の「答え」ではないため、Twitterへの「答え」に含蓄されている意味合いは一つに定まりにくいのでしょう。そこから何を汲み取るかは、その人次第的なところがあるため、「ぶれ」が発生するわけであります。

で、僕がTwiitterを取り上げて言いたいこと、それはTwitterと「芸術」との連関性です。140文字のうちに、渾身の能力を駆使して、珠玉の言葉を埋め込むという点で、Twitterは「至高の言葉」が世界規模で生み出される可能性がある、「意識的な創造の場」であります。その一方、投稿された何気ない言葉が、思いもよらない連関・発見をもたらすという点で、Twitterは「無意識的な創造の場」でもあります。二つの反する「創造」を誘発しうる場としてのTwitter。非常に興味深いSNSであります。

※まだまだ珠玉の名言を紡ぐTwitterは少ないです。今後、その数が増えるのかどうかはわかりません。何せ、時流が「楽なほうへ、楽なほうへ」と急速に加速しているように思えるからです。一概に悪いと決め付けてしまうのはよろしくないでしょうけど。僕としては、Twitterは記憶メモ程度の活用でいいかなと思っています。皆様はTwitterをどのように活用されていますか?

2010年3月16日火曜日

Is it really new style?

Herewith I introduce the plain report of Mckinsey Quarterly entitled in "The new Japanese Consumer" This report analyzed the consume style of Japanese in buying products, taking services and sparing time.

The analyst mentioned that the turning point of consume style have begun before the Economy crisis(linked to the Reman shocks) that might be originated in 1990's. ・・・・・・・・・・

で、何を述べているかっていうと・・・
「日本人は1990年代から消費スタイルが徐々に変わってきました」
「最近では、余暇を家で過ごしたりする人が増えています」
「商品としてはPB(プライベートブランド)の販売量・売り上げが伸びています」
「インターネット市場はかなりの成長を示してきましたが、まだ一段の伸びが期待できます」etc

面白いことに、先日紹介した「嫌消費世代の研究」にあるような、若者の消費スタイルにも言及していること。うーん、世界的に見ても、日本特有の「若者に限定される消費スタイル」は興味深いのでしょう。記載内容は僕のブログに書いてある内容と変わりませんので、そちらを参照ください。
こちら

日本という国単体の消費動向についてMckinseyがQuarterlyで紹介するのは珍しいことです。最近はもっぱら中国ばかりです。経済成長の背景を読み取るのは、彼らの仕事に直結するものですからね。今回、Mckinseyがわざわざ経済的にmatureしきった日本の消費を取り上げた理由を少し深く考えてみると、これがまた面白いこと限りなしなのであります。皆様も、是非お考えください。

Mckinsey Quarterlyは登録さえすれば、だれでも読むことができるのでお勧め。興味のある分野(Fashion, Food, Energy, Economy, Politic, etc.)を登録しておけば、新着記事の配信をメールでお知らせしてくれます。英語の勉強+実益+FREEという、時代のトレンドを盛り込んたサービスです。さらにまわりの人よりも抜きん出たいと思う人はpremium登録をしちゃいましょう。もちろん、お金のない僕は無料サービスに甘んじております。

2010年3月14日日曜日

アタリなのかな?

今日も部屋にこもって読書。うーん、疲れているのか、本の内容がつまらないのか、最近はうたた寝状態に陥ること多しです。みなさまはベストな睡眠時間をお持ちでしょうか?僕の場合、睡眠時間は6時間±30分がベストかな。きびきびと集中して物事に取り組み、気分爽快、高効率なパフォーマンスを残すには、この睡眠時間がベスト。これよりも短すぎても長すぎてもだめというのも面白いものです。あくまでも僕の経験談でありますけど。

で、うたた寝気味に読み終えた本を今日は紹介します。

商品の詳細

既に読まれた人も多数いるかと思う。著者のジャック・アタリはリーマンショック(本質はリーマンに限らず、サブプライムローンと利己主義にあるのだが)金融危機が起こる以前に、本書を著して一躍有名人になった。まぁ昔から知っている人は知っているであろうが(勿論、私が彼のことを知る由もなかったのは言うまでもない)。

