ネタを探す・・・最近は専ら書籍からネタを探し出してくることが多い気がします。なぜかな?今の社会情勢に興味がなくなっちゃったのが原因でしょうか…いや、勿論、考えるべき問題はたくさんあるんですけれど。尖閣沖の衝突事故なんかは、掘り下げると色々な論点がでてきます。中国側の視点に立った時の論点、日本側の視点に立った時の論点、第三国側の視点に立った時の論点。そして、各々の論点がさらに分岐していきます。中国側ならば、教育・党体制・戦略・世界的ポジションの変化・将来への影響…日本側ならば、外交の方向性・経済背景・世界へのプレゼンス力・過去の賠償と清算課題・将来への影響…第三国ならば、ポジションの明確化・自国への間接的影響の洗い出し・将来への波及効果といった感じに枝分かれしていきます。ここにあげただけでも、13個の論点があるわけですね。ふむ、この一つ一つを考えていては大変なわけでありまして・・・だけれども、これをまとめると一つの論文ができる。各々についてそれなりに「文献調査」と「論理的構成」を付して上げれば、論文なんてものは出来上がるわけであります(内容の質はさておきですが)。各章10ページにまとめたとしても、130ページにのぼるわけでありまして…あ、でも、上に挙げた論点は甘すぎるので、目を伏せてくださいませ。
さて、テレビが無い生活も一年半となり、ますます書物の世界に没頭し、視力低下に悩まされる今日この頃を過ごすえびすが紹介する書籍はこちら。
本書はブログを立ち上げた初期に「後日紹介する」と約束した書籍である。あれからおよそ8ヶ月…長らくお待たせすることになってしまい大変恐縮である。一素人の書評、さしたるものではないと思っていただければ、幸いなこと限りない。なにとぞご堪忍を。仮初のお詫びではなく、本心からのお詫びである点、誇張させていただきたく思う。
企業の発展をいかにしてなすか。日本が誇るグローバル企業といえばどこだろうか?トヨタ、ソニー、パナソニックあたりを思い浮かべる人が多いに違いない。そして、それらグローバル企業に共通するのは、みな「薄利多売」の経営戦略を執っている点だ。いかに安く、いかに質の良いものを作り出し、お客様に買っていただくか…日本のほぼ全ての大企業は「コストと質」に傾注して、経営戦略をとってきたことは間違いのない事実だろう。
結果として、日本の大企業は大きく成長を遂げることができたわけだが、同時に自らの手で大きな障壁を作ってしまった…価格競争だ。日本はもとより世界レベルの価格競争が起こった結果、資本に乏しい企業は倒産に追い込まれ、資本の大きな会社(大企業)が生き残るという系譜をわれわれは目の当たりにしてきた。しかし、この価格競争において勝者側である大企業は、何事もなさずに悠々自適に勝ち残ったわけではない。商品単価の低減・高スペック化に伴う利益幅の減少が経営を苦しめたのはまぎれもない事実だろう。そして、この利益幅の減少にともなう皺寄せがどのような形で従業員に返ってきただろうか?人件費の削減にともなう雇用枠の減少、一人当たりに課される仕事量の激増、過剰なノルマを抱えた社員の自殺・鬱・身体障害etc。数え上げればきりが無いほど、弊害は多岐にわたる。原因はどこにあったか?私は、その要因の一つとして「ブランド構築の失敗」をあげたく思う。
日本企業が提供する商品の品質はしばしば過剰品質だといわれている。品質という面では、SEIKOの時計などはROLEXと肩を並べるものだろうが、ブランド価値としては両者には歴然とした差がある。それはしばしば中古価格を調べればわかろう。サブマリーナGMT(ROLEX)とスプリングドライブ(SEIKO)を比較してみよう。前者は中古の買い取り価格が新品で75%近くに達するのに対し、後者は55%でしかない(参考サイト)。なぜ20%もの差が生まれるのか?そこは、企業の「ブランド価値」の構築に戦略がある。ROLEXのようにブランド価値に重点を置く企業は、一ブランドの価格帯の幅を広げすぎないようにしている。もしも、チープラインからラグジュアリーラインまでを完備したいならば、二つのブランドに分けて「明確なブランド価値の違い」をプレゼンスの段階でしっかりと築く。大きなグループの中に様々なブランドが存在している。有名どころでいえば、LVMHやスォッチグループだ。後者について少し言及しておこう。スォッチグループはスォッチという業界最安値の商品ラインを展開する一方で、ブレゲやブランバンなどの高価格帯の商品ラインも完備している。明確な線引きをすることで、ブお互いのブランド価値を傷つけないことに成功しているのだ。ではSEIKOはどうだろうか?同一のブランド内で50万円もする時計もあれば、1万円で買える時計もある…さて、この時、50万円の時計を持っている人はブランド価値を感じ取ることができるだろうか?50分の1の商品もあるというブランドに対してだ。
翻って、日本ではROLEXのようなブランド価値の構築戦略をとっている企業はいないのか?全くいないというわけではないがその数は非常に少ないのが現状だ。よく知られたところでは、トヨタのレクサスくらいだろうか。ただ、高級車ラインとして本格的に始動したのが2005年からということもあり、世界経済の暴落あおりを受けて、そのブランド構築がどれほどうまくいっているかは把握できていないのが正直なところである。景気が回復してきたところでどれほどのプレゼンスを確保できているのか…お手並み拝見と共に、現段階からそのブランド戦略をしっかりと把握しておくことは大切なことだ。ex situの分析ではなく、in situの分析を進めておけば、結果に対して迅速な戦略を組み立てることができると考えられる。資源に乏しく、外需便りの日本産業の将来を考えると、ブランド価値の構築という戦略が、経営の中でも非常に重要なポジションを占めるに違いないことは明白であろう。
※ブランド構築は日本企業が活路を見出すのに避けて通れない要素となるものと僕は考えております。特に伝統産業をブランド化するにあたって、その理念・ターゲット・販売戦略をしっかりと構築し、世界に輩出していかなければ、結局は高品質にもかかわらず安価な買値しかつかないという結果になりかねません。事例もたくさんあることですので、それらをうまく日本の産業(特に伝統産業)に適用させていきたいものであります。…まぁ、企業に属していないものがいうのもなんなんですけれどね。
2010年9月29日水曜日
2010年9月26日日曜日
定まること無き「死」についての観想
大学院時代に親しくしていただいた先輩が天に召されました。寂しさと残念さとが立ちこめてくる秋の夜長であります。流石にこの歳(26歳)まで来ると、自身の周りの人が亡くなることもしばしば。各々がみな、生を謳歌して逝かれたならばそれは結構なことであると思いますが、流石に若く健康な身体をお持ちの方が不慮の事故で亡くなる場合は、そうではないだろうと思われ…「運命」の悪戯とわりきっても、やりきれない思いが募ります。
さて、今日は「人間の死」について少し考えてみたく。
少し前のブログにも書きましたが、人間は生まれた瞬間から死に向かっていると言います。オギャーと泣き声を上げた瞬間に、この世で初めて命の源「空気」を吸うんですね。その後、家族の下ですくすくと育ち、成人を迎えて、愛する人と結婚して子どもを授かり、その子が一人前になるまで責任を持って育て上げる。この一連の「プロセス」を経て、「人間の命の連鎖」が現在まで続いてきているわけであります。一万年前以上からそのプロセスが続いていることを想像すると…それはそれは凄いことでありまして…終わり亡き生命のダンスが現在まで続いているわけです。
人間は何を目的として生まれてくるのでしょうか?しばしば耳にする言葉ですよね。自分の人生をふと振り返ったときに、「あれ、結局私って何がしたかったんだっけ?」という小さな疑問を抱く人、そこからもう一段深く降りていって「そもそもこの世に生を受けるってどういうこと?」といった哲学にも似た問答を心に抱く人もいることでしょう。うーん、うーんと唸って、頭痛が起こるくらいに考えて、それでも明確な答えは見えてこない…そんな問いですよね。
僕もいろいろ考えて悩みました。特に小学校の時でしょうか?おじいさんの死を経験したときに、「人が生きるということ」について、「自身の父・母の死」について内省した記憶があります。いやはや、オ恥ずかしながら枕を濡らしてしまったものです。当時の記憶を辿っても、この時に抱いた内省ほど鮮明に刻まれている記憶は無く、それほど僕の中では「先の生に大きくかかわる大事なこと」であったのだと思います。
「死」一つをとっても、それに対する考えかたは色々です。例えば長寿を全うして死を迎える場面にあたり、「もうこの世に未練はない」と潔く死を迎えることができる人もいれば、「死にたくない、怖い」と迫り来る死を受け入れられない人もいます。不思議ですよね、どんな人生を送ってきたかで死に対する考え方がこれほどまでに変わるのですから。これは人間を除く動物にあってはなかなか得ることができないことでありましょう。
運命として受け入れる…言葉としてはかっこよく響くものでありますが、実際のところ、それをなかなか受け入れることは難しい。とりわけ、近しい人が運わるく不遇に陥った際にはなかなか受け入れられない…特に後に残された人間にあって、顕著にみられる傾向があるように思います。とかくいう僕もその一人なんですけれど。なんでそうなってしまうかというと…うーん、言葉に詰まるのですが。
死に関しての慰めには、キリスト教のや仏教の輪廻転生などの「お助け言葉」がありますね。今生で経験した罪は来世で報われるとか、新しい命が又始まるのだから悲観することはないとか。言葉では理解できるんですよ、確かにそうだろうなぁと。でもね、理解を超えたところで「何かがひっかかる」、「疑問がどうしてもぬぐえない」んですね。僕だけなのかもしれませんけれど。
かの白洲次郎は「葬式はいらん。墓には”俺の墓”とだけ記してくれ」と遺言で語ったとか。彼の言葉を察するに、彼は「死」に対して自身の内で「明確な思い・考え」を確立することが出来たのだと思います。僕も、その境地に至りたい思いで、色々勉強・経験しているのですが…いかんせん、その効果は薄いようで…その境地に至るにはどうすればいいんでしょうか?まぁ、「答え」など転がってるはずもないのは重々承知なんですけれど…収拾がつかない終わり方になりそうで、大変申し訳ありませんが、死については僕自身、確固とした思想をもてないでいます。言葉尻ではかっこよく語れたとしても、いざ直面してみると「あれ」と思わされることが多々ありまして。頭と心が上手く連動しない…借り物の哲学・思想では太刀打ちできないのが「死」との直面でありまして。あくまで僕の内でのお話なんですが・・・ふむ、なんとも厄介な代物であります。
2010年9月25日土曜日
A diversity in Brain-Storming.
,9月も彼岸を過ぎてぐっと涼しくなりました。一日で10度以上も気温の変化があると、体への負担は結構大きい…まぁ、僕の場合はあんまり関係ないみたいですが。頑丈さだけがとりえの肉体です。周りからは「すぐ風邪ひきそうだよね」といわれますが、4年前にインフルエンザにかかって以来、それらしい体調不良なく現在まで生き延びております。秘訣は何か?楽天的に生きることでしょうかね。
二つ目はThe 4Cs。4つのキーコンセプトを用い、色んなsubjectに関する多様な情報を収集・まとめるのに適した方法。5人から20人で、30分から1時間の設定でBSを行う。予め題材を準備しておき、Component, Characteristic, Challenges, Character (ただし、必ずしも4Csにこだわる必要は無く、全く異なる要素を持ってきてもよい。例えば4Ds:Discover, Design, Damage, Deliverなど。)について。1チーム1つのCをインタビュー形式で掘り下げていく。最後にメンバー全員で4Csを確認・共有。各人が様々な洞察・考え方・捉え方を身につけるのに適したBSである。
新しい発想が降りてこない、独創的な商品をつくれないと嘆いている方々は、本書を参考にして会議の仕方を少し変更してみるのも良いだろう。「刺激・感動・きずき」をもたらしてくれる機会を自らが設定していくことも大切なことである。
さて、小学校時代に真冬でもランニング一枚で登校してくる少年は、何に向かって「反抗」していたのかなぁと不思議に思えてならないえびすが紹介する一冊はこちら。
Brain Storming(以下BS)による課題抽出方法が世に広まってかなりの時が過ぎた。まぁ私が生まれる以前(50年以上も前)にその方法論自体は発案されていたから、当たり前といえば当たり前のことであろう。しかし、その後のBSの発展は乏しく、KJ法くらいしか耳にした覚えが無いように思う…私の勉強不足かもしれないが。
本書はBSをベースにおいて、「ビジネスモデルの考案および問題の発掘」に関し、50種類以上にも昇る方法論と各々の目的・展開方法・効果と狙いまでを詳しく説明・紹介している。どれも非常に刺激的で、興味をそそるものばかりなのだが、そのうちの2つをここで紹介しよう。
まず一つ目がSpectrum Mapping。既存のトピックの多様的な捉え方を明確にすることを目的として、脳内に埋もれた情報を引き出してくる方法。5人から15人で、30分から1時間の設定でBSを行う。既存の事象・商品に関する大きなtopicsを3つほど設定し、それらに対する考え・思いを各々がsticky-note(ポストイットのようなもの)に書き出してtopicsの横に水平に並ぶよう張っていく。組織の結束力、方向性を再確認する場合などに有効なBSである。
二つ目はThe 4Cs。4つのキーコンセプトを用い、色んなsubjectに関する多様な情報を収集・まとめるのに適した方法。5人から20人で、30分から1時間の設定でBSを行う。予め題材を準備しておき、Component, Characteristic, Challenges, Character (ただし、必ずしも4Csにこだわる必要は無く、全く異なる要素を持ってきてもよい。例えば4Ds:Discover, Design, Damage, Deliverなど。)について。1チーム1つのCをインタビュー形式で掘り下げていく。最後にメンバー全員で4Csを確認・共有。各人が様々な洞察・考え方・捉え方を身につけるのに適したBSである。
新しい発想が降りてこない、独創的な商品をつくれないと嘆いている方々は、本書を参考にして会議の仕方を少し変更してみるのも良いだろう。「刺激・感動・きずき」をもたらしてくれる機会を自らが設定していくことも大切なことである。
※いやはや、思考を鍛える・整理する方法がこれだけ紹介された本に出逢えたのは嬉しい限りであります。運命を感じちゃいますね、本当に。どういった層の人達に、どのような効果をもたらすことができるのかを体系的に学ぶに、もってこいの書籍です。研修をファシリテートする人や管理職ポストにつく人には、座右の一冊になるのではないでしょうか?教育関係者の方も是非んで頂きたい一冊です。
2010年9月24日金曜日
First of all, we must consider "the" point.
