これは、「ディベート」の題材程度に捉えるのがよいです。おそらく、最適な答えはありません。世に言う人間だけがもつ「困難な選択」であります。人間の欲求はあるところまで達すると、限界が見えてくる・・・そこで行き詰ったときにどうするか?欲求の階段を上るのか、はたまた、上るのをやめて、滑り台からするーっと欲求の底辺へ降りていくのか。
上る人はそのまま上らせればよいが、降りてきた人たちは、いろいろな意味で厄介者。なぜなら、上の世界を垣間見てしまったから・・・。最高位まで達してから降りてきた人たちは別ですけどね。
さて、ベーシックインカムの生活に憧れを抱きつつも、それが実施されたときの恐怖におびえる、肝っ玉の小さいえびすが本日紹介するのはこれ。

「・・・殺してほしい?それとも殺してくれる?・・・」
押井守の世界にはいつも感心させられる。今作では、「大人にならない子供たち」を主役に持ってきた。そこに押井が落とし込んだ世界、それは、大人たちが子供たちの不安定な精神状態を「上手く利用」している世界にほかならない。
作中で戦争は「民間資本」の投下の元に行われている。「戦争の概念だけでは、みな戦争を忘れてしまう。戦争は絶えず起こっていなければいけない。そうすることで、戦争は広く忘れられることがなくなる」・・・くそったれで、自己中心的なスローガンを掲げて戦争を「演出」する企業。その企業が雇うパイロット兵はみな子供(キルドレ:killable children)・・・ただ一人、「ティーチャー」を除いて。
キルドレたちは、互いに空中で戦闘を行い、命を失う。しかし、その命は表層的なものでしかない。彼らはいわゆる「クローン」であり、記憶だけが新しくなるだけだ・・・。これが意味すること、それは、生き残ったキルドレは記憶を消すことはできず、友情・愛情を誓った仲間との「表面的な思い出」が上書きされていくだけだ。そんな現状を打破しようと、ティーチャーに向かっていくキルドレ・・・しかし、圧倒的な力をもつティーチャーは情け容赦なくキルドレを迎撃する。
「I'll kill my father」・・・キルドレにとっての「father」、それは子供を上手く使って、自分たちは一歩下がったところから、劇場のごとくそれを楽しんでいる「大人全般」を指すに違いない。
今の社会に「スカイクロラ」の舞台を当てはめる。
目先の利益にすがりたい企業は、人の数がものをいい、替えのきく人員を大量に確保しようとする。高い労働力と、大きな母数・・・自然と単発的な労働のターゲットは「若者」にいくことになる。大量に「若者」を雇う、そして、時間と共に、どんどん人が入れ替わっていく・・・中には長期にわたって所属している「若者」もいるだろう。彼らが、新しく入った「若者」をみて、思うことは「こいつもまた、いなくなった奴らと同じような運命をたどるのか・・・」といった思いだ。
若者は時に「上の者」に立ち向かう。しかし、資本・金銭にとりつかれた大人が振りかざすのは、情け容赦のない「砲撃」だ。砲撃により若者は行き場を失う。それは一種の「死をあたえる」ことだ。大人の多くは、若者を「時と場合により自分たちに最もプラスとなるよう、生殺可能な領域に属するモノ」程度にしか考えていないのかもしれない・・・。
社会はどこまで歪んでしまったのか。大人が主権を握る社会で「若者」はどう生きているのか。「スカイクロラ」に描かれた世界は、その現状を見せるだけだ。そこに答えは「ない」。しかし、「ない」理由は明らかだ。人・生命・未来がかかった問題にあって、答えを「ひとつ」に絞ることなどできるはずがない。
※押井さんの作品にはいつも驚かされます。これほどまで、喫緊に我々が直面している社会問題をアニメの世界に落としこむ能力を持つ人は、日本に片手で数えるほどしかいないのではないでしょうか。自身が若かりし頃に苦労した経験も相まっているものと思います。経験から導き出された信念とでもいえばよいのでしょうかね。著作「凡人として生きること」も是非一読くださいませ。