本書は、過去の歴史に照らし合わせ、近未来(~2050年あたりまで)に、世界各国・人類はどのような方向性を持って、歴史を重ねていくのかを分析・予想する。かなり詳細なところまで未来予想を展開しているので、全てを網羅的に紹介しようとすると、莫大な筆量になりかねない。今回は<ノマド>に焦点を当てることとする。

「ノマド」という単語がかなりの頻度で用いられている。まず、本書のうちで、ノマドとはどのような位置づけにあるのかを紹介する。一般的には、ノマド遊牧民的な人々を意味する。現在(2010年)までの、まっとうな生活基盤としてのノマドライフをおこなっているのはモンゴルの遊牧民、自国の環境・迫害によりノマドライフを余儀なくされているのが難民であろう(パレスチナ、クルド人、ダルフール問題など)。著者はこのノマドたちを<下層ノマド>という単語で括っている。

そして、新しいノマドとして、エリートビジネスマンや芸術家といった<超ノマド>に言及する。IT技術とインフラの整備が進むことで、もはやビジネスを進めていくにあたり、オフィスに居を構える必要性がなくなる。そして、移動中ですらも、仕事が可能となる・・・可能というよりは、移動中も仕事中であると考えざるを得ない状況に突入する(iPadが起爆剤となろう)。オフィスの不必要性の社会的認識が一線を越えた時、我々の生活はもう一段階変化することを余儀なくされよう。

<超ノマド>の人口が増えてくると、一般社会にはどのような変化が起こるのか。まず、人間関係の希薄化・他者への恐怖心が増長することになるだろう。そして、他者の渇望や他者への不安を解消させるサービス・娯楽ビジネスが大きく成長する。今で言うところの「合コン」が、もっと広く大衆のレベルで行われたり、死亡疑似体験を提供するサービスが現れると著者は述べる。

注目すべき点は、本書で取り上げられている様々な「21世紀の歴史」について、不幸な方向性を持つものに対する解決策を記していないことだ。仮に、答えを提供してしまうと、人々はその考えに固執し、より良い案が生まれる可能性を摘んでしまうかもしれない・・・そういった著者の危惧を感じ取れよう。

※未来を予想するのは最も難しいこと。それに果敢に挑戦するアタリの能力は凄い。でも、記載されている内容を鵜呑みにしてもいけません。なにせ、現状の社会情勢を元に構築された未来予想です。情勢は刻々と変化します。誰かの意見に「おんぶに抱っこ」していては、臨機応変な方策を講じることはできません。とはいえ、政治家・政治化を目指す人・国を担っていく人には是非目を通しておくべき書であるのは間違いないと思います。これくらい世界レベルで社会情勢を分析できる政治家・学者が日本から生まれることを期待してなりませんね。

2010年3月13日土曜日

Flower

更新が滞ってしまいがちになると危険ですね。途中で放り投げたくなる。これは何もブログにだけ当てはまることではなく、仕事・恋愛・人生でも同じようなものだと思っています。そして、生きている限りで、無用なものは何もない。どこかで獲得した知識・経験は、思ってもいなかった場面で花開くことが多々あります。

Make the News with captured items! 絶対量としての知識・経験を増やすこと、それがあって初めて自分の型を築くことができるのではないでしょうか?これに連関して、最近世の中に広まっているような「小さい頃から個性・独創・originalityを押付ける姿勢」はいかがなものかと思います。個性も大事ですが、それ以上に、基礎はもっと大事。originalityだけで物事を進めても、一発屋にしかなれない可能性が高い。そして、失敗したとしても、そこから「学んで」次に繋げることができない人が多い…ようなきがします。

恒常的にoriginalityを築いていく(originalityは成長するものです)能力を獲得するには、知識・経験がものをいいます。例えば、数学の問題を解くにあたり、一見、微分をつかって解くのかなと思わせながら、微分だけでなくベクトルもつかって解けばすぐに答えがでる問題(微分でも解くことはできますが、時間がかっかる)にぶち当たったとします。微分しか知らない人は、うんうん唸りながら、答えに至るまで長大な時間を費やしてしまいます。一方、微分もベクトルも知っている人は、すらすらと流れのうちに問題を解くことができる。後者にあっては、微分とベクトルという二つの方法(知識)を組み合わせて、答えを短時間で出すことができるわけです。この組み合わせが、まさに「originalityの種」なんですね。土壌を「数学の世界」だとすると、種は「僕たち人間」、そして、土壌に埋まっている様々な養分が、指数・対数、微分・積分、数列、統計etcといった「個々の解決方法」であります。様々な養分を吸収していくことで、種はぐんぐん育っていきます。種はやがて花となります。「世界に一つだけの花」の歌詞にもあるように、同じ土壌から、いろんな種類の花が咲くのです。そして熟した花は、新たな種をたくさんつくります。新たな種が、新たな花を咲かせる…この繰り返しでしょう。うーん、なんとも素晴らしい。