最近は専らユニクロで服の調達を済ませているわけでありますが、これが中々に素晴らしいできばえでありまして・・・。以前(5年ほど前)はもう少しデザインがやぼったかったのですが、最近はかなり洗練されてきたように感じます。しかも、日本発ブランドのわりにシャツの袖が意外に長かったりして重宝しております・・・ん?気のせい?多分僕の腕の長さが縮んだんでしょう。おまけに、洗濯しても自然乾燥で皺がほとんどなくなりますし・・・値段良し、品質良し、デザイン良し、手軽さ良しの4良しの製品を卸せるとは。乱立するアパレル会社はますます厳しい環境に追い遣られそう・・・。景気が回復すれば、もう少し違った流れも生まれるのでしょうけれど、その見込みは・・・いやはや厳しいこと限りなし。
さて、お洒落センスが低く衣服の大半をユニクロのコーディネートで済ませ、女性から「ダサ~い」という声受けるも全く微動だにしないunfashionable弁慶えびすが紹介する書籍はこちら。
本書は前回書評した仮説思考の姉妹本に当たる。振り返って、仮説思考の内容はどういったものであったか?簡単に記すと「問題の解決にあたって、まず始めにどういった解決方法があるのかを仮説をたててから問題に取組みましょう」というものであった。では論点思考の内容はどういったものか?これも簡単に記すならば「事象に対して、解決方法は色々かわってくるよね。つまりは事象のとらえかたはTPO・会社の意向に応じて変わるので、その時々に最適な課題設定をたてましょう」といった内容だ。前者が課題解決に焦点があてられている一方、後者は問題設定に焦点があてられている。では論点思考と課題設定の間にはどういった関係があるのであろうか?その内容を少し掘り下げて紹介していく。
何事も事象がまずあるのだが、その事象に対する論点は何通りもあり、それに伴って様々な課題設定をしなければならないことを順を追って示していこう。例えば会社に泥棒が入ったする。そして、【泥棒が入った】という事象に対し、幾つかの論点が湧き上がってくる。
1.防犯体制に不備があった。
2.設備の破壊・商品の盗難による損害が発生した
3.盗難にあったことが報道され、イメージダウンにつながった
ここで示した3つの論点に対する打ち手=解決に至るための課題の設定は、それぞれ次の通りとなる。
1.防犯体制の強化
2.損害額の算定と損益への影響
3.報道インパクトへの対処
同じ事象に対して、企業がどういった論点に重点をおくかにより、課題設定が様々に異なってくるのが理解できる。様々な論点を設定できることで、問題を多角的にとらえることができるわけだ。論点思考とは、問題に対して様々な論点を洗い出し、課題を設定する思考力をいう。
「なんだ、論点思考なんて大したものじゃない」と考えてしまいがちだが、それは大いなる間違いであるとすぐに気付くだろう。一度、身近にある事件を【事象】のみから考えてみると、その難しさがわかるはずだ。無能な私の例で恐縮ではあるが、自身、大学の研究・企業の研究生活を振り返って、この論点をたてる難しさを痛感している。事象は容易に理解できるのだが、その事象に対し、どういったアプローチを取るのか(=論点の洗い出し)を考えるのは本当に難しいことであったと記憶している。著者は、頭の中に多様な分野の「引き出し」を持つと、論点設定においてその引き出しが非常に優位に働くと述べる。引き出しが多いほど、一つの事象を多角的にみることが出来るからだ。
確かに引き出しが多いと、物事を多角的にみることができよう…しかし、逆に引き出しが多すぎるがゆえに迷いが生じるのではないかという疑問も生じる。この点は著者も考慮しており、論点思考の主題はここにあるといってもよい…つまり、【いくつもある論点の中から、いかに正確な論点を抜き出してくることが出来るか】ということこそ論点思考の幹にあたろう。
正確な論点を抜き出してくるにあたり、著者は「経験知」が重要であると述べる。この経験知は、問題に対してどの引き出しを持ってこればよいのかを判断する際に必要となる【直観的な知】であり、読書や人の話を聞くといった行為によってのみでは身につかない代物だ。頭の中に作りあげた引き出しを現実の世界で適用し、それによってどのような結果が出るかの仮説をたて、実証・検証し、幾度も再現性よく適用可能であるという経験を積み重ねて身につくものである。論点思考は一朝一夕には獲得できない、何とも歯がゆく生唾ものの思考力である。
How to 本にあるような、明日にでも身につく能力ではなく、地道に長い年月をかけて、自身の経験と努力の積み重ねが築き上げる能力があって、はじめて周りの人との差別化がはかれるわけだ。自己満足で終わる知識の蒐集ではなく、現実世界への知識の適用・応用を積み重ねること・・・口で言うのは簡単だが、実行するのは至難の業だ。しかし、これを積み重ねて得られるものは、ビジネスはもとより人生においても非常に有益な「何か」をもたらしてくれるに違いない。
※さて、本書は仮説思考に続いて自身の研究員次代を彷彿とさせられる書籍でありました。問題があって課題がある。問題それ自体はどちらかというと事象に近いものであり、その問題を解決するために様々な課題があるというわけです。で、色々な課題を設定するためには「引き出し」の数がたくさん必用なわけでありまして・・・。その引き出しを増やすためには、経験知が必用なわけでありまして・・・。極論言うと、よく見てよく学び、よく活用せい!ということですね。ビジネスマンは勿論、理系の学生にも是非とも読んでいただきたい書籍です。まぁ、大学院生には不要かもしれませんけれど。
さて、お洒落センスが低く衣服の大半をユニクロのコーディネートで済ませ、女性から「ダサ~い」という声受けるも全く微動だにしないunfashionable弁慶えびすが紹介する書籍はこちら。
本書は前回書評した仮説思考の姉妹本に当たる。振り返って、仮説思考の内容はどういったものであったか?簡単に記すと「問題の解決にあたって、まず始めにどういった解決方法があるのかを仮説をたててから問題に取組みましょう」というものであった。では論点思考の内容はどういったものか?これも簡単に記すならば「事象に対して、解決方法は色々かわってくるよね。つまりは事象のとらえかたはTPO・会社の意向に応じて変わるので、その時々に最適な課題設定をたてましょう」といった内容だ。前者が課題解決に焦点があてられている一方、後者は問題設定に焦点があてられている。では論点思考と課題設定の間にはどういった関係があるのであろうか?その内容を少し掘り下げて紹介していく。
何事も事象がまずあるのだが、その事象に対する論点は何通りもあり、それに伴って様々な課題設定をしなければならないことを順を追って示していこう。例えば会社に泥棒が入ったする。そして、【泥棒が入った】という事象に対し、幾つかの論点が湧き上がってくる。
1.防犯体制に不備があった。
2.設備の破壊・商品の盗難による損害が発生した
3.盗難にあったことが報道され、イメージダウンにつながった
ここで示した3つの論点に対する打ち手=解決に至るための課題の設定は、それぞれ次の通りとなる。
1.防犯体制の強化
2.損害額の算定と損益への影響
3.報道インパクトへの対処
同じ事象に対して、企業がどういった論点に重点をおくかにより、課題設定が様々に異なってくるのが理解できる。様々な論点を設定できることで、問題を多角的にとらえることができるわけだ。論点思考とは、問題に対して様々な論点を洗い出し、課題を設定する思考力をいう。
「なんだ、論点思考なんて大したものじゃない」と考えてしまいがちだが、それは大いなる間違いであるとすぐに気付くだろう。一度、身近にある事件を【事象】のみから考えてみると、その難しさがわかるはずだ。無能な私の例で恐縮ではあるが、自身、大学の研究・企業の研究生活を振り返って、この論点をたてる難しさを痛感している。事象は容易に理解できるのだが、その事象に対し、どういったアプローチを取るのか(=論点の洗い出し)を考えるのは本当に難しいことであったと記憶している。著者は、頭の中に多様な分野の「引き出し」を持つと、論点設定においてその引き出しが非常に優位に働くと述べる。引き出しが多いほど、一つの事象を多角的にみることが出来るからだ。
確かに引き出しが多いと、物事を多角的にみることができよう…しかし、逆に引き出しが多すぎるがゆえに迷いが生じるのではないかという疑問も生じる。この点は著者も考慮しており、論点思考の主題はここにあるといってもよい…つまり、【いくつもある論点の中から、いかに正確な論点を抜き出してくることが出来るか】ということこそ論点思考の幹にあたろう。
正確な論点を抜き出してくるにあたり、著者は「経験知」が重要であると述べる。この経験知は、問題に対してどの引き出しを持ってこればよいのかを判断する際に必要となる【直観的な知】であり、読書や人の話を聞くといった行為によってのみでは身につかない代物だ。頭の中に作りあげた引き出しを現実の世界で適用し、それによってどのような結果が出るかの仮説をたて、実証・検証し、幾度も再現性よく適用可能であるという経験を積み重ねて身につくものである。論点思考は一朝一夕には獲得できない、何とも歯がゆく生唾ものの思考力である。
How to 本にあるような、明日にでも身につく能力ではなく、地道に長い年月をかけて、自身の経験と努力の積み重ねが築き上げる能力があって、はじめて周りの人との差別化がはかれるわけだ。自己満足で終わる知識の蒐集ではなく、現実世界への知識の適用・応用を積み重ねること・・・口で言うのは簡単だが、実行するのは至難の業だ。しかし、これを積み重ねて得られるものは、ビジネスはもとより人生においても非常に有益な「何か」をもたらしてくれるに違いない。
※さて、本書は仮説思考に続いて自身の研究員次代を彷彿とさせられる書籍でありました。問題があって課題がある。問題それ自体はどちらかというと事象に近いものであり、その問題を解決するために様々な課題があるというわけです。で、色々な課題を設定するためには「引き出し」の数がたくさん必用なわけでありまして・・・。その引き出しを増やすためには、経験知が必用なわけでありまして・・・。極論言うと、よく見てよく学び、よく活用せい!ということですね。ビジネスマンは勿論、理系の学生にも是非とも読んでいただきたい書籍です。まぁ、大学院生には不要かもしれませんけれど。
2010年9月22日水曜日
Do Loves give birth Economics?
