さて、今週もやってまいりました、東京へ。いやはや梅雨の晴れ間の東京は蒸し暑いこと限りなし…もちろん、この暑さは活気から来ているものであると、勝手に信じているしだいであります。まずはより良質なWiFi環境を手に入れるべく、秋葉のヨドバシカメラへ足を運びました。店員さんに色んなデータプランを伺い、「ふむふむ、なるほどねぇ」と感心しているところで疑問が沸いてきたわけでありまして…「でも、このプランだと今までの契約にあるような端末料金の回収ができないんじゃないですか」といらぬ質問を投げかけてしまいました。いや、ほんとにすごい契約モデルだったもので…。店員さんも「確かにそうなんですよね~いいのかなぁ(笑)」といった感じのご回答を頂きました。まぁ、裏を返せばそれほどこの業界の競争が激しくなっているということなんでしょうけれど。
さて、理想的な通信環境を手に入れたものの色々と手続きがめんどくさく、辟易しているえびすが紹介する一冊はこちら。
ウェーバーとは何ものかと問われると、答えに困るのは私だけではないだろう。哲学者としての業績、経済学者として業績…ひとつ以上の分野において卓越した結果を世の中に残した人は指折り数えるくらいしかいない。いわゆるマルチに活躍した偉人として、私がすぐに思い浮かべることが出来るのは、マルクス(経済学者+哲学者)、デカルト(数学者+哲学者)、ライプニッツ(哲学者、法学者、数学者、天文学者etc)くらいだ。すべての人に共通するのは、哲学の素地を基軸として、他の分野で目を見張るような結果を残しているということだ。
ウェーバーが描く政治像、それは俗我われが想像する「クリーンな政治」とは程遠いものである。泥臭く、一所懸命に国民のためを思う政治家を期待するということ、それがそもそも間違いなんだといわんばかりの論調である。国を上手くまわしていくためには、些細なこと(威厳たっぷりの態度など)に愚痴愚痴いってもしかたがない。彼に言わせれば、高い身分的な誇りがなければ、腐敗と鼻持ちならぬ俗物根性に苛まされ、国の運営(あえての運営)能率までも低下してしまう…多少の高慢さを可愛く見てやること、そういった寛大さも国民には必用なことなのだといった感じか。また、政治家になるにはそれなりの資産家であることが望ましいともウェーバーは考える。要は、貧乏人が無理に政治家になって、自分の生活を支えていくのに精一杯な状況で、はたして国の未来をつくっていく仕事など出来るのだろうかといった感じだ。
上述の政治像について、何を甘いことを!と考える人が多数派を占めるのはウェーバー自信も重々承知のはずだ。しかし、それでもなお本書を上梓するに至ったのか…。そこを汲み取ることなく、ウェーバーの政治像を「甘い」と一致儀的に決め付けるのは、甚だ鼻持ちならぬことだ。ここで、本書に描かれている二人の倫理家を紹介したい。一つ目が、心情倫理家である。彼らは純粋な心情から発した行為の結果が悪ければ、その責任は自分にあるのではなく世間にあると考える。二つ目が責任倫理家。彼らは人間の善性と完全性を前提としてかかる権利はなく、自分の行為の結果は前もって予見できたはずのものであり、その責任を他人に転嫁することは出来ない。ウェーバーが言い表そうとしたことは、国民は心情倫理家に陥りやすく、政治家は責任倫理家から逃れられないということだ。
政治の世界を冷静に見ることができる人は、「全ての人の幸福を実現することなど不可能であり、国民が「個人の魂の救い」まで政治に期待することは本末転倒」だと既に理解されていることだろう。政治がどうして必用であるのか・どんな目的を持って在るのかを考えると、個人の利益ありきで政治の指揮を執ることなど出来るはずがないのは容易に想像がつくだろう。…ウェーバーが本書を通じて伝えたかったこと、それは「全てをかなえてくれる完璧な君子などいない。ベストを得ることを期待しすぎるのではなくベターで終われればいいじゃないか」という妥協・甘受の大切さではなかろうか。理想はあくまで理想であり、理想像を現実の世界に追い求めすぎると、様々な点で弊害が生まれることも国民は一マナーとして理解しておくべきだろう。
※さて、「職業としての政治」を出発点とした時は、上に挙げたような政治家が望まれるわけでありますが、、この接頭語「職業として」をはずした政治では、どのような政治化が望まれるのでしょうか?ウェーバーが考察したのは、あくまでも職業をベースとしたものである点ははずしてはいけません。