上では数学を題材にあげましたが、これと同じような考え方は「originalityを築く」という点で全ての分野に通じうることではないでしょうか。同じ種であっても、知識と経験によって千差万別の花を咲かすことができます。早熟に花を咲かせる種もあれば、晩成で花を咲かせる種もあります。種を育てる上で大切なのは、「育てよう」という「意志・心」ただそれだけです。

※僕の考え方では、生まれてきたからには全ての人はoriginalityを持っているはずです。社会でもoriginalityは重要視されまています。とりわけ、子供の世界で啓蒙のごとく謡われているように感じます。でも、originalityは一昼夜にして築きうるものではありません。花と同じように、時間をかけて「開く」ものであります。忍耐強く子供を見守る。困ったときは助言し、上手くいく方向へと誘導してあげる。こういった姿勢が大人の世界で忘れさられつつあるような気がしてなりません。

2010年3月7日日曜日

For next generation

寒い日の雨に打たれると、昔の彼女を思い出します。あのころは若かったなぁ。不思議なもので、心に残っている印象的な場面が五感の獲得する情報に誘われ、ほわーっと浮かんでくるのを感じ取れた時に現れる行き場の無い寂寥感と独特な後悔の思いに、「人間の心情の深さ」をしみじみと実感します。うーん、人間はなんとも「不器用な感性」を備えた生き物ですねぇ。

さて、哀愁漂う背中を持ち始めつつあるえびすが、今日紹介する本はこちら。

商品の詳細

カラヤンといえば、その「豪華絢爛」で「美しく」、「壮大な」演奏で、広くクラシック音楽を「大衆」に広めた指揮者として有名だ。彼の紡ぎだす音色は、聴衆を無思考な状態にまで連れ去っていってしまう。「誰も」が良いと認めることが出来る作品をカラヤンはつくり、名声を築いてきた。しかし、その聴き入れ易さは同時に、クラシックの世界に「負の遺産」をもたらす事になった。もっとも、カラヤンが作品に込めた意図は、彼本人にしかわから無いものであり、周囲が勝手に煽りを起こしているだけなのかもしれないが可能性は払拭できない。

本書はカラヤンという指揮者を小道具として、現状の世界情勢を辛辣に評している…彼が創りあげた個々の音楽作品の内容以上に、現在の大衆の間に広まっている、「楽なほうへ流れる」というスタイルの確立を助長した者として、クラシック界のカリスマ=アイドル『カラヤン』が評されている。

クラシックを殺したものカラヤンの対として二人の作曲家が取り上げられている。一人目は、「厳格で崇高な音楽」を多数つくりあげてきたクレンペラーである。カラヤンが「思考を忘却させる」演奏スタイルをとるのに対し、クレンペラーは「思考しなければ味わえない」演奏スタイルをとる。ここで、クレンペラーが言いたいことはこうだ。
「ちょっと綺麗な演奏を耳にしたくらいで、クラシックが何たるものかを理解したように考えられてはたまったもんじゃない。君達大衆には、作品の背景を読み取ろうとする意思がまったく感じられなくて困る。」クレンペラーはクラシックを通じて、「与えられたものに対し、自分の意志をもって対応する」ことの大切さを、作品の内に込めたのだ。
そして、もう一人カラヤンの対にあたる人として、ケーゲルが挙げられている。カラヤンの演奏が聴衆に「安住できる地」を与えるのに対し、ケーゲルのそれは聴衆の心に「不安・躁鬱」の念を喚起させる。
「世界は二度の大戦を経て、どうなってしまったのか。君達聴衆は、物資に恵まれた裕福な生活を送っていることだろう。しかし、世界に目を向けるとどうだ?安息できるところに留まっていて良いのか?」
ケーゲルの音楽は、聴衆の心に、「できるならば目を逸らしたい現実・気付かない振りをしている現実」を残酷なまでに深く刻み込む。