あまりに恋愛から遠ざかると、女性の方とどうやって接していたのか忘れてしまいがちになります。ん?お前だけだって?まぁそんな厳しい突っ込みはしてあげないで下さい。心底落ち込んじゃいますから、マジで。でも、人生を生き抜いていく上で、女性の方々とは上手く折り合い(?)をつけていかなければならないわけでありまして…いい意味でも、悪い意味でも。しばしば思うのですが、女性の取り扱い方に四苦八苦する男性と、容易く(?)取り扱える男性の違いはどこにあるのでしょう?…僕の統計では(サンプル数は少ないですが)、女系家族で育った男性のほうが後者に属する傾向にある結果が出ております…あれ、僕も女系家族に育ったはずなんだけれどなぁ。

さて、女性に囲まれて育ったにも関わらず、女性の前に立つと緊張してしまい、話し声もしどろもどろになってしまう、男っ気ゼロなえびすが紹介する書籍はこちら。

世の中には様々な学問が存在する。政治学・経済学・物理学・天文学…さらに踏み込むと、政治哲学・ミクロ経済学・素粒子物理学・気象天文学といった具合に、枝分かれしているものだ。その中から一つの分野を選択することは、自身の人生の道筋を決定する上でも、非常に重要な決断の一つである。その英断を行うにあたって、何をきっかけとする・したのかは非常に興味深いところである。例えば、偉大な研究者・学者の多くは幼少時代の【正等で素晴らしいきっかけ】を通じて、その分野に人生をかけようと決めた人がほとんどだ。その一方で、【打算的で人間らしいきっかけ】を通じて、選択を行った人も多数いるのは間違いない。私も「くいっぱぐれないだろう」という、かなり邪な思いで理系の道を選択したものだ。そう、後者(私)のように学問に本気で身を置こうと考える人は少ないはずだ。アカデミーの世界で生きていくという心構えを持つ人など、大学生の5%にも満たないのではないだろうか。多くの人は「将来の食い扶ち」に困らない程度の収入を得るために、学を身につけようとするものであろう。
さて、本書にあるエコノミックとはご存知の通り経済を指すのだが、その学問である「経済学」というと、マルクスやケインズ等を連想し、難解な理論を頭に思い浮かべ、「ちょっと俺の手には負えないなぁ」と忌避してしまう人が多いのではないだろうか?しかし、その中身の大部分は人間の日常生活に見られる事象・現象で説明がつく。例えば、【株式のポートフォリオ】がいい例だ。
ポートフォリオとは経済用語で【資産管理】を意味する用語であり、自分の保有する資産がどういった位置づけにあるのかを把握することである。株式のポートフォリオとは、現在の企業価値に対して、将来の企業価値が経済発展・市場の方向性を鑑みた時にどう変化するのかを見込んだ【仕分け作業】に当たる。
ふむ、なにやら難しく聞こえるが、これを恋愛をベースとして説明するとどうなるか。しばしば打算的な女性は、身近にいる男性の価値を「将来のリターンが見込める層」=「学歴がある・収入がいい・家柄がいい」、「一発逆転がありうる層」=「奇抜な発想・天才的な芸術センス」といった具合に【仕分け作業】を行うと耳にする(あくまでマタ聞きであるが)。この【仕分け作業】こそ、まさに株式のポートフォリオのそれである。ポートフォリオの対象が株式か男性か、違いはそこだけなのだが、如何せん、男性の価値評価・・・つまりは【打算的で人間らしい評価】のほうが我われの記憶に残りやすい。
本書は経済学を学ぶにあたって、様々な【きずき】を与えてくれる書籍であろう。恋愛を題材として、そこに経済学を無理やり当てはめぶつけていくスタイルは(賛否両論あろうが)、経済学の表層を学ぶにもってこいの内容となっているのは間違いない。堅苦しい理論など用いずに、恋愛における人間の心の動き方と照らし合わせて、リズムよく解説してくれているため、多くの読者は飽くことなく完読することができるはずだ。
世の中ではまだまだ正当な形で学問に入る場のほうが尊ばれているようであるが、本書が示すように、多少(場合によってはかなり)邪な形で学問を学ぶ場をもう少し広く提供してもいいのではなかろうかと思う。邪な形で入ったとしても、その学問の深淵さ・醍醐味に気付いて、いつの間にか没頭しアカデミーの世界にどっぷり浸かっていたという人も、そこそこの学を習得して、一般企業に就職し、学を生かした業務につくことが出来たという人も結果として幸せになれる可能性が高いのではないだろうか?大学入学に当たって、当該学問に対する【大きすぎる期待】や【無知の選択】ほど、残念な結果を生み出しやすいような気がしてならない。とりわけ、後者については、今の日本の教育社会が直面している問題ではなかろうかと思う次第である。
※さて、本書の内容は恋愛という観点からのみ評価すると、「おばかちゃん」レベルに留まるわけですが、経済学へのインスパイアという観点から評価すると、非常に優れた書籍であります。社会人向けに書かれていますが、同じ様な方向性から、高校生向けに本書をreviseするのも面白いのではないでしょうか。奇麗事ばかりで、中途半端な高校のキャリア啓蒙よりも、ずっとためになるキャリア教科書(経済学)になると思います。
2010年9月20日月曜日
With rivals, I could get a growth in my life.
ブログの本数も100本を越えて、今年の目標を一つ達成したことに満足感を覚えると共に、虚無感に陥るんじゃないかと心配しておりましたが、そんなことは全くなく、一層の更新に励まねばと思い至っている次第であります。ちゅーわけで、表題にある「100のリンク」を「1000のリンク」に変更いたしました。一年間で100本の評を重ねれば、10年間で1000本…そのころには僕も36歳、いけてるオヤジになっている自分を想像して、日々の人生を存分に楽しみたいと思います。
さて、思えばはや26歳になってしまったんだなぁと、夜月を眺めながら感傷の思いに浸っている、周りから見ると、危ないおっさんえびすが紹介する一冊はこちら。
生物はどのようにして今の形態・生活体系を手にしたのか?大きく二つの論争が起こっている。一つ目はダーウィンの進化論の延長線上にあると考えられる、ドーキンス提唱の「遺伝子淘汰説」。
もう一つが、全体がまず存在して、その後の環境に適応不可な生物が淘汰されていった考える、グールドの「生物種淘汰説」である。
まずはドーキンスの生物進化に対する考え方を紹介しよう。ドーキンスは、生物は遺伝子レベルでの淘汰によって進化してきたという説をとる。人間が持つ遺伝子を車のポルシェ・カレラ911とトヨタのプリウスを用いて例えるならば、より速度が速いものが生き残るとする環境にあっては前者の遺伝子が、より燃費がいいものが生き残るとする環境にあっては後者の遺伝子が残ることとなる。
一方のグールドの進化論はどういったものか?グールドは、生物の進化というものは存在せず、偶発性による淘汰によって、現在の生物が結果として生き残ったものと考える。隕石の衝突により、地球の気温がマイナス5度になったとして、自分で体温を調節することが出来る生物は生き延びることが出来たが、そうでない生物は絶滅(淘汰)してしまったという例を考えていただければいい。偶然の事件によって、どの生物が覇権を握るのかが変わってくるということだ。
ドーキンスの淘汰とグールドの淘汰の違いはどこにあるのか?ドーキンスのそれは、同じ群同士の中で起こる淘汰(上の例でいうと「車」という群の中での淘汰)であり、グールドのそれは、種レベルでおこる淘汰(恐竜という種と人間という種)である。欧州の学者は、おうおうにして論壇の舞台で「雌雄を決すこと」にこだわるため、互いの論が正等であることを立証しようと熾烈な争いがおこっなわれたとのことだ。もっとも、生物進化学の世界から距離を置いた私の目には、ドーキンスの進化論は「小さなスケールでの淘汰」、グールドの進化論は「大きなスケールでの淘汰」として映り、いささか舞台が異なるように感じざるを得ないわけであるが。
生物の進化論に関しては多くの人が興味を抱いている学問だろうと思う。また、その学問のフィールドは広く枝分かれしているのはよく知られたところだ。本著の主役である二人に関しても、ドーキンスは動物行動学者である一方、グールドは古生物学者であり、各々の論における武装の仕方は大きく異なる。他にも、遺伝子学や細胞学、考古学といった分野も進化論のフィールドに大きく関係していることだろう。学問としての起源はダーウィンにまで遡るのだが、依然として生物の進化論について決定的な論は確立されていないようである。しかし、科学の進歩と共に、進化の過程の全貌は一枚一枚はがれてきているのは事実だ。ただ、この進化はあくまでも「過去の生物の進化」についてであり、我われ人間の今後の進化については全てを当てはめることは出来ないだろう。次世代の人間は、地球においてどのようなポジションを担うのか?技術革新に邁進するあまり、猿の惑星のような事態を引き起こしてしまうことがないことを願うばかりである。
※どの世界でも、良きライバルの存在によって研究内容が一層造詣深くなるのは共通しているように感じます。いい意味での「批判」を繰り返すことは、何事においても重要なことです。相手の主張を尊敬した上で、論として齟齬があるのではないかと思う所を自身の論を持って判する、それが「批判」です。日本で「批判」というと、ネガティブな印象しか抱かないように思われますが、本来の意味での「批判」とは相手のためを思ってするものであり、双方に有益な結果をもたらすものです。翻って日本社会を見渡すと、まだまだ誹謗中傷にちかい「批判」精神が残っているようです…僕の偏見かもしれませんが。今後は上述に記したような「批判」精神が広まるといいですねぇ。グローバル化を鑑みても、正当な「批判」精神を鍛えることは一層重要となるに違いないと思います。
さて、思えばはや26歳になってしまったんだなぁと、夜月を眺めながら感傷の思いに浸っている、周りから見ると、危ないおっさんえびすが紹介する一冊はこちら。
生物はどのようにして今の形態・生活体系を手にしたのか?大きく二つの論争が起こっている。一つ目はダーウィンの進化論の延長線上にあると考えられる、ドーキンス提唱の「遺伝子淘汰説」。
もう一つが、全体がまず存在して、その後の環境に適応不可な生物が淘汰されていった考える、グールドの「生物種淘汰説」である。
まずはドーキンスの生物進化に対する考え方を紹介しよう。ドーキンスは、生物は遺伝子レベルでの淘汰によって進化してきたという説をとる。人間が持つ遺伝子を車のポルシェ・カレラ911とトヨタのプリウスを用いて例えるならば、より速度が速いものが生き残るとする環境にあっては前者の遺伝子が、より燃費がいいものが生き残るとする環境にあっては後者の遺伝子が残ることとなる。
一方のグールドの進化論はどういったものか?グールドは、生物の進化というものは存在せず、偶発性による淘汰によって、現在の生物が結果として生き残ったものと考える。隕石の衝突により、地球の気温がマイナス5度になったとして、自分で体温を調節することが出来る生物は生き延びることが出来たが、そうでない生物は絶滅(淘汰)してしまったという例を考えていただければいい。偶然の事件によって、どの生物が覇権を握るのかが変わってくるということだ。
ドーキンスの淘汰とグールドの淘汰の違いはどこにあるのか?ドーキンスのそれは、同じ群同士の中で起こる淘汰(上の例でいうと「車」という群の中での淘汰)であり、グールドのそれは、種レベルでおこる淘汰(恐竜という種と人間という種)である。欧州の学者は、おうおうにして論壇の舞台で「雌雄を決すこと」にこだわるため、互いの論が正等であることを立証しようと熾烈な争いがおこっなわれたとのことだ。もっとも、生物進化学の世界から距離を置いた私の目には、ドーキンスの進化論は「小さなスケールでの淘汰」、グールドの進化論は「大きなスケールでの淘汰」として映り、いささか舞台が異なるように感じざるを得ないわけであるが。
生物の進化論に関しては多くの人が興味を抱いている学問だろうと思う。また、その学問のフィールドは広く枝分かれしているのはよく知られたところだ。本著の主役である二人に関しても、ドーキンスは動物行動学者である一方、グールドは古生物学者であり、各々の論における武装の仕方は大きく異なる。他にも、遺伝子学や細胞学、考古学といった分野も進化論のフィールドに大きく関係していることだろう。学問としての起源はダーウィンにまで遡るのだが、依然として生物の進化論について決定的な論は確立されていないようである。しかし、科学の進歩と共に、進化の過程の全貌は一枚一枚はがれてきているのは事実だ。ただ、この進化はあくまでも「過去の生物の進化」についてであり、我われ人間の今後の進化については全てを当てはめることは出来ないだろう。次世代の人間は、地球においてどのようなポジションを担うのか?技術革新に邁進するあまり、猿の惑星のような事態を引き起こしてしまうことがないことを願うばかりである。
※どの世界でも、良きライバルの存在によって研究内容が一層造詣深くなるのは共通しているように感じます。いい意味での「批判」を繰り返すことは、何事においても重要なことです。相手の主張を尊敬した上で、論として齟齬があるのではないかと思う所を自身の論を持って判する、それが「批判」です。日本で「批判」というと、ネガティブな印象しか抱かないように思われますが、本来の意味での「批判」とは相手のためを思ってするものであり、双方に有益な結果をもたらすものです。翻って日本社会を見渡すと、まだまだ誹謗中傷にちかい「批判」精神が残っているようです…僕の偏見かもしれませんが。今後は上述に記したような「批判」精神が広まるといいですねぇ。グローバル化を鑑みても、正当な「批判」精神を鍛えることは一層重要となるに違いないと思います。
2010年9月19日日曜日
The War, from the view point of philosophy...
