2010年4月16日金曜日

表象と漂流

桜吹雪舞い散る古道を歩いていると、ふと詩人が憑依した気分になってしまいます。
舞い散る桜の花弁に身を投じ、微動する瞼の裏に、われは何を映さんや。
はぁ、春はいいですねぇ。もう少しのんびりと春を楽しみたいものですが、如何せん、それを許さない僕の心。忙しなさのうちに、春が終わっていく…あぁ、いとわろしき己の性也。

さて、春もそろそろ後半へ突入。小さき芽達もいよいよ新緑へと成長する時期であります。僕もこの春が終わる頃には「おっきくせいちょうした」と言い切れるように努めてまいる所存です。

そんな成長願望が強いわりに、ぐーたら癖に悩みつつ、それに甘んじているえびすが紹介する本はこちら。



感度を高く保っていないとなかなか気づかないが、街のいたるところには哲学の断片が転がっている。例えば、《大理石の階段》。感覚器官を聴覚に絞って、思考をめぐらしてみよう。スニーカーで大理石の階段を上り下りするときと、パンプスでそれを上り下りするときでは、《階段》に抱く印象は大きく異なる。前者にあっては、無音のうちに、物質移動が行われる。音としてのエネルギーはそこで生み出されず、ただ、ポテンシャルだけが変動している。後者にあっては、カツカツという音の反響と共に、エネルギーが生み出される。物質移動におけるエネルギーの保存則はそこで失われるのだ。つまり、《大理石の階段》が行うエネルギーの搾取は、特定の者にしか施されない。ここで注目したいのは、《大理石の》に代表される限定的形容詞が生み出す「偏重の多重性」だ。形容詞が多ければ多いほど、限定性の密度が高まり、限定性のうちで行われるエネルギーの搾取量も高まっていく。これを今の日本社会に映し返してみる。限定性と搾取…なるほど、民主資本主義の骨格そのものをそこに見出せる。

我々が《ある事象物》に抱く《思い》は、ゴマンとある可能性の一つの面に過ぎない。上では日常、我々誰しもが出くわすような事柄を題材に、皮肉するような形式で日本社会の有様へ繋げてみた。これを「斜めからみる」と言わせてもらおう。無理やりに見える繋がりでも、根気よく根源を探る旅にでると、しばしば「なるほど」と思わされる地点に至ることがしばしばある。同じようなことは、本書にもよく通じる。ラカンという難解な「分析」手法を築いた人間の言わんとするところを、様々な《大衆文化作品》を用いて例証している。もっとも、そこに述べられていることを理解するのには多大な努力を要するのだが。

ラカンの理論の適用可能範囲は広大だ。本書が示したのはその一範囲にすぎない。非常識であった事柄を常識と捉え、非常識という硬質層に隠されていた《原石》を掘り出し、《原石》の可能性を探っていく行為・・・原石を磨いていくうちに、それが宝となりうるのか、それとも、ただの石に過ぎないのかがわかってくる。原石を探し出し、それを磨くという行為は、多大な労力を要するのは間違いない。しかし、この《原石》の可能性を探ること、すなわち「斜めからみること」は、人類の将来を考えていく上でも非常に重要な事柄である。たとえ周囲からの反発があろうとも、「斜めからみる」ことを実践していく人が出てくることを期待してやまない。

※民主資本主義…これ、結構面白い単語です。何せ、「主である民を資本とする主義」ですから。結局、資本という計り方でしか、民を規定できないということです。また、「民が主とするのは資本とする主義」とも読み取れます。この場合は、民とは資本以外によりどころの無い生き物だということ。うーん… ironyたっぷりであります。