カラヤンに対し、クレンペラーとケーゲルを対比させることで読者に伝えたかったこと、それはカラヤンの音楽に聴き入り、漠然とその素晴らしさを語る大衆が、世界大戦後につくりあげてきた、社会の痴呆化への流れに警笛を鳴らさなければ、いよいよ文化崩壊が起きかねないということだ。主体的に物事に取り組み、自分の言葉を紡ぎだす努力をすること…本書はクラシックという舞台で役者(カラヤン、クレンペラー、ケーゲル)を上手く配置・演出し、今の人間が喫緊に取り組み、身につけなければいけないことは何であるのかについての問題提起をしている。

※結構な読み応えです。著者の主観がバリバリ述べられていますので、気持ちいい。本書に対するAmazonのレビューのうちには厳しいものもあります。だけど、現実に我われが直面していることを思えば、著者が述べていることは至極正論とも受け取れましょう。僕の個人的な意見では、「クラシック」の世界という、比較的大衆が理解しやすい・取り組みやすい(とりわけカラヤンならば)舞台をあえて持ちだし、今の人間が直面している問題について考えて欲しかったのではないかなと思いました。もっとも、僕の意見は、著者が書の中で主張していることと正反対なポジションにあるのですけどね。

2010年3月5日金曜日

過ぎたるがおよぶ時代へ?

I’m now staying in Tokyo!
久しぶりの東京…とはいっても、2週間間隔で東京に足を運んでいるのですが。やはり、この街は魅力的ですね。「何か新しいことをはじめるならば、この街から始めたい」そんな気持ちにさせてくれる街です。

今日は銀座でアルバイト時代の友人とお茶をして参りました。これがかなりイケ面で困る。僕と並んで歩くと、まったく困る()。刺激的なお話をすることができました。色々と吸収欲のある人と、対面でお話をするのはいいですね♪新しいアイデアがどんどん生まれてきます。一人篭って考えた案をぶっちゃけて、相手のレスポンスに対し、どんな方向性をとればいいのかを考える。この繰り返しが自分の考え方をいろんな意味で確固たる物にしてくれるような気がします。

さて、トークついでにエルメスのギャラリーを鑑賞してきました。このギャラリーは無料の割りに、結構な質の作品を展示してくれますので、要チェックくださいまし。ちゅうわけで、今日の評は「Hollow/ 小谷 元彦」についてであります。

作品は、ウレタン樹脂を用いて、人体の様々な部位・身体全体を模擬したもの。その形状は明確な輪郭を持たず、オーラが漏れ出ているかのような技法で創られております。もやもやーっとした感じではなく、ギュルギュルーっとした印象を受けました。内面から自然と出て来たものではなく、搾り出して出てきたような感じです。

小谷さんがHollowに込めたのは何か。Hollowとは言うまでもなく「アナ」を示します。しかし、そのアナは大きな「穴」ではなく、小さな「孔」であります。一つ確固としたポイントをHollowというのではなく、身体のいたるところに存在しているHollow。科学的にこれを言い表すならば汗線が最も想像しやすいでしょうか。そこから出てくるものもある意味で作家さんの意図と繋がるような気がします(無意識下に、無力な状態で外に放たれる「自分に属するもの」という意味においてです。)

conceptはGフリー。重力が無い、概念がない、合一がないetc…色々考えられますが、まずは冊子と同じ様に重力の点から「Hollow」を味わってみたいと思います。作品が現(表)すのは、重力の「上」と「下」の方向性。一見上の方向性に疑問を持つかもしれませんが、まぁ風呂場の湯気みたいなものを想像してくださいませ。で、この上と下の方向性が互いに打ち消しあう世界を表現しています。方向性が消失することは何を意味するのか?そこでは、「安定した環境の消滅とともに、流動的なエネルギー体の存在があらわになります。「場」の定義がなくなるため(しかし空間は依然としてそこにある)、エネルギー体は明確な形状を保つことができません。ここで、このエネルギー体を「それ」と名づけよう。「それ」を外から見ている人間にあって、「それ」には何らかの「形状」を認めざるを得ないことになります。「それ」が無機的なものなのか、はたまた有機的なものなのか…本来、「それ」の正体を「一つに定めること」は僕達に許されていないのではないでしょうか。