最近は恋話をする機会がめっきり減ってきました。というよりは、みんな鞘に納まる、鞘に収める人が増えてきたわけであります。まぁ、友人の多くが20代後半から30代前半であることを考えれば、納得行くものでありますけれど…如何せん、僕としてはすこし寂しいような…いや、まぁそろそろ落ち着けということなんでしょうけれど…うーん、僕自身の直観として、あと4年くらいは鞘に収まる&収める機会はやってこなさそうな気がしてならないのですが…いと悲しきや。
さて、恋に恋焦がれる純情な心の持ち主なのだけれど、ここ最近は女性とはめっきり縁が無くなってしまったえびすが紹介する今日の一冊はこちら。

過去を振り返って、長年に渡り戦争が絶えた時代はあったのだろうか?不思議なことに、我われは絶えず「争い」の場を、様々な理由にかこつけて設けてきた。戦争の起源を表に出すと、かなりしょうもないことであることは、みなよくよく承知のことであろう。小学生レベルの争いの種と何ら変わりないことが原因となって、世界大戦が起こったのは記憶に新しいところだ…もっとも、戦争に至るまでの過程を造り上げることにいたっては、大人のほうが数段巧みではあるが。
さて、本書では哲学的な観点に基づき「戦争」について論じている。巷に溢れる戦争論とは異なるポイントをぐいぐい突いていく。ヘーゲル、フロイト、ハイデガー等、個々の書籍で取り扱えば難解だと感じる哲学を随所で持ってくるが、彼らの小難しい思想をそのまま表に出すのではなく、あくまでも戦争というフレームの中で吟味し展開しているので、大変読みやすい。以下にバタイユ、レヴィナスそれぞれの思想に基づいた戦争観を紹介しよう。
まず、バタイユの恍惚という点から戦争を見ていく。バタイユの思想を理解するには書籍「エロティシズム」を進めたい。その思想を簡単に述べると、「禁止されていることに人間は手を出さざるを得ない心境に陥る」というものだ。戦争にもそんな一面がある。太古においては戦争も単なる一事象にすぎないものであったのだろうが、文明の進化・利己の保護(逆説的に聞こえるかもしれないが)のために、争いはよろしくないものとして、「世界レベルの統一規定」を設けてしまった。そうなると、どうなるか?人間には本能的に周囲の者達よりも優れた能力・権力を持つことを望み・見せたがる生き物である。その欲望を抑圧されるとどうなってしまうだろうか?これは我われの日常にもしばしば見られる現象を引き起こす…そう、「キレル」だ。抑圧のために肥大した欲望は、時にとんでもない形で表に出される。「キレテイル」=「我を忘れている状態」=「一種のエクスタシー・恍惚状態」…バタイユの考えに従うならば、この状態に陥るには「人間の意志」が必要であり、その意志決定において「現在の否定」が要件となってくる。往々にして否定を選択する過程には、自分の現在の有り様から脱したいという思いが内包されているものであるが、これは一般的に言われるような「逃げ」ではなく、そこに強制的に向かわせられざるを得ないということである点注意されたい。そして、何よりも重要なのは、人間は恍惚状態に陥った後、再び正気を取り戻し以前となんらかわらない生活を送ることができるということだ。かくして、人間は<悪>とならざるをえない生き物であるわけだ(悪については一考の余地があるが、ここでは世間体で言うところの悪と考えていただきたい)。
次に、レヴィナスの全体性から戦争を考えるとどうだろうか?レヴィナスは個々の存在性が埋もれてしまった状態における「ある」に注目する。なるほど、戦争というフレームを考えたとき、そこにはもはや個を確かめることができず、ただ「ある」に成り下がってしまう。この「ある」の状態をil y a というのだが、この状態に陥ると我われは「自分」とは何者であるのかを見失ってしまうわけだ。そこで直面する恐怖、それは「死ぬこと」ではなく、「死ねないこと」である。自身の選択として死を選ぶことはできるのだが、そうなると自身の望みは達成されるのか定かでないため選択するものは非常に少ない。死ねないことに対する否定として、われわれが選択するもの、それが「世界戦争」である。自身が死ねないのならば、周囲のものに死を強要するしかない…かくして、世界各国で人による人の大量殺戮が広まることとなった。
人間の本質から戦争論を考える…なるほど、そこまで深く降りていかないと本当の起源など見つかるはずが無い。また、降りていったとしても、明確な答えを得られるわけでもない…「ここまで理解した」という線引きを自身の中でしなければ、およそ終わり無き読書の旅に繰り出すことになってしまうだろう。本書を読んで、痛く実感したことである。
※戦争論ときくと重たいイメージを抱くのが普通でしょう。巷に溢れている戦争論の多くは、表層的な歴史を辿った程度のものが多く、あんな悲惨なことは繰り返してはいけないと思わされる書籍が大多数を占めていることでしょう。しかし、そもそもの戦争の原因は何かを探った書籍は非常に少なく、「なぜ人間は世界レベルの戦争を行うようになったのか」について、より人間の本質に近づく学問であろう、哲学から攻め込んでいる点、本書は稀有な書籍の一冊であります。時間に相当な余裕がある人は是非読まれることお勧めします。随所に出てくる哲学者の主著書もあわせて読まれると、一層味わい深い読書ができること、間違いありません…と僕は思います、はい。
さて、恋に恋焦がれる純情な心の持ち主なのだけれど、ここ最近は女性とはめっきり縁が無くなってしまったえびすが紹介する今日の一冊はこちら。

過去を振り返って、長年に渡り戦争が絶えた時代はあったのだろうか?不思議なことに、我われは絶えず「争い」の場を、様々な理由にかこつけて設けてきた。戦争の起源を表に出すと、かなりしょうもないことであることは、みなよくよく承知のことであろう。小学生レベルの争いの種と何ら変わりないことが原因となって、世界大戦が起こったのは記憶に新しいところだ…もっとも、戦争に至るまでの過程を造り上げることにいたっては、大人のほうが数段巧みではあるが。
さて、本書では哲学的な観点に基づき「戦争」について論じている。巷に溢れる戦争論とは異なるポイントをぐいぐい突いていく。ヘーゲル、フロイト、ハイデガー等、個々の書籍で取り扱えば難解だと感じる哲学を随所で持ってくるが、彼らの小難しい思想をそのまま表に出すのではなく、あくまでも戦争というフレームの中で吟味し展開しているので、大変読みやすい。以下にバタイユ、レヴィナスそれぞれの思想に基づいた戦争観を紹介しよう。
まず、バタイユの恍惚という点から戦争を見ていく。バタイユの思想を理解するには書籍「エロティシズム」を進めたい。その思想を簡単に述べると、「禁止されていることに人間は手を出さざるを得ない心境に陥る」というものだ。戦争にもそんな一面がある。太古においては戦争も単なる一事象にすぎないものであったのだろうが、文明の進化・利己の保護(逆説的に聞こえるかもしれないが)のために、争いはよろしくないものとして、「世界レベルの統一規定」を設けてしまった。そうなると、どうなるか?人間には本能的に周囲の者達よりも優れた能力・権力を持つことを望み・見せたがる生き物である。その欲望を抑圧されるとどうなってしまうだろうか?これは我われの日常にもしばしば見られる現象を引き起こす…そう、「キレル」だ。抑圧のために肥大した欲望は、時にとんでもない形で表に出される。「キレテイル」=「我を忘れている状態」=「一種のエクスタシー・恍惚状態」…バタイユの考えに従うならば、この状態に陥るには「人間の意志」が必要であり、その意志決定において「現在の否定」が要件となってくる。往々にして否定を選択する過程には、自分の現在の有り様から脱したいという思いが内包されているものであるが、これは一般的に言われるような「逃げ」ではなく、そこに強制的に向かわせられざるを得ないということである点注意されたい。そして、何よりも重要なのは、人間は恍惚状態に陥った後、再び正気を取り戻し以前となんらかわらない生活を送ることができるということだ。かくして、人間は<悪>とならざるをえない生き物であるわけだ(悪については一考の余地があるが、ここでは世間体で言うところの悪と考えていただきたい)。
次に、レヴィナスの全体性から戦争を考えるとどうだろうか?レヴィナスは個々の存在性が埋もれてしまった状態における「ある」に注目する。なるほど、戦争というフレームを考えたとき、そこにはもはや個を確かめることができず、ただ「ある」に成り下がってしまう。この「ある」の状態をil y a というのだが、この状態に陥ると我われは「自分」とは何者であるのかを見失ってしまうわけだ。そこで直面する恐怖、それは「死ぬこと」ではなく、「死ねないこと」である。自身の選択として死を選ぶことはできるのだが、そうなると自身の望みは達成されるのか定かでないため選択するものは非常に少ない。死ねないことに対する否定として、われわれが選択するもの、それが「世界戦争」である。自身が死ねないのならば、周囲のものに死を強要するしかない…かくして、世界各国で人による人の大量殺戮が広まることとなった。
人間の本質から戦争論を考える…なるほど、そこまで深く降りていかないと本当の起源など見つかるはずが無い。また、降りていったとしても、明確な答えを得られるわけでもない…「ここまで理解した」という線引きを自身の中でしなければ、およそ終わり無き読書の旅に繰り出すことになってしまうだろう。本書を読んで、痛く実感したことである。
※戦争論ときくと重たいイメージを抱くのが普通でしょう。巷に溢れている戦争論の多くは、表層的な歴史を辿った程度のものが多く、あんな悲惨なことは繰り返してはいけないと思わされる書籍が大多数を占めていることでしょう。しかし、そもそもの戦争の原因は何かを探った書籍は非常に少なく、「なぜ人間は世界レベルの戦争を行うようになったのか」について、より人間の本質に近づく学問であろう、哲学から攻め込んでいる点、本書は稀有な書籍の一冊であります。時間に相当な余裕がある人は是非読まれることお勧めします。随所に出てくる哲学者の主著書もあわせて読まれると、一層味わい深い読書ができること、間違いありません…と僕は思います、はい。
2010年9月18日土曜日
Rereading a book will tell you a secret.
