2010年10月28日木曜日

Is time really equal between human beings?

今回は最近の思うことを少しつらつら書き連ねてみました。

Picture of my thought
しばしばテラス席に座って通り行く人たちを観察するのが癖になってるのですが、この観察が結構面白いんですねぇ。コンクリートの出っ張りに躓く動作、ビルの隙間から吹いてくる風に流れる髪の毛、何かをカメラに収めようと頑張っている青年etc。僕の視覚が把握しうる世界のうちですら、多様な事象が起こっている。もしも、僕の頭が視覚を超えいでて世界中の事象を把握することができるならば、頭の中にはどういった世界がたち現れるのでしょう。ちょこっと想像してみましょうか…とはいっても、僕には全く思い浮かべられないのですが。

The goodness and badness of five senses
長年生きてきた五感の経験量のおかげもあって、人間が事象を把握するにおいては必ず一つの面しか感じ取れない。他の面が現れるとしても、それは必ず先の面とは時間的な隔たりを持った状態においてであり、先の事象と全く同じであると言う保証はどこにも無い。コンマ一秒以下の世界でも、我われの身体を流れる電子は勿論のこと、事象に含まれる物・ヒト・空気の電子状態も変化しているはずです。なんで、視覚・聴覚・触覚・嗅覚・味覚なるものはすべてとして「同じ感覚」を得るということは極めて確率的に低い…というのも、電子は電子雲の状態で存在しているわけであり(霧吹きのミストを丸いケースにおさめたのが高校で習う電子です)、確率的にその挙動・ポジションが刻々と変化するため、一に…。ちょっと小難しくなっちゃいました。前置きが長くなりましたが、今日は時間について少し考えてみたく。

Time could not be arrested with one face
さて、ある哲学者の言葉をふと思い出しました。たしかこんなくだり…「観察することからすべてが始まる。事象に対して疑問を抱くのも、解決策を閃くのも、観察をもってしてである。みよ、過去の哲学者の観察力たるや、その凄さを」…誰だったか忘れてしまいましたが、いい言葉だなぁと思ったのでしょう。僕の脳にしっかりと刻みこまれております(あくまでその考え方だけですが)。しばしば出てきた観察、これが時間と密接な関係を持っております。観察においては、我われは意識をある程度長い時間維持した状態に持っていきますね。で、あまりに集中力が凄いと時を忘れてしまうといったことがしばしば起こる…その「時の経過」は私が経験するそれとは大きく異なるものであり、なかなかに不思議なものであります。ほんの少し人間が意識の在りかたを変えるだけで、時の経過への感じ方が大きく変わる…そこはまさにパラレルワールドとも考えられる。自分の意識だけが、少し時間軸が異なるステージに移行したと。

Are we spending the same time in one world ?
現実の世界では「一応」我われは同じ時間を共有していることになっております。が、それはあくまでも世界が定めた「総意」においてであり、時間の本質を捉えたものではありません。上に挙げた集中力がもの凄い状態がずーッと続いている人間がいたとして、彼の感じる時間は集中力が無い状態のそれとは全くの別物であります。さて、ここで不思議な疑問が沸いてくるのですね・・・それは、集中した時間=感覚的には短い時間ということは、その間に僕が知覚する経験量なるものは減じられているのではないか?しかし、実際にはその逆のような事態、すなわち経験量が増えているように感じると。ストックとして我われの能が貯えうる情報量はどれほどかという点も興味深いのですが、また、どの程度までを我われの能は情報として捉えるのか、そしてそれを捉えるにあたってどのような過程を踏んでいるのか…。考えるほどに思考が散らばり、散らばった思考が新しい型を形づくる…が、再びそれは散らばり、一向に形にならない…「時間」、この不思議なる魔物は僕を魅了してなりません。

※暇さ和えあれば色々と思考をめぐらせて考えているのですが…闇夜の雲の隙間に隠れる月のごとく、ちらりちらりと僕の思考は誘惑させられているようであります…。あと50年くらいかけて、自分なりの答えを「形」に残してみたいものであります。

2010年10月25日月曜日

Beauty without wisdom is nothing.