次に、二面性の世界から味わってみます。鏡の国のアリスにみられるように、Hollowには汲み取りきれない「可能性」が内包されています。一種のパラレルワールドみたいなもの。あるかもしれなかった世界、「それ」が「それ」であるという確証の無い世界…そもそも、僕達が「リアル」と感じているこの世界も「鏡の世界」なのかもしれませんけどね。「ものの言葉」は我われが勝手に付けたもの、だったら、目に見えている「ものの形態」は個人個人が勝手に「そうみえるもの」と決め付けてしまっているのではないでしょうか。作品では、Duplexの世界が表現されていましたが、Duplexの先まで見据える(二面性でなく多面性)と、Hollowにinspireされる「創造性」が広がるような気がします。僕は作品≪veil≫にその片鱗を感じ取ることができました。

ちなみに、夜の雰囲気と朝の雰囲気で作品の見え方が大きく違うと思いますんで、是非両方とも見てくださいませ。外光が入る作品は表情が刻々と変化しますので、長時間対面するほど新たな発見がポンポン生まれてきますよ(オランジュリー美術館へ行く機会があれば、是非モネの睡蓮を鑑賞くださいませ。自然の内に作品の表情が刻々と変化する点で最高峰の作品だと思います)。


あと、書いているうちに沸いてきたんですが、ニュートンの万有引力を素地としてHollowを味わうのも面白そうです。芸術に限らず、多方向から物事をミル能力を磨いていきたいですね。

※如何せん、小難しい内容になってしまいました。でも、芸術に触れ合うことはすばらしいことです。いつも新鮮な感覚を僕にもたらしてくれます。何かに行き詰まったり、ルーチンな生活に疲れたりしたときは、芸術作品に触れてみてくださいませ。きっと「新鮮な感覚」をもたらしてくれるはずです(直接的には感じ取れないものではありましょうが)

2010年3月4日木曜日

アニメを侮るなかれ。

春の陽気は何処へやら。来週いっぱいは寒い日が続くようですね。体調には気をつけましょう。健康が一番、健康な体あってこそ様々なステージに挑戦できるのですからね。ま、僕の心は年がら年中寒々としていますけど。そろそろ心温まる場所に落ち着けるよう努力しないといけんです。

さて、こころを暖めてくれる人募集中なえびすが送る今日の一本はこちら。
 商品の詳細

OZの世界につなげば、さまざまなサービスを受けることができます」
アカウントを作り、アバターを設定する。アバターを介し登録者はOZの世界の様々なサービスを受けることができる。提供されているサービスは娯楽だけではない。ビジネス、公共機関、医療サービスetc。仮想空間の世界、そこはもう一つの「リアルワールド」といえよう。

サマーウォーズの世界では、みな便利なサービスになれすぎてしまっている…そこに混乱を生じさせたらどうなるか?例えば、アカウントを乗っ取ること。JRのアカウントを乗っ取れば、JRのダイヤを乱すことができる。大統領のアカウントを乗っ取れば、世界戦争の勃発も可能だ。

知識欲をもつハッキングAIOZの世界に放つ。AIは本能の赴くままに、様々な知識を吸収していく。悪意はない、善意もない、その判断がつかない。ただ闇雲に「楽しいこと」だけを追い求めていく…ある研究者が作ったAIに興味を示した国防省が。その真価を計る目的でOZの世界にAIを放った。

善悪の判断がつかないものとしては、無邪気な子供を創造してもらえればよい。子供の知的好奇心は凄まじい。止めるものがいなければ、彼らは我々がいうところの悪事をいたるところで繰り出すことになる。反面、それに相応して善事もなすのだろうが…。子供たちに非はない。そもそも、善悪の価値観は我われ人間が勝手に作り上げたものだ。

AIに組み込まれた知的好奇心が意味するもの、それはAIの「知の成長」だ。「知の成長」が何をもたらすか、それは「満足の不足」である。みなも経験ないだろうか?あるステージを乗り越えると、さらに高いレベルのステージに進みたくなる欲求、よりスリルのある、でっかいことを成し遂げようとする欲求である。