そろそろサンダルの季節が終わろうとしております。街を歩いていると、早くもブーツを履いているつわもの女子がちらほら。日中は30度近くまで上昇することを考えると…よくがんばりますなぁと感心の眼差しを投げかけちゃいます。そんな僕は例年11月くらいまでサンダル生活を送っているわけでありますが。ビルケンシュトックのラムゼスを2年単位で履き潰すのが常になっておりますね。
さて、サンダルの履きすぎで足の甲が横に広がりすぎ、革靴を履くと変なところに靴擦れを起こして、歩行がままならなくなってしまうことしばしばなえびすが紹介する書籍はこちら。

ジョブスを筆頭とするアップルのビジネスモデル(以下BM)もそろそろ分析・解析されつくした感がある。次にどんな方向性に向かうのかの予測もつくようになってきた…そろそろ新しいファームを発表するのではないだろうかと勘ぐっているのだが…勿論、私の頭脳ではそのファームがどういったものであるのか「形として」思い描くことはできないわけではあるが。
さて、新規のBMを考えるにあたって、基礎となる知識・経験無しには何も生まれてこない。たとえ、新しいBMを思いついた!と思って起業してみたものの、蓋を開ければ既に展開されているBMであったというようなことになると、取り返しがつかない。これは商品開発においても当てはまることだ。ベースとなるのは「既存のBMと商品の戦略の知識の集積」である。
そういった意味で、ここ10年ほどの間に生み出されたBM・商品のイノベーションを振り返ることは、起業・新商品を世に送り出そうと考えている人・企業にとって欠かせないプロセスであろう。もし自力でこれらの事例を集めようとすると、多大な労力と時間を費やすこととなり、気付いたら一人社会の流れに取り残されてしまった・商品開発のタイミングを逃してしまったということになりかねない。
本書は、日本はもとより、海外の商品イノベーション・新規のBMに関し、広くその開発コンセプト・戦略について詳しく紹介してくれる。とりわけ「デザイン」の仕方について、熱く語られている。著者が述べるデザインは「ハイスペックな商品」に留まらず、商品開発からプロモーションまでの一連の「商品戦略」の構築を想定している点、見逃してはならない。前者はこれまでの伝統的な商品開発の方法であり、後者は次世代の先進的な商品開発の方法である。後者をアートカンパニーと本書では称している。
アートカンパニーとなるためにはどうすればいいのか?本書にもその方法論は述べられてはいるが、一筋縄で達成できるようなものではない。以下にそのリストを記載しよう。
条件としてはたったの10しかないわけであるが、およそ、これら10の中身を想像するとどうであろうか?…どれも困難を極めるものばかりであること、容易に理解できるであろう。しかし、困難とは言うが実際にアートカンパニーにシフトすることに成功した企業も実例としてたくさんある。ただそれらの多くが、中小企業や海外のベンチャー企業であったりするのが何とも心悲しいのではあるが…。
※この本は僕が大学院生のときに恵比寿の有隣堂で出会い、ひどく感銘を受けた書籍であります。当時、研究に明け暮れ、スペック重視のモノを作ることこそ企業の成長に繋がると思っていた僕には、まさに眼から鱗でした。次代の企業がどういった方向性を向いて経営の舵を切っていくのか、そういった所に興味を抱くきっかけを授けてもらった「座右の一冊」。企業に勤める方、特に商品開発などのモノつくりに直接関係する部署で働いている理系人の方に是非読んでいただきたい一冊であります。
さて、サンダルの履きすぎで足の甲が横に広がりすぎ、革靴を履くと変なところに靴擦れを起こして、歩行がままならなくなってしまうことしばしばなえびすが紹介する書籍はこちら。

ジョブスを筆頭とするアップルのビジネスモデル(以下BM)もそろそろ分析・解析されつくした感がある。次にどんな方向性に向かうのかの予測もつくようになってきた…そろそろ新しいファームを発表するのではないだろうかと勘ぐっているのだが…勿論、私の頭脳ではそのファームがどういったものであるのか「形として」思い描くことはできないわけではあるが。
さて、新規のBMを考えるにあたって、基礎となる知識・経験無しには何も生まれてこない。たとえ、新しいBMを思いついた!と思って起業してみたものの、蓋を開ければ既に展開されているBMであったというようなことになると、取り返しがつかない。これは商品開発においても当てはまることだ。ベースとなるのは「既存のBMと商品の戦略の知識の集積」である。
そういった意味で、ここ10年ほどの間に生み出されたBM・商品のイノベーションを振り返ることは、起業・新商品を世に送り出そうと考えている人・企業にとって欠かせないプロセスであろう。もし自力でこれらの事例を集めようとすると、多大な労力と時間を費やすこととなり、気付いたら一人社会の流れに取り残されてしまった・商品開発のタイミングを逃してしまったということになりかねない。
本書は、日本はもとより、海外の商品イノベーション・新規のBMに関し、広くその開発コンセプト・戦略について詳しく紹介してくれる。とりわけ「デザイン」の仕方について、熱く語られている。著者が述べるデザインは「ハイスペックな商品」に留まらず、商品開発からプロモーションまでの一連の「商品戦略」の構築を想定している点、見逃してはならない。前者はこれまでの伝統的な商品開発の方法であり、後者は次世代の先進的な商品開発の方法である。後者をアートカンパニーと本書では称している。
アートカンパニーとなるためにはどうすればいいのか?本書にもその方法論は述べられてはいるが、一筋縄で達成できるようなものではない。以下にそのリストを記載しよう。
~アートカンパニー10の条件~
1.社会との共創
2.技術ではなく人間、結合ではなく統合
3.無名の質のデザイン
4.エコキャピタルの重視
5.真摯さ
5.真摯さ
6.組織として豊かな知の共有
7.個のネットワーク
8.伝統と文化、知の継承
7.個のネットワーク
8.伝統と文化、知の継承
9.活発なコラボレーション
10.可能性追求主義の戦略
10.可能性追求主義の戦略
条件としてはたったの10しかないわけであるが、およそ、これら10の中身を想像するとどうであろうか?…どれも困難を極めるものばかりであること、容易に理解できるであろう。しかし、困難とは言うが実際にアートカンパニーにシフトすることに成功した企業も実例としてたくさんある。ただそれらの多くが、中小企業や海外のベンチャー企業であったりするのが何とも心悲しいのではあるが…。
※この本は僕が大学院生のときに恵比寿の有隣堂で出会い、ひどく感銘を受けた書籍であります。当時、研究に明け暮れ、スペック重視のモノを作ることこそ企業の成長に繋がると思っていた僕には、まさに眼から鱗でした。次代の企業がどういった方向性を向いて経営の舵を切っていくのか、そういった所に興味を抱くきっかけを授けてもらった「座右の一冊」。企業に勤める方、特に商品開発などのモノつくりに直接関係する部署で働いている理系人の方に是非読んでいただきたい一冊であります。
2010年9月16日木曜日
Between moral and emotion, we are struggling...
ようやく朝起きると、秋の調べを感じ取れるくらいになってきました。早朝に簡易イスを持ち出して、ベランダでしばしば読書していると、かなり気持ちいいです。そのまま、寝ちゃうこともしばしば・・・本末転倒です。もっとも、早朝は過ごしやすさとは裏腹に、日中は気温が上昇してまだ「夏がおわらねぇ」と感じざるを得ないのですが…。もう少しの辛抱でしょうか、そうであると願いましょう。

さて、冷房が効きすぎているカフェに入り、うたた寝している間に風をこじらせてしまい、何とも計画通りにことが進められていない自分へのやるせなさ一杯のえびすがお送りする書籍はこちら。

アダムスミス(以下スミス)は国富論で有名であるが、他にも興味深い著作がある。本書で取り上げられている「道徳感情論」がそれだ。というのも、スミスが書籍として世の中に送り出したのはこの二つしかない。本書には国富論と道徳感情論、双方の解説がなされているのだが、今回の書評では、世間的にあまりしられていないであろう「道徳感情論」について掘り下げてみたく思う。
道徳感情論。その字が示すごとく「道徳というものは人間の感情によって形成されるものである」ということを本論文は主張している。ある新しい「コミュニティ」に入ってきた人を想像してみよう。彼は最初のうちは、以前に住んでいた土地の「慣習・文化・教育背景」にしたがって、自身の考え方・意見を述べることだろう。しかし、新しい土地では彼の考え方はなかなか受け入れてくれない…。孤立化することを恐れる彼は、そのコミュニティの「道徳」に迎合するような形で、自身の「考え方・意見」を変えていかざるをえなくなる。では、新しい土地に住む人たちの道徳を支えている要素は何か?スミスは「人間の感情」がそれらを支えていると考える。政治背景・経済背景・人種背景に対する理解の多くは、当該コミュニティを形成する人間達の「総意としての感情」に支配されるものであり、それにともない彼らの道徳が形成されるというわけである。
スミスの考える「道徳」、それは時代によって様々に姿を変えるものである。これは、先のサンデル教授の考える(カントの考える)道徳とは異なる方向性を持っている。皮膚感覚で表現するならば、スミスの道徳は「より表層に近いところ=周りからの刺激によって様々な反応を示すところ」の道徳であり、サンデル教授の道徳は「より根源的な、一意できまりうるようなところ=周りからの刺激によって反応を示すことがほとんどないところ」の道徳である。サンデル教授が述べる道徳と同じ意味合い=普遍的な人間の判断基準として、スミスは「正義」を用いている。人間に備わった普遍的な「善性」をスミスは「正義」と述べる。
少し脱線してしまった。本筋に戻ろう。
道徳感情論でスミスが示唆する最も重要な点は何か?それは、社会的価値観というものは、時代と共に移り変わりやすく、謝った方向に進んだとしても、時間の経過と共に正しい方向に戻って来るはずだと考えた点である。スミスは万人に備わる「正義」により、「人間として」本質的に間違った行為は正されると述べる。コミュニティ(村・街・国)が誤った方向に進んでいるとしても、周りの圧倒的多数の「正義」をもつ者達が、彼らの方向を正すはずだという考えだ。…これを踏まえると、スミスは「社会には絶対的多数の善者がいることを前提」として、国富論を書いたものと考えられる…なるほど、彼が経済学の父と言われる意味をようやく理解できたように思う。
※本書は、これまで出会った書籍のなかでも指折りの一冊です。道徳感情論は僕も本書と出会うまではその内容を全くしりませんでしたが、本書の丁寧懇切な解説のおかげで、スミスが国富論の前提としての社会をどういったものとして捉えていたのかを学ぶことが出来ました。いやはや、国富論だけだと、どうしてもスミスを尊敬できないところがあったのですが、道徳感情論を知ったことで、「なるほど、確かに経済学の父だ」と思うようになりました…無知は恐ろしいものです。一層、読書に励まねばと思い至らされる書籍でした。新書でお求め安いので是非!特に大学生の方は一読しておくと、後学に活かせること間違いないと思います…あくまで僕の私見ですけどね。
2010年9月13日月曜日
Retrospect de mine.
最近、ノマドな生活を送っているのですが、これが結構体に良い。どこかに良いカフェ(安くて、おいしくて、電源があるような)は無いものかと目をギラギラさせながらうろついております。傍目から見たら、いっちゃってる青年に見えるでしょうね。事実、おまわりさんに職務質問受けたりしますしね。まったく、人を外見で判断しちゃいけませんよ、まったく。

さて、人柄が悪いように装い、いろいろ思考実験をしようと企んでいる、なんとも救いようの無いえびすが紹介する映画はこちら。
トイストーリーの第1作は、確か僕がまだ小学性の頃に上映されたと記憶している。映画館で第一作を鑑賞した友だちが「めちゃくちゃ感動したよ!」と語っていたのを記憶している。その後、ビデオ(DVDはまだまだ出てこなかった)で作品を鑑賞した私は、作品の内容以上にピクサーが作り出したフルCGの凄さに驚いたものだった。
感動的な第1作目との出会いから早13年近くが経過しようとしている。トイストーリーも3作目をむかえ、今回で一先ずの完結となるようだ。そして、その内容がなんとも素晴らしい。第1作、第2作は子どもを対象に「友情・絆」を、今作はどちらかというと「大人の回顧心」をくすぐる内容となっている。ストーリーの大まかな内容を記すと以下の通りだ。
1.アンディは大学へ進学するにあたり、家を離れることに。ウッディら人形を一緒に大学に持っていくかどうするか悩む。
2.一方のウッディたちは大騒ぎ。自分たちの去就がどうなるか不安で仕方が無い。
3.結局、ウッディだけを大学に持っていくことに決め、バズたちは屋根裏部屋送りとなってしまう。
4.いろんないざこざがあり、ウッディに見捨てられたと誤解したバズたちは、自ら託児所に送り込まれる道を選択する。当然のごとく、ウッディもそれをおって、託児所に潜入することとなる。
5.ウッディはバズたちの誤解を解くことに成功、託児所から脱出する計画をたてる。託児所「サニーサイド」では、ロレンツォ(以下熊)のもと徹底した恐怖政治のごとく、おもちゃの牢獄統制が取られていた。昼間は子どもたちと遊び、夜は徹底した牢獄生活、これでは脱出できない。
6.何とか脱出に成功するも、熊に見つかる。衝突を繰り返し、何とか脱出成功。アンディのもとへ帰ってくる。
7.アンディ旅立ちの日。ウッディ達は意図的にもう一度アンディの決断を迫る作を講じる。結果、ウッディ達はおもちゃ好きの従姉妹のもとへ送られることとなる。
8.新しい場所での、新しい仲間たちとの生活が始まり、めでたしめでたし。
さて、本作における熊の立場は非常に重要であるので、彼について少し分析したい。作中で熊は人間に対し、大きな不振を抱いている。その理由は以下の通りだ…当該物である「熊のぬいぐるみ」は大量生産品であるため、どこかに置き忘れた・ひどく汚れてしまったとしても、所有者は「新しい代替品」を資本をもって手に入れることができる。そのため、置き忘れられた・ひどく汚れた「熊のぬいぐるみ」は、用無し・用済み・ただのゴミ以外のなんでもなくなる。かつては自分が占拠していた場所には、毛並みがふさふさで色あせていない「新品の熊のぬいぐるみ」が居座っている。奪われた場所を奪い返そうにも、自身に負い目を感じる部分が多々あるため、行動に移すことができない…
先の空気人形でも紹介したように、モノにあふれた世界に生きていると、モノ一つ一つの大切さを考えることなく、ただただ「消費」に走ってしまいがちになる。結果、古くなったもの・飽きてしまったものはゴミ送りとなるのだが、もし彼らに「心がある」と知ったとき、我われはこれまでと同じような扱いを行いうるだろうか?
心を持つことをどの程度まで配慮するかは人それぞれで異なる。しかし、かつての日本、いや世界では「モノ一つ一つに心がこめられている」といった考え方は、至って普通のものだったと記録されている。しかし、産業革命以降大量生産が可能となったことにより、モノにたいして我われ人間が抱く思い・考え方は大きく変化してしまった。取替え可能で複製可能、いつでも思いのままに手に入れられる。そんな生活が「普通」となってしまった世界では、モノに心がこめられていると誰が思うだろうか。
さて、われわれはどこを目指すべきなのだろう?一層の技術革新により、より良質の大量生産品を作り続ける道を進み続けるのか、それとも、一つ一つ大切にモノを作っていく道への回帰を選ぶのか。もっとも、今の世界情勢を鑑みるに、後者の道へ回帰するのはかなりの勇気と覚悟を要するものであること間違いない。
※トイストーリー3と空気人形はかぶるところが結構ありました。どちらも大量生産されるモノに対して、もう少し考えたほうがいいんじゃない?という疑問を鑑賞者に投げかけているように思います。ふむ、自身の身の回りのモノについても色々と考えちゃいますね。いや、モノに限らず、産業・経済構造についてもであります。
2010年9月12日日曜日
To build a nation, what should we know ?
