2010年3月7日日曜日

For next generation

寒い日の雨に打たれると、昔の彼女を思い出します。あのころは若かったなぁ。不思議なもので、心に残っている印象的な場面が五感の獲得する情報に誘われ、ほわーっと浮かんでくるのを感じ取れた時に現れる行き場の無い寂寥感と独特な後悔の思いに、「人間の心情の深さ」をしみじみと実感します。うーん、人間はなんとも「不器用な感性」を備えた生き物ですねぇ。

さて、哀愁漂う背中を持ち始めつつあるえびすが、今日紹介する本はこちら。

商品の詳細

カラヤンといえば、その「豪華絢爛」で「美しく」、「壮大な」演奏で、広くクラシック音楽を「大衆」に広めた指揮者として有名だ。彼の紡ぎだす音色は、聴衆を無思考な状態にまで連れ去っていってしまう。「誰も」が良いと認めることが出来る作品をカラヤンはつくり、名声を築いてきた。しかし、その聴き入れ易さは同時に、クラシックの世界に「負の遺産」をもたらす事になった。もっとも、カラヤンが作品に込めた意図は、彼本人にしかわから無いものであり、周囲が勝手に煽りを起こしているだけなのかもしれないが可能性は払拭できない。

本書はカラヤンという指揮者を小道具として、現状の世界情勢を辛辣に評している…彼が創りあげた個々の音楽作品の内容以上に、現在の大衆の間に広まっている、「楽なほうへ流れる」というスタイルの確立を助長した者として、クラシック界のカリスマ=アイドル『カラヤン』が評されている。

クラシックを殺したものカラヤンの対として二人の作曲家が取り上げられている。一人目は、「厳格で崇高な音楽」を多数つくりあげてきたクレンペラーである。カラヤンが「思考を忘却させる」演奏スタイルをとるのに対し、クレンペラーは「思考しなければ味わえない」演奏スタイルをとる。ここで、クレンペラーが言いたいことはこうだ。
「ちょっと綺麗な演奏を耳にしたくらいで、クラシックが何たるものかを理解したように考えられてはたまったもんじゃない。君達大衆には、作品の背景を読み取ろうとする意思がまったく感じられなくて困る。」クレンペラーはクラシックを通じて、「与えられたものに対し、自分の意志をもって対応する」ことの大切さを、作品の内に込めたのだ。
そして、もう一人カラヤンの対にあたる人として、ケーゲルが挙げられている。カラヤンの演奏が聴衆に「安住できる地」を与えるのに対し、ケーゲルのそれは聴衆の心に「不安・躁鬱」の念を喚起させる。
「世界は二度の大戦を経て、どうなってしまったのか。君達聴衆は、物資に恵まれた裕福な生活を送っていることだろう。しかし、世界に目を向けるとどうだ?安息できるところに留まっていて良いのか?」
ケーゲルの音楽は、聴衆の心に、「できるならば目を逸らしたい現実・気付かない振りをしている現実」を残酷なまでに深く刻み込む。

カラヤンに対し、クレンペラーとケーゲルを対比させることで読者に伝えたかったこと、それはカラヤンの音楽に聴き入り、漠然とその素晴らしさを語る大衆が、世界大戦後につくりあげてきた、社会の痴呆化への流れに警笛を鳴らさなければ、いよいよ文化崩壊が起きかねないということだ。主体的に物事に取り組み、自分の言葉を紡ぎだす努力をすること…本書はクラシックという舞台で役者(カラヤン、クレンペラー、ケーゲル)を上手く配置・演出し、今の人間が喫緊に取り組み、身につけなければいけないことは何であるのかについての問題提起をしている。

※結構な読み応えです。著者の主観がバリバリ述べられていますので、気持ちいい。本書に対するAmazonのレビューのうちには厳しいものもあります。だけど、現実に我われが直面していることを思えば、著者が述べていることは至極正論とも受け取れましょう。僕の個人的な意見では、「クラシック」の世界という、比較的大衆が理解しやすい・取り組みやすい(とりわけカラヤンならば)舞台をあえて持ちだし、今の人間が直面している問題について考えて欲しかったのではないかなと思いました。もっとも、僕の意見は、著者が書の中で主張していることと正反対なポジションにあるのですけどね。