しばしば代官山駅を利用するのですが、そこにある看板が結構良い味を出しているんですねぇ。無広告の看板なんですが、誰かが落書きしたのを消した後にのこった「もごもご」とした「絵」が、何やら幻想的な表情を醸し出しているわけであります。不思議なもので、意図的に描いたものではないのに、ふと眼を留めてしまう、惹かれてしまうモノと出会う、その経験は美術館に足を運ぶといった目的意識が無いところで得られる感動でありますゆえ、不思議と時間が経過しても尾を引かれる思いがぬぐえないんですねぇ…過去最高に惹きつけられたのは、どこのだれぞやが書いたのかわからないバイトのシフト表の裏に書かれた「走り線模様」。あの美しさを越える「線」に未だ出会えずにいます。

さて、へんてこな感性を持ち合わせているがゆえに、へんてこなことばかり思いつく、へんてこな人生を送ることを楽しんでいる、へんてこ男えびすが紹介する一冊はこちら。

商品の詳細

ヴェイユの思想を理解するのは骨が折れる。「まぁこの手の書き方はニーチェの系譜」かと昔は考えていたのだが、今読み直して、当時の自分がいかに浅はかな(勿論、今も浅はかではあるのだが)読み方をしていたかを実感させられた。私自身への戒めの胃として、今回は本書の一遍を紹介し、それについて少し掘り下げたところまで思考を深めたく思う。少々長いが本書P140~P141に記載されている文を以下に載せよう。
知識としての、苦しみとしての楽しみ。蛇はアダムとエバに、知ることを得させようとした。セイレーンたちは、オデュッセウスに知識を与えた。こういう物語はたましいが快楽の内に知識を求めようとして自分を滅ぼすことを教えている。それは、なぜか。快楽はおそらく、その中に知識を求めることさえしなければ、罪の無いものであろう。知識を求めることが許されているのは、ただ苦しみだけである。 
~重力と恩寵 P140,141 出版:ちくま学芸文庫~
アダムもエバも、蛇にそそのかされたとはいえ、その誘惑に負け神からの約束を破って、自らの選択で未来を切り開いた。禁止ごとに手を出すことはまさに知識の探求の好意そのものだ。しかし、その結果、彼らは楽園を追放され、苦しみの世界に生きざるを得なくなってしまった。では、オデュッセウスにあってはどうか?彼は、セイレーンの声を聞く誘惑と同時に自身の命を守る術を考え付いた。その術とは部下達には耳栓をさせて、自分だけ耳栓をしないというものであった。声を聴いて、そちらのほうへ行きたいという快楽に抗うことは大きな苦痛を伴ったことであろう。しかし、その苦痛無しに快楽は手に入れることはできない。死んでしまっては、快楽も何もなくなってしまうのは自明だ。しこうして、ヴェイユは二つの例から「知識を求めることが許されているのは、ただ苦しみだけ」だと述べる。

知識の獲得は、苦しみの中でのみ可能だ…なんともヴェイユらしい考えである。ヴェイユはまた、善についても大多数の悪の中、それがあってこそ獲得できるものだと考えた。悲観の中・罪の中にこそ、善・幸福が転がっているのだ。彼女が思考するのはあくまでも「善」であり、「幸福」であり、「知識」である。苦しみはそれらを獲得するための手段に過ぎない点は留意されたい。

ヴェイユが残した言葉の数々。断片であるゆえの魅力…それらは一遍の「詩」に匹敵するものであろう。美しさの中に垣間見る苦悩・皮肉・楽観etc。本書を通じて感じたこと、それは、ヴェイユの真髄を味わいうるためには、私が人間として「幼すぎる」ということである。

※いやはや、ヴェイユの言葉は珠玉であります。巷では「ニーチェの言葉」なる書籍が売れているようですが、僕としてはヴェイユのほうが好きですね。ニーチェのようなシニシズム全快で物事を考えるのはどうも納得できぬものでありまして…。あぁ、昔はニーチェ通だった自分を振り返ると、なんだか寂しいような嬉しいような複雑な気持ちです。あ、学生の皆様には是非読まれることをお勧めいたします。社会人になる前に、思考を深める訓練をするという点でも、本書は有益でありましょう。

2010年10月21日木曜日

New Comer !