ようやっと夏の終わりを感じ取れる夜になってきたなぁ…と思っていたら、また熱帯夜に逆戻り。扇風機つけて半裸状態でソファーの上で寝ているえびすの姿といったら、そらもう、見れたもんじゃないですよ。色々なお方から苦言を呈されることしばしば。まぁ時に「君もこんな姿をさらけ出すことが出来るのか!」というお褒めの言葉も頂くんですけどね。たとえ同じ物事であっても、その捉え方は十人十色で面白いなぁと感じ入るのほほんな日々を過ごさせていただいております。
さて、のほほんな日々もいいけど、そろそろ本格的に動き出さないと取り返しがつかなくなるなーと擬似焦り気味なえびすが紹介する書籍はこちら。
クルド人を最初に知ったのは確か高校生の現代社会の時間だったと記憶している。背の高いサングラスをかけたダンディな教師が中東問題のところで少し脱線気味に話してくれた。当時の私が記憶に残したのは「国を持たない民族、いろんな国にだまされ続けてきた民族」といった程度の知識であった。ただ、当時から今に至るまで心のどこかにひっかかるものがあったのは間違いない。
中東問題というと、レバノンやパレスチナがしばしば取り上げられる。それぞれの問題背景は若干違うところはあれど、根幹には「報復・領土・尊厳」といった要素を、共通に持っているのは間違いないだろう。今回紹介するクルドの人問題については、いささかもう一段複雑な背景がひそんでいる。
クルド人が持つ問題は内部と外部双方に原因を持つ。内部に関しては、クルド人同士の間での統制が上手く取れておらず、それぞれの集団・派閥が独立して自分達の意見を主張している点が挙げられよう。Topが下す決断ですら、そこに私的な利益の大きさを優先してしまうことが多々あるようである。また、外部からの迫害もかなりすさまじいものとなっている。とりわけトルコにおけるクルド人に対する制裁・粛清の程度はかなりのひどさである。数週間で数千の民間人の命を奪う虐殺もあったと聞く。問題背景にはトルコが掲げる「ケマル主義(自国の文化・民族・考え方を統一することを目指す)」とクルド人が持つ自己主張の強さが「悪い相乗効果」を生み出していると考えられる。
クルド人が目指すのは「自民の建国」である。なるほど、確かに自分達の国を持つと、資源・経済・政治社会など、様々な面において恩恵を受けることが出来るだろう。ただし、同時に、民・政治の統制、持続的な経済活動、隣国との交渉・協働などの面での忍耐力・寛容力・相互理解力といったものも求められる。過去に一度、クルド人はマハーバード共和国を樹立している。しかし、それもたった11ヶ月しか存続できなかった。その原因何か?はたして再度建国をするとして、それは持続可能なものであるのか?外部要因は勿論のこと、内部の問題にもしっかりと問題解決の手立てを施さない限り、「自民の建国」は叶えられることはないだろう。
※書籍の中には結構衝撃的な写真が幾つか含まれております。なかには、ピュリッツァー賞を受賞した写真もあります。平和な国にいると生命に関わる危機意識が麻痺してしまうため、世界各国が直面する生存問題に関し、腰をすえて考えるのは難しい環境にあるのは否めません。そういう僕も考えていない一人でありますから。ですけど、考えようと思えば逸れは出来るわけでありまして…例えば休日を丸々使って勉強会を開くとか。平日とは違った形で頭をフルに使う、身体をフルに動かす…それくらい鞭打つくらいがちょうどいいのかなぁと思う日曜の午後でした。まぁ、例のごとく、思うだけで終わっちゃいそうで、なんとも恐縮なんですけどね。
さて、のほほんな日々もいいけど、そろそろ本格的に動き出さないと取り返しがつかなくなるなーと擬似焦り気味なえびすが紹介する書籍はこちら。
クルド人を最初に知ったのは確か高校生の現代社会の時間だったと記憶している。背の高いサングラスをかけたダンディな教師が中東問題のところで少し脱線気味に話してくれた。当時の私が記憶に残したのは「国を持たない民族、いろんな国にだまされ続けてきた民族」といった程度の知識であった。ただ、当時から今に至るまで心のどこかにひっかかるものがあったのは間違いない。
中東問題というと、レバノンやパレスチナがしばしば取り上げられる。それぞれの問題背景は若干違うところはあれど、根幹には「報復・領土・尊厳」といった要素を、共通に持っているのは間違いないだろう。今回紹介するクルドの人問題については、いささかもう一段複雑な背景がひそんでいる。
クルド人が持つ問題は内部と外部双方に原因を持つ。内部に関しては、クルド人同士の間での統制が上手く取れておらず、それぞれの集団・派閥が独立して自分達の意見を主張している点が挙げられよう。Topが下す決断ですら、そこに私的な利益の大きさを優先してしまうことが多々あるようである。また、外部からの迫害もかなりすさまじいものとなっている。とりわけトルコにおけるクルド人に対する制裁・粛清の程度はかなりのひどさである。数週間で数千の民間人の命を奪う虐殺もあったと聞く。問題背景にはトルコが掲げる「ケマル主義(自国の文化・民族・考え方を統一することを目指す)」とクルド人が持つ自己主張の強さが「悪い相乗効果」を生み出していると考えられる。
クルド人が目指すのは「自民の建国」である。なるほど、確かに自分達の国を持つと、資源・経済・政治社会など、様々な面において恩恵を受けることが出来るだろう。ただし、同時に、民・政治の統制、持続的な経済活動、隣国との交渉・協働などの面での忍耐力・寛容力・相互理解力といったものも求められる。過去に一度、クルド人はマハーバード共和国を樹立している。しかし、それもたった11ヶ月しか存続できなかった。その原因何か?はたして再度建国をするとして、それは持続可能なものであるのか?外部要因は勿論のこと、内部の問題にもしっかりと問題解決の手立てを施さない限り、「自民の建国」は叶えられることはないだろう。
※書籍の中には結構衝撃的な写真が幾つか含まれております。なかには、ピュリッツァー賞を受賞した写真もあります。平和な国にいると生命に関わる危機意識が麻痺してしまうため、世界各国が直面する生存問題に関し、腰をすえて考えるのは難しい環境にあるのは否めません。そういう僕も考えていない一人でありますから。ですけど、考えようと思えば逸れは出来るわけでありまして…例えば休日を丸々使って勉強会を開くとか。平日とは違った形で頭をフルに使う、身体をフルに動かす…それくらい鞭打つくらいがちょうどいいのかなぁと思う日曜の午後でした。まぁ、例のごとく、思うだけで終わっちゃいそうで、なんとも恐縮なんですけどね。
2010年9月9日木曜日
No life, No death!
命の大切さ・尊さを感じるときはいつでしょうか?僕は電話で両親と話している時にしばしば感じます。両親無しに僕は存在し得なかったわけでありますから。で、この質問に対する答えは人それぞれで異なるものでありましょう…ってか違って当たり前ですね。みんなが同じだったら怖い怖い。たった一つの目標に対して全ての人間が邁進してしまうと、必ずどこかに歪が生じます。過去の歴史を振り返っても、その恐ろしさは至るところに垣間見ることができます…ふむ、全体主義はおそろしや。
さて、歳を重ねるごとに、老境の域への憧れが増してくのに対し、あぁ、我が人生もあと50年ちょっとかと思い浸っているえびすが紹介する書籍はこちら。
アポトーシスという言葉をご存知だろうか?本書によると細胞がある一定期間の後に自ら命を絶つことをいうらしい。その命の絶ち方は「自殺のような絶ち方」ではなく、次代の子孫のためにも歳をとった自身は、ここで退かなければいけないとう「次代を尊重した絶ち方」である。これを鑑みるに、人間の生態には「命の引き際」に忠実に従う機能が備わっているように考えられる。
さて、アポトーシスについてもう少し詳しく説明していく。アポトーシスの役割としては大きく二つある。一つ目が新しい細胞の居場所を与えるために自己消滅していく生態防御の役割。二つ目がウィルスやガン細胞といった内外の敵が現れたとき、異常をきたした細胞をアポトーシスの発動によって消去する生態防御の役割である。いずれにおいても「消える・いなくなる」という点において、人間の生命活動に欠かせない役割をになっていることがわかる。
このアポトーシスが上手く働かなくなると、ガンや糖尿病に代表される成人病やAIDSなどの疾患に陥るといわれている。ガンにおいては、本来死ぬべき細胞が死なない=アポトーシスが起こらないがために起こり、アルツハイマーなどは細胞がすぐに死滅してしまう=アポトーシスの期間が短いがために起こる。そしてAIDSにおいては、アポトーシスを起こさないHIVウィルス細胞が、正常な細胞にアポトーシスを促進する信号を送り続ける、一つの病気で二つの問題を抱えたやっかいな病気である。
著者はこのアポトーシスの異常がもたらす病気を治癒するにあたり、二つの方向性があると述べる。一つ目が、確率的に様々な薬を調合・試験して、当該する病気に効き目のある新薬を開発する方向性。二つ目が、アポトーシスをゲノム解析し、どういった過程でアポトーシスの異常が発生するのかを解明し、未然に異常が発生しないようにするという方向性である。大別すると、前者が企業の「開発」に、後者が大学の「研究」にあたると考えていただくとわかりやすい。
科学的な話も面白いのだが、本書の終わりにある興味深い話「死生観」についても少し紹介しておくべきだろう。著者は今の人たちは、死に対してネガティブな印象ばかりを持ち、一歩一歩迫ってくる人生の終焉を直視できない人が増えているのではないかと述べる。生きることが半永久的に続いたとして、人間はどういった人生を送ることになるだろうか?死という終わりがあるからこそ、人生を様々に色付けようと一生懸命になるのではないか?死について、今一度考えてみる必要がありそうだ。
※科学系の新書なんですが、とても平易な文章で書かれており、大変読みやすかったです。内容も、読み進める内にどんどん興味をかきたてるような構成になっており、おおよそ一読で「細胞の死:アポトーシス」について、簡単な理解が得られるのではないっでしょうか。それにしても、生物の死は不思議で神秘的なモノであります。生きること=サイクルがあること=一瞬の時間の大切さを噛み締めること…自身の人生・方向性について色々と考えさせられた一冊であります。
さて、歳を重ねるごとに、老境の域への憧れが増してくのに対し、あぁ、我が人生もあと50年ちょっとかと思い浸っているえびすが紹介する書籍はこちら。
アポトーシスという言葉をご存知だろうか?本書によると細胞がある一定期間の後に自ら命を絶つことをいうらしい。その命の絶ち方は「自殺のような絶ち方」ではなく、次代の子孫のためにも歳をとった自身は、ここで退かなければいけないとう「次代を尊重した絶ち方」である。これを鑑みるに、人間の生態には「命の引き際」に忠実に従う機能が備わっているように考えられる。
さて、アポトーシスについてもう少し詳しく説明していく。アポトーシスの役割としては大きく二つある。一つ目が新しい細胞の居場所を与えるために自己消滅していく生態防御の役割。二つ目がウィルスやガン細胞といった内外の敵が現れたとき、異常をきたした細胞をアポトーシスの発動によって消去する生態防御の役割である。いずれにおいても「消える・いなくなる」という点において、人間の生命活動に欠かせない役割をになっていることがわかる。
このアポトーシスが上手く働かなくなると、ガンや糖尿病に代表される成人病やAIDSなどの疾患に陥るといわれている。ガンにおいては、本来死ぬべき細胞が死なない=アポトーシスが起こらないがために起こり、アルツハイマーなどは細胞がすぐに死滅してしまう=アポトーシスの期間が短いがために起こる。そしてAIDSにおいては、アポトーシスを起こさないHIVウィルス細胞が、正常な細胞にアポトーシスを促進する信号を送り続ける、一つの病気で二つの問題を抱えたやっかいな病気である。
