さて、夏の風物詩といえば花火、花火といえば浴衣、浴衣といえば彼女と単純な連想しか思いつけない魅力乏しい万年一人身のえびすが紹介する一本はこちら。
アリエッティ一家は身長10cm程の小人一族。年老いた女性と家政婦の二人が住む屋敷の地下で借りぐらしの生活を営んでいる。ここでいう「借りぐらし」とは、人間の使う生活用品・食料を少しずつ「拝借」して、人間に見つからないよう慎ましい生活を送ることをいう(借りるというよりは貰うと捉えるほうが良い)。人間に見つかることは、彼らにとって生命の危機を意味するらしい。もっとも、それは小人の大人が抱く固定観念であるのだが。
ストーリーは淡々と流れていく。流れとしては、①アリエッティ、心臓の病気を患う青年に存在を知られる。②アリエッティ一家、引越しの決断をする。③アリエッティ、青年の前に姿を現す。④アリエッティのおかぁさん、家政婦に見つかり捕獲される。⑤青年とアリエッティ、おかぁさんを助ける。⑤アリエッティ一家、屋敷を後にする。といった感じ。恐らく小さい子どもが見たら、「つまんなぁ~い」の一言で片付けられてしまうだろう。それくらいストーリー描写には起伏を持たせていない。しかし、随所に考えさせられる節々が散りばめられているのは間違いない。その幾つかを考察してみる。
まずは、青年と家政婦の小人に対する対応について。一般的な系譜で考えると…青年=好奇心旺盛=小人に対して色々とちょっかい(やべ、何こいつ面白い♪)を施す。家政婦=冷静=小人に対して大人の対応をする(優しく見守ってあげましょうね)。…といった具合に連想されよう。しかし、本作では、青年は小人に対して冷静な判断を取り、家政婦は色々とちょっかいを出すように描かれており、ちょうど上述の系譜が逆転している。これをそのまま現代社会へ投影すると面白い像が浮かび上がってくる。それはちょうどこんな感じの像だ…私利私欲に駆られる大人たちは、自分の周囲さえ快適な環境が整えばそれでOK。自分の利益が最大となるように動く。そのためには平気で他人を弄んだ排したりするものだ。一方の子ども達は、大人のそんなやり取りを醒めた眼で見ている。子ども達は隅に追いやられることの苦しさを、大人以上によく理解している。本作の青年が心臓に病を抱いている点も、ここと大きく関係してこよう。子ども達は理解しているが、そこに手を伸ばしてしまうと自分達が虐げられることを知っている。心の葛藤=心臓の病をいう図式は意図的に組み込まれたものだろう。
次に、滅び行く種について。作中で、家族以外に仲間がいないアリエッティに対し、青年は「君たちは滅びゆく種だ」と述べている。人間の人口65億に対し、アリエッティ達はたったの3人。確かに、絶滅寸前だとも捉えられる。ここで、同種の生命体が多数存在することと少数しか存在しないこと、それぞれの意味を少し考えてみたい。前者にあっては、昨今の世界紛争・戦争をみれば一目瞭然だ。様々な背景を持つ人たちが、自分No.1の思想を掲げて他の種族を追いやる。争いは耐えることがない…人間という生命体の枠で考えれば、まだまだ絶滅など気にする必要は毛頭ないからだ。では、後者にあってはどうか。これは、アリエッティ一家が自分達と生活を大きく異にする小人と出会ったときに良く現れている(ただ、助けを施すというバイアスはあるが)。自分以外の種族がいる可能性=楽しい共同体が創れるかも知れない期待。そう、絶滅の危機にあるからこそ、種全体の存続を考えることが出来るのである。おそらく、人間も絶滅の危機に瀕すれば、アリエッティ達と同じような心持をえること(正確には取り戻す)ができるだろうに。
もののけ姫以降のスタジオジブリの作品に共通して感得できることは、子どもが成長した時に「なるほど」と思わせる場面がたくさん散りばめられていることだ。10歳の時に一度見て、20歳になってからもう一度見る。すると、10歳の時には感じ得なかった何かを作中に見出すことだろう。その何かは、しばしば人間の本質・生命の根源と密接な関係を持つものであったりする。総じて、他のスタジオのアニメに比して、ジブリのアニメは「心の浄化作用」の効能が大きいのは間違いないだろうと私は思う。
※ネット上では結構酷評されている本作、その内容は…「映像美は言うこと無し」だが「ストーリーが淡白すぎる」といったもの。無理もないのかも知れないですが、場面ごとの言動を掘り下げると興味深い論点はたくさんでてきます。それを見つけて考える、それこそこの映画の醍醐味なんではないでしょうか?