さて、また新しいブログをたち上げます。いよいよ海外の新聞記事・雑誌記事を紹介してまいります。
新聞については…New York times, Washington Post, News Week, BBC, Japan Times あたりから
雑誌については…Mckinsey-Quarterly, Harvard Business Review, Wired.com あたりから。
政治・経済、教育、文化・芸術、科学について一週間に5本くらい紹介していきたく思います。目標は年間で250本。これを来年の抱負の一つにしたく。うむ、精進あれ自分。

さて、今のブログを上回る頻度で更新するのは結構辛いところもあるんだろうなぁと思いつつ、その辛さに恍惚の思いを馳せる一風ならず三風くらい変わったオトコ、えびすが紹介する一冊はこちら。

商品の詳細

しばしばメディアでも取り上げられている通り、中国の経済成長には目を見張るどころか脅威を感じるのが本音だ。二桁で規模で経済成長する国が隣国にいるということ、その恩恵は計り知れないものであると同時に、将来への不安は日を追って増すばかりである。

脅威の経済成長の中身を詳細なデータを持って分析した本書は、新書の域を越えているといっても過言ではないかもしれない。将来の中国ビジネスがどういった方向性をとるのか、いつ経済成長がピークを迎えるのか、どういった市場の成長が見込めそうかについても、データがあるので推測をたてやすく、一つのケーススタディの材料にしてもいいかもしれない。

興味深いのは「人口オーナス」についての分析だ。人口の減少がもたらすデフレ効果については、先の「デフレの正体」で紹介したとおりだが、同じ様に中国においても人口ピークを越えると、経済成長の伸びが鈍り、やがては日本と同じ様な問題が露出してくると考えられる。何せ、一人っ子政策を進めてきた国である。一人っ子政策が始まったのが1979年、ちょうど30年が経過したことになる。人口構成としてはキノコ型に40~60歳の世代がおおいこととなる。ここで懸念されるのが、経済成長に伴う長寿化と生産年齢人口の減少だ。この二つが引き合わさって起こる問題については言うまでも無い。わが国が先をとって直面している問題、まさにそれである。

また、一人っ子政策により、親に甘やかされて育った我が儘な層を「皇帝(女帝)」と呼ぶらしい。自分勝手で他人への配慮が欠ける層だ。この皇帝が成人に達し、広く社会にはびこってしまった中国では興味部会現象が起きている。それは、日本でも話題になっている「離婚コンサルタント」や「婚活コンサルタント」なる職が中国本土で生まれてきていることだ。背景として、皇帝は自分の思い通りに全てをコントロールしようとするし、女帝は自分に見合う男は所得・容姿で周りの男よりも優れていなければ行けないという思いが強いことが影響しているのだろうと考えられる。ちなみに、別途調査したところ、中国の婚姻届件数に対する離婚届件数の割合は20%程度であり、日本のそれ(30%)よりは低い数値となっている。日本の離婚率が30%近いのは意外であり、3組に1組は離婚にいたるとの統計結果だ。ふむ、なんとも興味深いデータである。

上記に上げた内容のほかにも、「地下経済」「日中関係の今後」「外貨準備金とその戦略」「男性の出生率が高い理由」など示唆に富む分析が多数繰り広げられており、一読に値する内容となっていること間違いないだろう。堅さ、複雑さを抑えた本書は高校生でも十分に理解できることであろう。