著者はこのアポトーシスの異常がもたらす病気を治癒するにあたり、二つの方向性があると述べる。一つ目が、確率的に様々な薬を調合・試験して、当該する病気に効き目のある新薬を開発する方向性。二つ目が、アポトーシスをゲノム解析し、どういった過程でアポトーシスの異常が発生するのかを解明し、未然に異常が発生しないようにするという方向性である。大別すると、前者が企業の「開発」に、後者が大学の「研究」にあたると考えていただくとわかりやすい。
科学的な話も面白いのだが、本書の終わりにある興味深い話「死生観」についても少し紹介しておくべきだろう。著者は今の人たちは、死に対してネガティブな印象ばかりを持ち、一歩一歩迫ってくる人生の終焉を直視できない人が増えているのではないかと述べる。生きることが半永久的に続いたとして、人間はどういった人生を送ることになるだろうか?死という終わりがあるからこそ、人生を様々に色付けようと一生懸命になるのではないか?死について、今一度考えてみる必要がありそうだ。
※科学系の新書なんですが、とても平易な文章で書かれており、大変読みやすかったです。内容も、読み進める内にどんどん興味をかきたてるような構成になっており、おおよそ一読で「細胞の死:アポトーシス」について、簡単な理解が得られるのではないっでしょうか。それにしても、生物の死は不思議で神秘的なモノであります。生きること=サイクルがあること=一瞬の時間の大切さを噛み締めること…自身の人生・方向性について色々と考えさせられた一冊であります。
2010年9月7日火曜日
Picture + Diagram = Strategy Map
最近、自由が丘のブックオフに足蹴に通っているのですが、ここのブックオフは毎週のようにセールイベントを開催しております。この週末は100円商品以外の書籍20%オフでした。いやはや、困っちゃいますねぇ…先々週に単行本500円均一を開催したばかりなのに…買うほうも困ってしまいますヨ。少しでも気になる本があれば即購入に踏み切ってしまう僕の悪い癖でありまして、いろんなジャンルをあさり、大量購入してしまいました。自由が丘という場所柄もあってか、企業を目指している人がたくさんいるのでしょうか?ビジネス書に関しては結構なレアモノがお手ごろ価格にて手に入ります。ふむ、これだけ安くしても収支はしっかりとれているのでしょうか。財務実態を見てみたいものであります。
さて、古本の安さ=麻薬だと実感しつつも、その誘惑に勝てずにいる、だらしないこと極まりないオトコえびすが紹介する書籍はこちら。
ピクト図とはなんぞや?およそ、この聞きなれない単語を知っている人は、相当なビジネス書オタクか日経BPマニアに違いない…と信じたい。私自身は日経BPの記事で、過去にこのような図解によるビジネスモデルの例があったなぁと記憶している程度であった。ピクト図解なる単語など全く脳に記録されていなかった…もっとも、単語の意味より、単語が示す内容を把握していることのほうが重要であるとの筆者の言葉に救われたのだが。
さて、さっそくピクト図解について紹介しよう。ピクト図解とは、美術館や複合施設などでしばしば見られる「ピクトグラム」と呼ばれる標識(トイレやエレベーターの標識)によって、モノ・サービス・お金の流れを示した図表である。特徴的なのは、従来のようなステークホルダーマップと異なり、どのフレーム層にどのような形でモノ・サービス・お金が流れているのかが一目でわかる。加えて、時系列による変化も図表内で表現できるため、非常に使い勝手がよい。
本書では、巷に転がる様々なビジネスモデルをピクト図解を用いて分析している。昨今の複雑なビジネスモデルもピクト図解をもってすれば、いとも容易く理解することができよう。とりわけ、上司やチームメンバー等、第三者に対して説明する際に、その効力を実感することができるのではないだろうか。企画書等の考案・作成に携わる人には、もってこいのツールであること間違いないだろう。
ピクト図解を用いる利点は他にもある。それは、ピクト図解はアナロジー(類推)がしやすく、新しいモノ・サービス・お金の流れをマップの中に組み込みやすいという点だ。新しいステークホルダーをひょんと出し、そこに仲介・商品提供・コンサルタントといった流れを作り出すことで、従来とは全く異なるビジネスモデルを容易に考案することができるツールであろう。
ピクト図解はまだまだ世の中に広く浸透していないが、今後右肩上がりに多くの企業がこのツールを取り入れていくことと思う。「誰にでもわかりやすく共有しやすい」というビジネス界のニーズにマッチしていることを鑑みると容易に想像がつこう。一歩先の提案能力・企画力を身につけたい人は是非一読されたい一冊だ。
※本書は結構なツールを提供しています。特に若手の会社員の方には、スキルアップという点からも是非読んでいただきたい一冊です。また、新しいビジネスモデルを考案しやすいという点、起業を考えている人には必須の一冊ではないでしょうか…と勝手ながらに思います。電子書籍でも安く購入できるようですので、iPad等お持ちでしたらそちらで購入するのもよろしいかと。図表も多く、ページ数(230ページほど)・章立ての数(6つのchapter)ともに、電子書籍でも十分見れる内容だと思います…推測ですけどね。
さて、古本の安さ=麻薬だと実感しつつも、その誘惑に勝てずにいる、だらしないこと極まりないオトコえびすが紹介する書籍はこちら。
ピクト図とはなんぞや?およそ、この聞きなれない単語を知っている人は、相当なビジネス書オタクか日経BPマニアに違いない…と信じたい。私自身は日経BPの記事で、過去にこのような図解によるビジネスモデルの例があったなぁと記憶している程度であった。ピクト図解なる単語など全く脳に記録されていなかった…もっとも、単語の意味より、単語が示す内容を把握していることのほうが重要であるとの筆者の言葉に救われたのだが。
さて、さっそくピクト図解について紹介しよう。ピクト図解とは、美術館や複合施設などでしばしば見られる「ピクトグラム」と呼ばれる標識(トイレやエレベーターの標識)によって、モノ・サービス・お金の流れを示した図表である。特徴的なのは、従来のようなステークホルダーマップと異なり、どのフレーム層にどのような形でモノ・サービス・お金が流れているのかが一目でわかる。加えて、時系列による変化も図表内で表現できるため、非常に使い勝手がよい。
本書では、巷に転がる様々なビジネスモデルをピクト図解を用いて分析している。昨今の複雑なビジネスモデルもピクト図解をもってすれば、いとも容易く理解することができよう。とりわけ、上司やチームメンバー等、第三者に対して説明する際に、その効力を実感することができるのではないだろうか。企画書等の考案・作成に携わる人には、もってこいのツールであること間違いないだろう。
ピクト図解を用いる利点は他にもある。それは、ピクト図解はアナロジー(類推)がしやすく、新しいモノ・サービス・お金の流れをマップの中に組み込みやすいという点だ。新しいステークホルダーをひょんと出し、そこに仲介・商品提供・コンサルタントといった流れを作り出すことで、従来とは全く異なるビジネスモデルを容易に考案することができるツールであろう。
ピクト図解はまだまだ世の中に広く浸透していないが、今後右肩上がりに多くの企業がこのツールを取り入れていくことと思う。「誰にでもわかりやすく共有しやすい」というビジネス界のニーズにマッチしていることを鑑みると容易に想像がつこう。一歩先の提案能力・企画力を身につけたい人は是非一読されたい一冊だ。
※本書は結構なツールを提供しています。特に若手の会社員の方には、スキルアップという点からも是非読んでいただきたい一冊です。また、新しいビジネスモデルを考案しやすいという点、起業を考えている人には必須の一冊ではないでしょうか…と勝手ながらに思います。電子書籍でも安く購入できるようですので、iPad等お持ちでしたらそちらで購入するのもよろしいかと。図表も多く、ページ数(230ページほど)・章立ての数(6つのchapter)ともに、電子書籍でも十分見れる内容だと思います…推測ですけどね。
2010年9月5日日曜日
Adults Escape From The Burden...
今日は大学の研究室同期の結婚式がありました。はや26歳、この年にもなると、まわりの同僚・研究室仲間もどんどん所帯を持ち始めております…うむ、あせるぜヨ。花婿からの新しい門出を迎えるにあたっての決意の言葉、花嫁からのご両親に対するこれまで育ててくれたことへの感謝の言葉…選ぶ言葉こそ人それぞれで違いますが、そこに込める思いは微笑ましく、立派なものであります。綺麗でなく無骨であっても、思いがこもっていると、ジーンとくる、そんな言葉を紡げるようになりたいものです。
さて、婚活なるものが何故流行るのかと学生持代は疑問に思っていたけれど、最近その理由が腑に落ちつつあることを実感している、か弱き心の持ち主えびすが紹介する本はこちら。
まず筆者が述べる「ガキ」の定義について記しておこう。ガキとは「話が通じない」「聞く力が無い」「集中力が無い」「理不尽に怒り出す」といった要素を備え持つ人間だ。総じてそうした人たちは年少者であることが多く、彼らを「ガキ」と言う。
私自身、昔は周りの人たちから「クソガキ」とよく言われたものだ。「クソ」の接頭語まで着いているのだから相当なものであったのだろう。ただ、当時の自分を振り返ると、まさに上に挙げた要素を満たしていること、痛感するばかりである。
筆者は、このガキが広く大人の世界に延長しているのではないか?と疑問を投げかける。親が子どもに投影する理想像、自分の子どもを過保護に甘やかす両親、自分の非を全く認めようとしない社会人etc 昨今の日本では、日常の至る所に大人の「ガキ」が溢れていることに気付く…ガキのまま大人になれていないのだ。つまるところ、「大人のガキ」である。ふむ、想像しただけで悪寒が走る。
俗に言うところのモンスターペアレント。彼らを「大人のガキ」と考えることは容易いところであろう。理不尽に我が子だけを甘やかす。誰かに起こられようものならば、理由も聞かずに誹謗中傷をもって子どもの保護にまわる。まぁよく報道されているのでご存知のことと思う。ただ、私はもう少しこの「大人のガキ」のフレームをひろげてもいいのではないかと思う。というのも、その規準を戦後間もないころに置く限りにおいてであるが。便利な社会に慣れ、資本を元に意の望むような生活を手に入れようと我が儘な生活を送る我われ大人は、誰しも「一億総ガキ社会」の構成員といっても過言ではなかろう。
では、何がこの「大人のガキ」を量産してしまったのだろうか?筆者はその原因を「希望を抱かせすぎた社会」にあると述べる。厳しい現実にぶち当たり、自分の理想像が崩れた時に「あぁ、自分はあまっちょろかったなぁ」と自分を諫めることが出来る人は「大人」になることが出来る。しかし、「いや、こんなはずは無い。おれはまだこんな程度で終わるはずは無い」と、何の努力もせずに理想にしがみつく人がいる。「俺がうまくいかなかったのは運が悪かったからだ」という希望論を振りかざして、いつまでも自分の「敗北の姿」を見ようとしない…。そして、社会風潮とメディアによる報道・特集がそれを擁護する…。
総ガキ社会になってしまった今、大人である我われは何をすべきであるのだろうか?本書には、その問いに対する明確な答えは述べられていない。およそ、大人になってしまった人たちを「改宗」することは不可能だと考えているのだろうか。もっとも、私自身も大人の意識を変革させる難しさは重々承知している。
※久しぶりに面白い本に出会いました。一億総ガキというのは言いすぎではないか?と最初は思っていたのですが、周囲の人間、僕自身を一歩距離を置いた位置から俯瞰してみると…あぁ、確かに一億総ガキ社会だと納得してしまいました。まぁ、見聞による戦後時代の人々の生活と現代人の生活を比較しての話しですけれど。生活スタイルが技術・経済の進歩に伴い便利になるにつれ、それがあたかも普通であるかのように考えてしまう人間の習性。この習性を変えるのは…不可能ですよね、はい。なんで、「意識的に」そういった生活スタイルの進歩を「感謝」することが大切なんじゃないかなと思う次第であります。
2010年9月2日木曜日
Can I believe the number?