ある意味、OZに放たれたAIは人間本来の姿に近いのではないだろうか。ただ、このAIには、誰かに認められることの「快感」が組みこまれていなかった。もっとも、「知的欲求」と「認知快感」のバランスを規定するのは難しいことではあるが。我われは、映画「A.I」で人類の最終形態を垣間見た。「サマーウォーズ」では人類の「ネットワーク=つながり」を垣間見ることになろう。

※サマーウォーズの世界に見出すべき点は、「ネットが混乱したら」といったことではないでしょう。ネットを介して「世界中のひとと繋がっている」ということ、そして、みなではなくとも多くの人が「誰かのために役立ちたい」と思っているということ…人間は一人で生きているのではなく、まわりの皆に生かされているということこそ、サマーウォーズが僕たちに教えてくれることです。心温まる物語です。

2010年3月2日火曜日

なにがやりたいのかな?

FREEの裏側をどこまで考えているのでしょう?

岩瀬大輔さんというかた(ある方面では著名な方です)の「生命保険のカラクリ」という新書が、文藝春秋から無料でダウンロードできるみたいです。半歩先の精神として、今回の無料配布に踏み込んだらしいのですが・・・いささか、僕には岩瀬さんと文春が描く展望がいまいちつかめない。無料配布によって、冊数が伸びるというモデルらしいですが・・・どうでしょうか。すこし、分析したいと思います。

まずは、無料にする書籍の観点から。
FREEはその内容が「無料」に関するものであり、オンラインダウンロードとのパッケージ戦略として、申し分ありません。読者は、ダウンロードによる「無料体験」を通じて、本当に『書籍一冊が丸ごと手に入った』という、読書+αの経験を積むことができます。その経験は、書籍の内容と直結するものであり、相乗効果が見込まれます。また、メディアの取り上げ方、消費者への宣伝においても、無料という軸がぶれないため、ストレートかつわかりやすく内容を理解させることができます。著者自身が運営するWiredも、無料で様々な情報を配信しており、サイトの宣伝=広告収入のUPにもつながります。一方、「生命保険」ではどうでしょうか?そもそも、保険はお金がかかるものです。それに関する内容の書籍を無料配布することの戦略がよくわかりません。くわえて、保険は多くの人が既に加入しており、母数が増えることは望めません。では、何を狙っているのでしょうか?単純に考えれば、保険の乗り換えでしょう・・・え、単純すぎ?すいません。それぐらいしか思いつかないです。

次に書籍の厚さについて。
「FREE」は350ページを超えるハードカバーの本です。取り上げる内容は誰もがとっつきやすく、わかりやすい内容ばかりであり、「次のページが読みたくなる」そんな書籍であります。しかし、幾分ページ数が多い・・・まとめて読もうとすると、結構疲れるので、書籍で読みたい・・・そういった声が聞こえてくるのは創造に硬くありません。一方、「生命保険のからくり」は230ページ程度の新書であり、FREEのページ数で換算すると、200ページ弱程度。本好きならば2時間で読めるぐらいの内容です。はたして、ダウンロード後に書籍を手にする人はどれほどいるのでしょう?
個人的には、ダウンロードとのパッケージ戦略をとるのならば、比較的厚みのある書籍(中身もあることは大前提)で行うのがtheoryな気がします。そして、内容を7章以上に分けて、各々の章をさらに細かく分けたほうがいい。「分厚く多くの章に分かれていること」+「先が面白いと思わせる構成と内容のコンパクト化・断続化」こそ、パッケージ戦略の秘訣ではないかと思います。

※ちなみに「生命保険のからくり」の書籍内容は結構面白いと思います。マイケル・E・ポーターの書籍「医療戦略の本質」で取り上げられている、「保険会社が行うべきイノベーション」の内容を掘り下げた感じでしょうか。筆者が言うように、一家に一冊あっても損はないと思いますんで、是非購入いたしましょう。これを契機に、多くの新書が無料となれば、僕としては嬉しい限りですから(笑)。

単純なこと。

最近、いたるブログでベーシックインカムが取り上げられています。何も働かなくても生活に最低限必要となるお金がもらえるというフラッグらしいです。皆様、どのようにお考えでしょう?そして、もしその生活を選ぶことができるならばどうしますか?「質素で細々とした、時間だけが有り余った人生」を選択しますか?それとも、「しゃかりきに働き、時間に追われる人生」を選択しますか?