※本書を通読することで、中国経済の今後に関し、どの市場がどれほどの飽和状態にあるのか、どういった市場が今後現れてくるのかを考えるいい機会を与えてくれたように思います。尖閣沖の衝突事故での中国の対応の取り方など、中国当局内でもいろいろ問題が起こっているように思います。政府としては問題解決に踏み切る政策を採りたいんだがそれを抑えるタカ派がいると。共産党の中での派閥争いは、日本のそれ以上なのかもしれません。あな恐ろしや。

2010年10月19日火曜日

An advertise of work-shop (a false information)

Spending deep autumn with sitting on a bench in Tokyo-Ebisu Garden, I sometimes plunge my consideration into making a new work shop which I am thinking of holding next March. The number of work-shops I have constructed reaches 12 and each one differs in the core point but have a mutual relationships among them. Today I would like to introduce the one of them to know how much of you audience have an interest on it. After knowing and analyzing the response of you guests, I would modify the contents and main stream of the work-shop.

Here, This is the work-shop which I am going to be held in next March.

『Imagination work-shop』 

 Thinking of the skill needed in the field of business, academy and entrepreneur, imagination should not be missed in these fields (maybe all fields I suppose...). Today, I would like to focus on one field that is business field. After visiting a lot of companies and hearing what kinds of skills are required in the business fields, it turned out that the skill needed in common in all fields is the one to be able to imagine/create new things (strategy, value-chain, research method etc).

 So I made a work-shop the contents of it could be understandable for high-school students by extracting items from what they are using and seeing in their ordinal life that are Manga, Game, and Love hearts. The following are the contents of it.

1st  What is Imagination?
2nd What kinds of imagination are there in the business fields
3rd  With imagination, What can I do?
4th  Without imagination, What would I be?
5th  How can I train my imagination?
6th  Let's take a work-shop ~Make the words with passionate love!~
7th  What is important to create the words?
8th  Things which we must take into consideration in business.
9th  Builds the words of the item with the steps ~Imagine a most suitable words for one item~
10th  Another desired points of view in sales marketing ~from items to catch copy~

If you are interested in this work-shop, please send me a e-mail and I'll invite you to this work-shop.


いやはや、やっぱり英語はなれないですね。ちなみに応募はしないでくださいませ。表題の通り、false informationであります♪

2010年10月18日月曜日

小さな世界の中にたたずむ広大な思想

東京都心には無料のギャラリーがたくさんあります。街ごとのギャラリーを紹介する書籍まで出ているほどであります。そんなギャラリーがたむろする東京都心でも、屈指のギャラリー数を誇る街、銀座に本日は足を運んでまいりました。気温も湿度もほどよく、ギャラリーをはしごするには最高のお天気♪ただし、次のアポまで2時間弱しかなかったため、いささか急ぎ足での鑑賞となってしまいましたが、展示されてるのはどれも興味深いものばかり。とりわけ、資生堂ギャラリーの石上純也さんの作品にひどく感銘を受けましたゆえ、今回はこのギャラリー展について少しご紹介したく思います。

建築はどこまで小さく、あるいは、どこまで大きくひろがっていくのだろうか?

これでもかとぎらつく太陽。夏が終わる気配などこれっぽちも感じられない8月の終わり、インターネットの世界をぐるぐる廻っていると一報のニュースが僕の目に飛び込んできました。「建築家の石川純也氏、ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展にて金獅子賞獲得」。金獅子賞といったらグランプリ、つまり一等賞。若手建築家の海外での偉業達成は、ネガティブなニュースばかりが横行し、「なんだかなぁ」と思っていた僕の心に小さな光を差し込んでくれました。

今回、資生堂ギャラリーに石川氏が作った空間は、建築家の作品のなかでもコンセプトと位置づけられる作品です。横一列にずらーっと並べられた建築コンセプトは「この建物を現実の世界で作るのは難しいだろうなぁ」と思うものばかり。でも、あくまでコンセプトですから、それでいいんですね。現実の建築物を作るに当たって必要とされる創造力・構築力を鍛えるという点で、普通の人の想像を超えた建築をコンセプチュアルに考える訓練は、かなり重要な訓練なのではと素人ながらに思ったりします。これは建築の世界に限ることではないんですけれどね。