残暑ならず酷暑。夏が終わる気配がまだまだ見えてこない9月の初旬、皆様秋バテしておりませんでしょうか?僕はもうバテバテ。朝、駅までの道のりを歩いている間に、汗をびっしょりかき、そのまま冷房の効いた車両に乗り込み、汗が冷えると同時に体も冷え、あっという間に体調不良。まぁこんな感じですね…なれちゃうとどうってことなくなるから不思議です。体は資本、普段より厳しい環境下に己のみを置いて鍛えておかねばいけませぬ…いや、まぁ僕の場合は間違った鍛え方なんですけど。
さて、週に3回ほど溜池~代官山間を闊歩する生活を1ヶ月続け、体脂肪率が一桁に戻った自称異人えびすが紹介するのはこちら。
しばしばネットのトピックス欄に「前年比30%上昇。景気回復基調へ」「前年比30%下降。二番底視野に」といったヘッドラインを目にする。今日はこういった「ヘッドラインの数字」の裏側・本質を少し検証してみようと思う。以下に記載する私の脳内妄想語録を参考に進めよう。
かつての僕の研究室の後輩が、景気低迷・景気回復といったトピックス欄を目にして「景気は大分戻ってきているみたいですね。自動車販売が10%も回復したそうですよ」といったようなことを私に述べてきた。私は「おい、まて、その数字は本当に回復を意味するものなのかな?」
直感的にではあったが、様々な指標を考えても景気は上向いているようには感じ取れなかった。しかし、数字としては「プラスの結果」が出ているわけだ。ふむ、なぜだろうか?・・・私は時系列を追って、数字の意味する所を探ってみた。
・・・2007年11月、世界経済は絶好調であり、新車販売台数もぐんぐん伸びていた。トヨオタ自動車はこの11月だけで、全世界でおよそ100万台の売り上げを記録した。それから丁度一年後、サ・ラリーマン証券の破綻に始まる金融危機の煽りを受け、2008年11月の新車販売台数は前年比30%減となってしまった。そして一年後の2009年11月、政府の自動車購入に対する補助金制度の功が奏し、前年比40%増の売り上げを記録した。・・・
さて、ここからわかることはなんだろうか?実際の売り上げ台数ではなく、なぜパーセンテージを使って説明しているのだろうか?実際の売り上げ台数で上記の文を表現すると次のようになる。
・・・2007年11月、世界経済は絶好調であり、新車販売台数もぐんぐん伸びていた。トヨオタ自動車はこの11月だけで、全世界でおよそ100万台の売り上げを記録した。それから丁度一年後、サ・ラリーマン証券の破綻に始まる金融危機の煽りを受け、2008年11月の新車販売台数は70万台となってしまった。そして一年後の2009年11月、政府の「自動車購入に対する補助金制度(一年間)」の功が奏し、98万台の売り上げを記録した。・・・
一見、2008年度の前年比30%減のあとに、2009年度に前年比40%増となっているため、数値としては2007年度よりも販売台数が伸びているように錯覚してしまう。しかし、実際は2007年度よりも2%減少している。一例として、上記では「40%の回復と」したが、仮にこれが「10%の回復」だったらどうだろうか?販売台数は77万台となり、2007年比で23%の下落であり、到底景気が回復したということはできない。まして、そこに補助金制度が割り込んできたら尚更のことだ。
ここで、補助金制度についても少し考えておく必要があろう。まず第一に、補助金制度が「一時的な救済措置」であることを忘れてはいけない。一時的であるがゆえに、多くの国民がそれを利用しようと自動車の購入に走るわけであるが、そうなると何が起こるだろうか?
自動車とはそもそも寿命の長い商品である。昨今の高品質車であれば15年は買い替える必要は無いだろう。さて、この点を鑑みたときに、補助金制度はどんな影響を及ぼすだろうか?お分かりの通り、一時的な需要の集中とその後に需要の極端な減少を引き起こすことになる。なぜかって?皆その補助金申請が有効な期間に購入に走り、期間が過ぎてしまうと、途端に新車購入意欲は下がるからだ。「新車購入前年比40%減少」レベルの販売落ち込みも十分に起こりうる数字だと私は考える。もちろん、補助金制度施行の制限期間内に、景気が極端なリバウンドを果たすことができれば、話は違ってくるのかもしれないが。
※ふむ。結構重要なことなんですよね、この考え方。普通に販売台数で出せばいいものをわざわざ前年比率で出してくるから惑わされちゃう。メディアは困ったものです。また、国の政策もしっかりと頭に入れておかなければいけません。タイムラインを意識し、何時から何時までの政策なのか…それに伴う販売量の減少を企業側はどこまで想定しているのか。そこまで考えをめぐらせたいものです。今回紹介したように、一つの指標をとっても、それを他の数字で表現すると、当の情報に対する印象がガラッと変わります。一歩踏み込んで経済ニュースを見る癖をつけると、世界観が広がるのではないでしょうか?もっとも、周囲からは「異人」扱いされること請け合いですけれど。え?僕だけ?
さて、週に3回ほど溜池~代官山間を闊歩する生活を1ヶ月続け、体脂肪率が一桁に戻った自称異人えびすが紹介するのはこちら。
「市場の数字に騙される?」
しばしばネットのトピックス欄に「前年比30%上昇。景気回復基調へ」「前年比30%下降。二番底視野に」といったヘッドラインを目にする。今日はこういった「ヘッドラインの数字」の裏側・本質を少し検証してみようと思う。以下に記載する私の脳内妄想語録を参考に進めよう。
かつての僕の研究室の後輩が、景気低迷・景気回復といったトピックス欄を目にして「景気は大分戻ってきているみたいですね。自動車販売が10%も回復したそうですよ」といったようなことを私に述べてきた。私は「おい、まて、その数字は本当に回復を意味するものなのかな?」
直感的にではあったが、様々な指標を考えても景気は上向いているようには感じ取れなかった。しかし、数字としては「プラスの結果」が出ているわけだ。ふむ、なぜだろうか?・・・私は時系列を追って、数字の意味する所を探ってみた。
・・・2007年11月、世界経済は絶好調であり、新車販売台数もぐんぐん伸びていた。トヨオタ自動車はこの11月だけで、全世界でおよそ100万台の売り上げを記録した。それから丁度一年後、サ・ラリーマン証券の破綻に始まる金融危機の煽りを受け、2008年11月の新車販売台数は前年比30%減となってしまった。そして一年後の2009年11月、政府の自動車購入に対する補助金制度の功が奏し、前年比40%増の売り上げを記録した。・・・
さて、ここからわかることはなんだろうか?実際の売り上げ台数ではなく、なぜパーセンテージを使って説明しているのだろうか?実際の売り上げ台数で上記の文を表現すると次のようになる。
・・・2007年11月、世界経済は絶好調であり、新車販売台数もぐんぐん伸びていた。トヨオタ自動車はこの11月だけで、全世界でおよそ100万台の売り上げを記録した。それから丁度一年後、サ・ラリーマン証券の破綻に始まる金融危機の煽りを受け、2008年11月の新車販売台数は70万台となってしまった。そして一年後の2009年11月、政府の「自動車購入に対する補助金制度(一年間)」の功が奏し、98万台の売り上げを記録した。・・・
一見、2008年度の前年比30%減のあとに、2009年度に前年比40%増となっているため、数値としては2007年度よりも販売台数が伸びているように錯覚してしまう。しかし、実際は2007年度よりも2%減少している。一例として、上記では「40%の回復と」したが、仮にこれが「10%の回復」だったらどうだろうか?販売台数は77万台となり、2007年比で23%の下落であり、到底景気が回復したということはできない。まして、そこに補助金制度が割り込んできたら尚更のことだ。
ここで、補助金制度についても少し考えておく必要があろう。まず第一に、補助金制度が「一時的な救済措置」であることを忘れてはいけない。一時的であるがゆえに、多くの国民がそれを利用しようと自動車の購入に走るわけであるが、そうなると何が起こるだろうか?
自動車とはそもそも寿命の長い商品である。昨今の高品質車であれば15年は買い替える必要は無いだろう。さて、この点を鑑みたときに、補助金制度はどんな影響を及ぼすだろうか?お分かりの通り、一時的な需要の集中とその後に需要の極端な減少を引き起こすことになる。なぜかって?皆その補助金申請が有効な期間に購入に走り、期間が過ぎてしまうと、途端に新車購入意欲は下がるからだ。「新車購入前年比40%減少」レベルの販売落ち込みも十分に起こりうる数字だと私は考える。もちろん、補助金制度施行の制限期間内に、景気が極端なリバウンドを果たすことができれば、話は違ってくるのかもしれないが。
※ふむ。結構重要なことなんですよね、この考え方。普通に販売台数で出せばいいものをわざわざ前年比率で出してくるから惑わされちゃう。メディアは困ったものです。また、国の政策もしっかりと頭に入れておかなければいけません。タイムラインを意識し、何時から何時までの政策なのか…それに伴う販売量の減少を企業側はどこまで想定しているのか。そこまで考えをめぐらせたいものです。今回紹介したように、一つの指標をとっても、それを他の数字で表現すると、当の情報に対する印象がガラッと変わります。一歩踏み込んで経済ニュースを見る癖をつけると、世界観が広がるのではないでしょうか?もっとも、周囲からは「異人」扱いされること請け合いですけれど。え?僕だけ?
2010年9月1日水曜日
Even if you are belonged to NPO...
サンデル熱は増すばかり?先日、恵比寿の有隣堂にいったら、哲学コーナーに「ジョン・ロールズ」のコーナーが出来ておりました。いや、びっくり。本当に。ロールズの哲学を理解するには、アリストテレス・カント・ミル・ベンサムの哲学がベースにあるので…つまりは、彼らの哲学を理解してからロールズに取り掛かるべきであり…カントの哲学を理解するのは、相当大変なことであり…うーん、哲学を専攻しているお方から叱りのお言葉があっちこっちから出てきそうであります。
さて、自身大学院時代から哲学書を愛読しているにもかかわらず、世間からは巷のサンデルブームに便乗しているように見られてしまい、ちょこっと悲しい気分になっちゃったえびすが紹介する本はこちら。
渋沢栄一といえば、日本資本主義社会の祖という像が思い浮かぶことだろう。現在の日本企業の多くは、渋沢栄一無しには存在し得なかったと言われている、たしかに、彼が創立に関わった企業のうち、現在大企業となっている企業はいくつもある。東京ガス、キリンビール、東京証券取引所etc…数え上げればきりが無い。
渋沢の資本主義に対する考え方は、今の経済社会に一般的な「資本本意」のそれと大きく異なる。彼が説いた資本主義の根幹を語るに、「人間性」は外すことのできない重要な要素である。ここでいうのは「人間性」というのは、論語で言うところの「仁・得・礼・律」にあたると思っていただければよい。資本主義に孔子様の考えを適用しようとは何事か!と叱咤を受けるかもしれないが、彼の考える資本主義は「資本」というより「成長」と言い換えたほうがしっくりくる点、論語に源泉を見るのは間違いではないだろうと私は思う。渋沢が思い馳せる「人間性」、それは「人を思い、他人を思い、彼らの幸せのためにそして、自身の幸せのために一所懸命はたらく」ということだ。
お金を稼ぐことに世の中の多くの人が否定的な意見を述べているのは昔も今も変わらない。至る所から「金持ちは税金を高くしろ!みんな平等にするべきだ!」という声も聞こえる。だが、みんなが平等な賃金しか獲得できなくなった社会はどうなるだろうか?仕事によって多少のインセンティブをつけるにせよ、「進歩すること」に対するモチベーションが低下してしまう懸念が湧く。モチベーションの低下がもたらすもの、それは「人間の進歩の停止=文明の進化の停止」である。人間を人間たらしめている要素がすっぽり抜け落ち、ただの機械に成り下がりかねないのは想像に易いことだ。
しかし、そもそも論として文明はこれ以上進歩する必要があるのだろうか?この点も考慮しておくべきだ。渋沢の時代からおよそ150年が経過した現在、技術の進歩は当時と比べ物にならないレベルにあるのはよくご存知の通りである。しかし、それと相反するように、我われの人間の進歩は止まってしまったように思われてならない。いや、退化してしまったといっても過言ではないだろう。家族を思うこと、他人を助けること、社会を育てることに対する意識が、今の人たちの間で低下しているのは間違いないように思う。これを鑑みるに、文明は進歩を止め、今一度他人を思うことを思い出さなければいけないとも考えられる。はたして、どちらのポジションをとるべきであるのだろうか?
これまでの資本主義の形は「個人の利益」に走るものであった。その結果、個人を越えた「大きな利益」に対しする意識が低下してしまった。この反動か、リーマンショックの影響か、ここ2年の間で多くの人が自己資本本位の発展に対して疑問を抱き、新しい資本主義の形を模索しているように思う。まだ、明確な形にはなっていないが、新しい資本主義の形という花を咲かせる種は、日本全国・世界各国に蒔かれつつある。数年後、この種が大きく成長し、新しい資本主義の世界(資本主義ではないかもしれないが)が花開くこと、こころから願う次第である。
※渋沢栄一の考えは、何も利益主義である株式会社だけでなく、NPO団体のリーダーの方々にも是非参考にして欲しく思います。とりわけ、利益を得てそれを社会に還元するということは、NPOの経営において非常に重要な核となると思うからであります。なぜかって?そもそも行政からの援助は国民の税金からなっているのであり、それはつまるところ一般消費者からお金を頂いていることに繋がるからです。運営資金を獲得するに当たり、全てを寄付・助成に頼っていいものでしょうか?「持続的な活動」が出来るかどうかを考えると、ビジネスモデルをそこに組み込む必要があると、僕は考えるのですが…その点、フローレンスとTable For Twoの経営方針に、未来のNPOのありかたの秘訣が隠されているように思います。
登録:
投稿 (Atom)








