2010年5月16日日曜日

acceptとknowledge

先日、修士時代の投稿論文が無事acceptされました。苦節1年(短いですかね)・・・感無量であります。さて、投稿論文の簡単なフローはこの通り。論文をあるjournalに投稿→reviewerによる査読といわれる論文の正誤判断を受ける→accept or reject or remedy(reviewerの指摘部分を検討・検証し論文を修正)→再び投稿→accept or reject。インターネットが普及するようになってかなり査読判断の結果が出るのは早くなったことだろうと思いますが・・・それでも、最短で半年弱はかかってしまうのが現状。学会発表だと「途中段階」だったり「再検討の必要あり」の状態でもバンバン出してきます。そして結構自己満足なものや甘い発表が多い(笑)。一方、投稿論文ですと、甘い論文はたやすく撥ねられます(reject)。物理的に整合性があるか、使用している数式に間違いは無いか・・・細かくcheckが入るので、こちらが見落としていたpointもしばしば指摘してくれます(第3者の目は素晴らしい発見をもたらしてくれるものです)。reviewerにもじっくりと考える時間が与えられているので、論文は「より完成度の高い研究結果」であるといえます(もっとも、Journalによりけりなところはありますが・・・)。反面、時間がかかる+通るか通らないかわからないため、近年では投稿論文よりも、学会発表のシフトを大きくする研究者が多いようです(学会発表を数回繰り返して後論文にするというのも主流です)。

もっとも、後世の研究者に自身の研究を受け継いでもらう(直接・間接的に)という点では、論文を出すのが一番いいのは間違いないでしょう。僕自身、大学院時代は論文の虫でしたから・・・400本(大体3000ページほど)は読み込んでました(笑)。実体験をもとに述べさせていただきますが、論文を読み込むほどに知識が積み上げられ、新しい発見・疑問が出てくるものです(閃きは、4~5本の論文をハンガーに吊るして眺めている時に「ピコーン!」と訪れたり、ピアノでトリルの部分に差し掛かったときに「ほわっ」と沸いてきたり・・・これは僕の場合ですけど(笑)。何時訪れるかはまさに未知でありますが、絶対条件として「知の蓄積」があったのは間違いないと思います)。

さて前置きが長くなりましたが、上に記した「閃き」に関連させながら教育について考たいと思います。でも、あくまで個人的見解ですので、こう考えている人もいるんだなぁ程度に捉えておいてください。

昨今、詰め込み式の教育に対し「創造性がなくなるから駄目だ」とかいう声を色々なお方から聞くのですが、本当のところどうなんでしょうか?僕は詰め込み教育賛成派なので・・・もちろん、詰め込む方法は大切です。では、なぜ詰め込み賛成なのか?・・・それは僕自身が詰め込みで多くの閃きを生むことができたから(笑)。詰め込み式に反対な人たちのどれほどが、「創造性に富んだなにか」を生み出した経験をお持ちなのかはわかりません。ただ、僕の知人や素晴らしい作品を生み出してきた人たちは、不思議と、どの人も「他の誰よりも圧倒的な量のinput」を行ってきた人ばかりです。outputを出す時に、はたして創りだしたモノが「正しいものか」「単なる自己満足で終わっていないか」「社会で認められるコンテキストはしっかりしているか」そういったpointsを考えられる人が今の日本社会には不足しているような気がします。これはビジネスでも当てはまることでしょう。何か新しい企画を持ち込み、明確なプランを組んでいくにあたり、「それがどういったパフォーマンスを残すのか」「どういったところまで影響力があるのか」「自社のブランドを傷つけないか」etc・・・包括的に考えると、詰め込みの重要性が身にしみるのではないでしょうか。

現実社会・経済で起こっている事件・事象の正当性・正誤性を判断をする上でも、《詰め込み知識》は重大なものであります。ただし、詰め込んだ内容をしっかりと精査できる能力も必要です。情報に溺れる・振り回されるところでとまっていては、新しい何かは生み出せません。この精査する能力を鍛えるという点で、書籍の読書ほど素晴らしいものはないと思います。雑誌やブログに書いてある内容の多くは、あくまでも表層の部分だけな場合がほとんどです。一方、書籍はかなり深いところまで、掘り下げて論展開・内容発展が行われています。深い内容に触れることで、その内容に関する「知識の断片」を手に入れることができる。また他の書籍を読むことで他の内容に関する「知識の断片」を手に入れます。そして、こんな感じに書籍を読み漁っていると「反発しあう断片」があることに気づくはずです。ここに至って始めて「精査」が必要な場に直面します。頭を痛めながら、何が正しいのか「自分で判断を下す」・・・ここまでたどり着ければしめたものです。

「創造的なものを生み出せる人・情報を精査できる人」を育てるのが、今の教育に必要なことではないかと僕は考えます。そして、両者に共通して必要なことは「知の蓄積」「知の詰め込み」です。ただし、ここでいう詰め込みとは「受動的詰め込み」ではなく、「主体的詰め込み」であります。学生が自分から進んで様々な知識を詰め込んでいく、その過程を上手くコントロールしてあげることこそ、本来教師に求められる能力なのではないかと思う次第です。

※話が分散してしまいました。主体的詰め込みの参考例としてiTunesのDream Classroom:川崎 和男教授の回を是非ご視聴いただければと思います。話している内容は「逃避人生」に聞こえるかもしれません(そこは川崎教授のご愛嬌)が、最後の学生の質問に対する受け答え内容が素晴らしいでので、そこだけでも是非。