これは、「ディベート」の題材程度に捉えるのがよいです。おそらく、最適な答えはありません。世に言う人間だけがもつ「困難な選択」であります。人間の欲求はあるところまで達すると、限界が見えてくる・・・そこで行き詰ったときにどうするか?欲求の階段を上るのか、はたまた、上るのをやめて、滑り台からするーっと欲求の底辺へ降りていくのか。

上る人はそのまま上らせればよいが、降りてきた人たちは、いろいろな意味で厄介者。なぜなら、上の世界を垣間見てしまったから・・・。最高位まで達してから降りてきた人たちは別ですけどね。
さて、ベーシックインカムの生活に憧れを抱きつつも、それが実施されたときの恐怖におびえる、肝っ玉の小さいえびすが本日紹介するのはこれ。


商品の詳細


「・・・殺してほしい?それとも殺してくれる?・・・」
押井守の世界にはいつも感心させられる。今作では、「大人にならない子供たち」を主役に持ってきた。そこに押井が落とし込んだ世界、それは、大人たちが子供たちの不安定な精神状態を「上手く利用」している世界にほかならない。

作中で戦争は「民間資本」の投下の元に行われている。「戦争の概念だけでは、みな戦争を忘れてしまう。戦争は絶えず起こっていなければいけない。そうすることで、戦争は広く忘れられることがなくなる」・・・くそったれで、自己中心的なスローガンを掲げて戦争を「演出」する企業。その企業が雇うパイロット兵はみな子供(キルドレ:killable children)・・・ただ一人、「ティーチャー」を除いて。

キルドレたちは、互いに空中で戦闘を行い、命を失う。しかし、その命は表層的なものでしかない。彼らはいわゆる「クローン」であり、記憶だけが新しくなるだけだ・・・。これが意味すること、それは、生き残ったキルドレは記憶を消すことはできず、友情・愛情を誓った仲間との「表面的な思い出」が上書きされていくだけだ。そんな現状を打破しようと、ティーチャーに向かっていくキルドレ・・・しかし、圧倒的な力をもつティーチャーは情け容赦なくキルドレを迎撃する。

「I'll kill my father」・・・キルドレにとっての「father」、それは子供を上手く使って、自分たちは一歩下がったところから、劇場のごとくそれを楽しんでいる「大人全般」を指すに違いない。

今の社会に「スカイクロラ」の舞台を当てはめる。
目先の利益にすがりたい企業は、人の数がものをいい、替えのきく人員を大量に確保しようとする。高い労働力と、大きな母数・・・自然と単発的な労働のターゲットは「若者」にいくことになる。大量に「若者」を雇う、そして、時間と共に、どんどん人が入れ替わっていく・・・中には長期にわたって所属している「若者」もいるだろう。彼らが、新しく入った「若者」をみて、思うことは「こいつもまた、いなくなった奴らと同じような運命をたどるのか・・・」といった思いだ。
若者は時に「上の者」に立ち向かう。しかし、資本・金銭にとりつかれた大人が振りかざすのは、情け容赦のない「砲撃」だ。砲撃により若者は行き場を失う。それは一種の「死をあたえる」ことだ。大人の多くは、若者を「時と場合により自分たちに最もプラスとなるよう、生殺可能な領域に属するモノ」程度にしか考えていないのかもしれない・・・。

社会はどこまで歪んでしまったのか。大人が主権を握る社会で「若者」はどう生きているのか。「スカイクロラ」に描かれた世界は、その現状を見せるだけだ。そこに答えは「ない」。しかし、「ない」理由は明らかだ。人・生命・未来がかかった問題にあって、答えを「ひとつ」に絞ることなどできるはずがない。

※押井さんの作品にはいつも驚かされます。これほどまで、喫緊に我々が直面している社会問題をアニメの世界に落としこむ能力を持つ人は、日本に片手で数えるほどしかいないのではないでしょうか。自身が若かりし頃に苦労した経験も相まっているものと思います。経験から導き出された信念とでもいえばよいのでしょうかね。著作「凡人として生きること」も是非一読くださいませ。