2010年9月26日日曜日

定まること無き「死」についての観想

大学院時代に親しくしていただいた先輩が天に召されました。寂しさと残念さとが立ちこめてくる秋の夜長であります。流石にこの歳(26歳)まで来ると、自身の周りの人が亡くなることもしばしば。各々がみな、生を謳歌して逝かれたならばそれは結構なことであると思いますが、流石に若く健康な身体をお持ちの方が不慮の事故で亡くなる場合は、そうではないだろうと思われ…「運命」の悪戯とわりきっても、やりきれない思いが募ります。

さて、今日は「人間の死」について少し考えてみたく。

少し前のブログにも書きましたが、人間は生まれた瞬間から死に向かっていると言います。オギャーと泣き声を上げた瞬間に、この世で初めて命の源「空気」を吸うんですね。その後、家族の下ですくすくと育ち、成人を迎えて、愛する人と結婚して子どもを授かり、その子が一人前になるまで責任を持って育て上げる。この一連の「プロセス」を経て、「人間の命の連鎖」が現在まで続いてきているわけであります。一万年前以上からそのプロセスが続いていることを想像すると…それはそれは凄いことでありまして…終わり亡き生命のダンスが現在まで続いているわけです。

人間は何を目的として生まれてくるのでしょうか?しばしば耳にする言葉ですよね。自分の人生をふと振り返ったときに、「あれ、結局私って何がしたかったんだっけ?」という小さな疑問を抱く人、そこからもう一段深く降りていって「そもそもこの世に生を受けるってどういうこと?」といった哲学にも似た問答を心に抱く人もいることでしょう。うーん、うーんと唸って、頭痛が起こるくらいに考えて、それでも明確な答えは見えてこない…そんな問いですよね。
僕もいろいろ考えて悩みました。特に小学校の時でしょうか?おじいさんの死を経験したときに、「人が生きるということ」について、「自身の父・母の死」について内省した記憶があります。いやはや、オ恥ずかしながら枕を濡らしてしまったものです。当時の記憶を辿っても、この時に抱いた内省ほど鮮明に刻まれている記憶は無く、それほど僕の中では「先の生に大きくかかわる大事なこと」であったのだと思います。

「死」一つをとっても、それに対する考えかたは色々です。例えば長寿を全うして死を迎える場面にあたり、「もうこの世に未練はない」と潔く死を迎えることができる人もいれば、「死にたくない、怖い」と迫り来る死を受け入れられない人もいます。不思議ですよね、どんな人生を送ってきたかで死に対する考え方がこれほどまでに変わるのですから。これは人間を除く動物にあってはなかなか得ることができないことでありましょう。
運命として受け入れる…言葉としてはかっこよく響くものでありますが、実際のところ、それをなかなか受け入れることは難しい。とりわけ、近しい人が運わるく不遇に陥った際にはなかなか受け入れられない…特に後に残された人間にあって、顕著にみられる傾向があるように思います。とかくいう僕もその一人なんですけれど。なんでそうなってしまうかというと…うーん、言葉に詰まるのですが。

死に関しての慰めには、キリスト教のや仏教の輪廻転生などの「お助け言葉」がありますね。今生で経験した罪は来世で報われるとか、新しい命が又始まるのだから悲観することはないとか。言葉では理解できるんですよ、確かにそうだろうなぁと。でもね、理解を超えたところで「何かがひっかかる」、「疑問がどうしてもぬぐえない」んですね。僕だけなのかもしれませんけれど。
かの白洲次郎は「葬式はいらん。墓には”俺の墓”とだけ記してくれ」と遺言で語ったとか。彼の言葉を察するに、彼は「死」に対して自身の内で「明確な思い・考え」を確立することが出来たのだと思います。僕も、その境地に至りたい思いで、色々勉強・経験しているのですが…いかんせん、その効果は薄いようで…その境地に至るにはどうすればいいんでしょうか?まぁ、「答え」など転がってるはずもないのは重々承知なんですけれど…収拾がつかない終わり方になりそうで、大変申し訳ありませんが、死については僕自身、確固とした思想をもてないでいます。言葉尻ではかっこよく語れたとしても、いざ直面してみると「あれ」と思わされることが多々ありまして。頭と心が上手く連動しない…借り物の哲学・思想では太刀打ちできないのが「死」との直面でありまして。あくまで僕の内でのお話なんですが・・・ふむ、なんとも厄介な代物であります。