ブログの本数も100本を越えて、今年の目標を一つ達成したことに満足感を覚えると共に、虚無感に陥るんじゃないかと心配しておりましたが、そんなことは全くなく、一層の更新に励まねばと思い至っている次第であります。ちゅーわけで、表題にある「100のリンク」を「1000のリンク」に変更いたしました。一年間で100本の評を重ねれば、10年間で1000本…そのころには僕も36歳、いけてるオヤジになっている自分を想像して、日々の人生を存分に楽しみたいと思います。
さて、思えばはや26歳になってしまったんだなぁと、夜月を眺めながら感傷の思いに浸っている、周りから見ると、危ないおっさんえびすが紹介する一冊はこちら。
生物はどのようにして今の形態・生活体系を手にしたのか?大きく二つの論争が起こっている。一つ目はダーウィンの進化論の延長線上にあると考えられる、ドーキンス提唱の「遺伝子淘汰説」。
もう一つが、全体がまず存在して、その後の環境に適応不可な生物が淘汰されていった考える、グールドの「生物種淘汰説」である。
まずはドーキンスの生物進化に対する考え方を紹介しよう。ドーキンスは、生物は遺伝子レベルでの淘汰によって進化してきたという説をとる。人間が持つ遺伝子を車のポルシェ・カレラ911とトヨタのプリウスを用いて例えるならば、より速度が速いものが生き残るとする環境にあっては前者の遺伝子が、より燃費がいいものが生き残るとする環境にあっては後者の遺伝子が残ることとなる。
一方のグールドの進化論はどういったものか?グールドは、生物の進化というものは存在せず、偶発性による淘汰によって、現在の生物が結果として生き残ったものと考える。隕石の衝突により、地球の気温がマイナス5度になったとして、自分で体温を調節することが出来る生物は生き延びることが出来たが、そうでない生物は絶滅(淘汰)してしまったという例を考えていただければいい。偶然の事件によって、どの生物が覇権を握るのかが変わってくるということだ。
ドーキンスの淘汰とグールドの淘汰の違いはどこにあるのか?ドーキンスのそれは、同じ群同士の中で起こる淘汰(上の例でいうと「車」という群の中での淘汰)であり、グールドのそれは、種レベルでおこる淘汰(恐竜という種と人間という種)である。欧州の学者は、おうおうにして論壇の舞台で「雌雄を決すこと」にこだわるため、互いの論が正等であることを立証しようと熾烈な争いがおこっなわれたとのことだ。もっとも、生物進化学の世界から距離を置いた私の目には、ドーキンスの進化論は「小さなスケールでの淘汰」、グールドの進化論は「大きなスケールでの淘汰」として映り、いささか舞台が異なるように感じざるを得ないわけであるが。
生物の進化論に関しては多くの人が興味を抱いている学問だろうと思う。また、その学問のフィールドは広く枝分かれしているのはよく知られたところだ。本著の主役である二人に関しても、ドーキンスは動物行動学者である一方、グールドは古生物学者であり、各々の論における武装の仕方は大きく異なる。他にも、遺伝子学や細胞学、考古学といった分野も進化論のフィールドに大きく関係していることだろう。学問としての起源はダーウィンにまで遡るのだが、依然として生物の進化論について決定的な論は確立されていないようである。しかし、科学の進歩と共に、進化の過程の全貌は一枚一枚はがれてきているのは事実だ。ただ、この進化はあくまでも「過去の生物の進化」についてであり、我われ人間の今後の進化については全てを当てはめることは出来ないだろう。次世代の人間は、地球においてどのようなポジションを担うのか?技術革新に邁進するあまり、猿の惑星のような事態を引き起こしてしまうことがないことを願うばかりである。
※どの世界でも、良きライバルの存在によって研究内容が一層造詣深くなるのは共通しているように感じます。いい意味での「批判」を繰り返すことは、何事においても重要なことです。相手の主張を尊敬した上で、論として齟齬があるのではないかと思う所を自身の論を持って判する、それが「批判」です。日本で「批判」というと、ネガティブな印象しか抱かないように思われますが、本来の意味での「批判」とは相手のためを思ってするものであり、双方に有益な結果をもたらすものです。翻って日本社会を見渡すと、まだまだ誹謗中傷にちかい「批判」精神が残っているようです…僕の偏見かもしれませんが。今後は上述に記したような「批判」精神が広まるといいですねぇ。グローバル化を鑑みても、正当な「批判」精神を鍛えることは一層重要となるに違いないと思います。
