アートが好きで参加しているのか、ただ祭り騒ぎが好きで参加しているのかはわかりませんが、多くの人が一同にアートを楽しむ時間を「共有」できるのは素晴らしいことです。とくにライブパフォーマンスは絶品。感動体験を共有する機会が減ってしまった現代社会にあって、ライブパフォーマンスのように「何かをきっかけに、全く繋がりのない人たちとの間で一体感を得られる経験」こそ今の日本に必要なことでしょう。今後、もっとアートナイトのような大多数の人が夜を通して通じ合えるイベントがたくさん行われることになるのではないでしょうか。需給バランス、収支バランスを考えて、アートナイトのような「ライブ型イベント」は優秀な数字を出している気がしてなりません。どなたか内実を是非ご教授くださいませ。
さて、アートナイトの中身ですが・・・総括すると「資本主義とカオスと大衆」といったところでしょうか。物質があふれすぎた社会、生活が便利になるばかりの社会、だけどそれは本当に我々が望んだ「社会」なのでしょうか。表層ではなく、深層レベルでの「望み」という観点においてです。世界の多くの社会は資本主義という一つの「価値創出モデル」のうちでまわっています。
価値創出モデルを上手く使用して、資本=富を獲得した人たちは物質的な豊かさという点で「satisfaction」を得ることに成功した。しかし、彼らは「それ」を獲得することで、それを獲得する前にもっていた何かを見失ってしまった。一方、資本を獲得した人たちの裏には、「物質」により色々な意味(ゴミ捨て場、労働力etc)で追い立てられる人たちもいる。
資本主義の価値創出フローは以下の通り。
無地のカーテン→ニーズにあう装飾の付与→無地のカーテンより「高い価値」
ちょうど芸術も資本主義のようなところがあります。全く無意味な「ゴミ」に近い作品たちに巨額の「価値」が付されることになる。それはまさに資本主義で執り行われている「価値創出」と同じようなものでしょう。しばしば問題としてとりあげられるのが、この「高い価値」により資本の循環歯車がひずんでしまうこと・・・第一次産業の農作物を安く仕入れて、「ブランド」を付与して転売するといったかんじですね。これと同じことが芸術の世界でも起こっていることでしょう。まぁ芸術の場合はもう少し入り組んだ構造(心理的な面の比重が高い)になっているのでしょうけど。
※ドンちゃん騒ぎの六本木アートナイト。当日参加した東大のセミナーとは全く正反対の域にあるイベント。そこに参加して得られたモノはprice lessな経験です。作品のボール皿に嘔吐してしまう女性とか、作品の前でいきなり鼻血が噴出してしまった人とか・・・まぁろくでもないような経験ですけど。しかし、この経験を少し掘り下げると、面白いものが見えてきます。たとえば、上に挙げたような「一見ハプニングにみえる」ものごとが、実は「あらかじめ予定されていたこと=予定調和」のうちにあるものだったとしたら?どこからどこまでが「パフォーム」という「創られた虚構の世界」で、「想定外の創出」との線引きを行うのが難しい・・・現代アートの可能性は「虚構と現実の境界線のピントがずれたとこ」にあるのではないでしょうか。そのずれたピントをどうやって表現しようかなぁとアーティストの方々が苦心して考え、創り上げた作品を大衆に上梓することで、「何」訴えたかったのか・・・答えは千差万別。だからこそ可能性の幅が広がる。「ゴミ」に「価値」を見出すことは、資本社会に還元すると、「直接的に無意味なもの(現代社会ならば、他者とのコミュニケーション・新規の気づき)」に「価値」を見出すことなのではないかな・・・とギャラリーの出口付近のイスに「並んで睡魔に襲われている大衆」を目にし、思った次第であります。