今日は大学の研究室同期の結婚式がありました。はや26歳、この年にもなると、まわりの同僚・研究室仲間もどんどん所帯を持ち始めております…うむ、あせるぜヨ。花婿からの新しい門出を迎えるにあたっての決意の言葉、花嫁からのご両親に対するこれまで育ててくれたことへの感謝の言葉…選ぶ言葉こそ人それぞれで違いますが、そこに込める思いは微笑ましく、立派なものであります。綺麗でなく無骨であっても、思いがこもっていると、ジーンとくる、そんな言葉を紡げるようになりたいものです。
さて、婚活なるものが何故流行るのかと学生持代は疑問に思っていたけれど、最近その理由が腑に落ちつつあることを実感している、か弱き心の持ち主えびすが紹介する本はこちら。
まず筆者が述べる「ガキ」の定義について記しておこう。ガキとは「話が通じない」「聞く力が無い」「集中力が無い」「理不尽に怒り出す」といった要素を備え持つ人間だ。総じてそうした人たちは年少者であることが多く、彼らを「ガキ」と言う。
私自身、昔は周りの人たちから「クソガキ」とよく言われたものだ。「クソ」の接頭語まで着いているのだから相当なものであったのだろう。ただ、当時の自分を振り返ると、まさに上に挙げた要素を満たしていること、痛感するばかりである。
筆者は、このガキが広く大人の世界に延長しているのではないか?と疑問を投げかける。親が子どもに投影する理想像、自分の子どもを過保護に甘やかす両親、自分の非を全く認めようとしない社会人etc 昨今の日本では、日常の至る所に大人の「ガキ」が溢れていることに気付く…ガキのまま大人になれていないのだ。つまるところ、「大人のガキ」である。ふむ、想像しただけで悪寒が走る。
俗に言うところのモンスターペアレント。彼らを「大人のガキ」と考えることは容易いところであろう。理不尽に我が子だけを甘やかす。誰かに起こられようものならば、理由も聞かずに誹謗中傷をもって子どもの保護にまわる。まぁよく報道されているのでご存知のことと思う。ただ、私はもう少しこの「大人のガキ」のフレームをひろげてもいいのではないかと思う。というのも、その規準を戦後間もないころに置く限りにおいてであるが。便利な社会に慣れ、資本を元に意の望むような生活を手に入れようと我が儘な生活を送る我われ大人は、誰しも「一億総ガキ社会」の構成員といっても過言ではなかろう。
では、何がこの「大人のガキ」を量産してしまったのだろうか?筆者はその原因を「希望を抱かせすぎた社会」にあると述べる。厳しい現実にぶち当たり、自分の理想像が崩れた時に「あぁ、自分はあまっちょろかったなぁ」と自分を諫めることが出来る人は「大人」になることが出来る。しかし、「いや、こんなはずは無い。おれはまだこんな程度で終わるはずは無い」と、何の努力もせずに理想にしがみつく人がいる。「俺がうまくいかなかったのは運が悪かったからだ」という希望論を振りかざして、いつまでも自分の「敗北の姿」を見ようとしない…。そして、社会風潮とメディアによる報道・特集がそれを擁護する…。
総ガキ社会になってしまった今、大人である我われは何をすべきであるのだろうか?本書には、その問いに対する明確な答えは述べられていない。およそ、大人になってしまった人たちを「改宗」することは不可能だと考えているのだろうか。もっとも、私自身も大人の意識を変革させる難しさは重々承知している。
※久しぶりに面白い本に出会いました。一億総ガキというのは言いすぎではないか?と最初は思っていたのですが、周囲の人間、僕自身を一歩距離を置いた位置から俯瞰してみると…あぁ、確かに一億総ガキ社会だと納得してしまいました。まぁ、見聞による戦後時代の人々の生活と現代人の生活を比較しての話しですけれど。生活スタイルが技術・経済の進歩に伴い便利になるにつれ、それがあたかも普通であるかのように考えてしまう人間の習性。この習性を変えるのは…不可能ですよね、はい。なんで、「意識的に」そういった生活スタイルの進歩を「感謝」することが大切なんじゃないかなと思う次第であります。