全56の作品のなかから、印象に残っている作品をいくつかを紹介したく思います。
~No. 11  椅子のスタディ~
針金でできた、個々に独立した椅子たちが、他の椅子と針金を解して「接触」している作品。keyコンセプトは『家族のような椅子』。家族の絆を椅子に落とし込むのですが、石川氏の考える家族は一本の針金で数脚の椅子が繋がっているというのではなく、個々の椅子は独立しつつも、相手の天板、脚、背もたれetc…といった所に結節点を持つというもの。一つの椅子が動くとして、必ずしも他の椅子が動くというわけではない…大変勉強になる作品でした。

~No. 27 天気と家 雨の降る家~
ホルンの形に似た大きな口が天空を向き、その口の中に家がたたずむ作品。なんでも、一度雨が降ると永遠に雨が降り続ける構造になっているのだとか。降り続ける雨がもたらしてくれるもの、それは「自然のメロディ」。楽器などを全く用いずとも、自然を上手く利用した空間を築けば、力技ではなく、自然とゆるりとした娯楽・癒しの場をつくることができる。…いやはや、発想の転換ほど面白いものはありません。

~No. 41 風船と美術館~
風船型のアクリルの透明な空間を、美術館の休憩スペースに持ってくる作品。休憩スペースが完全な外部空間(亜空間)であるため、頭・心・体をリセット・休憩させることができる。一つの完結した空間にしてしまうと、美術館の作品チック(休憩場所かつ作品!?)になっちゃうのではと思いました…が、風船というコンセプトは素晴らしい。美術館の中から『息吹』が送り込まれてきて風船が膨らむ…その『息吹』を送り込んでいるのは他でもない作品たちだという意図を感じ取りました。うむ、本展No.1のコンセプト。


※見て楽しい空間の遊び方の作り方、といった具合の講義を受けることができたように思います。改めて、芸術・アートの可能性は深遠なものだなぁと感じた次第であります。従来の見方を疑う、規制に縛られない、逆の方向を極める…芸術家に限らず全ての人、少し違う世界をコンセプトから考えてみたいという人がたくさん現れると、世の中にもいっそうの多様性が生まれるような気がします。
あぁ、自身も精進せねば…。

2010年10月16日土曜日

The Worlds are Suppressed by Mutual Consciousness.

金木犀の香が心地よい季節も過ぎ、一層の秋の深まりを感じる今日この頃。街を歩く人たちの服装も二週間前と大きく変わったなぁと感じている次第であります。カラフルなストールをしている学生風の青年、ベージュのカーディガンを羽織る女子高生、暖色のスーツを着たサラリーマン…四季に合わせて服装を変える文化は、着ている人はもちろんのこと周囲の人にも新しい発見や心地よさを与えてくれるものであります。まぁ、そのほとんどは輸入文化の洋服ではあるんですけれども…。

さて、秋の深まりとともに、心の寂しさもぐーっと深まり、帰宅してクノールのポタージュで一人暖まる日々を過ごす日々を語ったところ、友人に「哀れみを通り越した趣があるねぇ」といわれちょっと嬉しい気分に浸った変わり者えびすが紹介する一冊はこちら。

商品の詳細

シュルレアリスムとは日本語訳で超現実主義を指すらしい。現実に超という接頭語が付いていることから、私は当初それを「現実を細部まで精細に模しすことを第一とする主義」であると考えていた。浅はかな思考もいいところだと反省するばかりである。では、シュルレアリスムとはなんぞや?というと、それは、「過剰なまでの現実」、「日常の延長線上に現れる未知の客観的な現実」の世界に舞い至る主義と考えていただければよい。ここでは、主観の世界の延長ではない点に留意されたい。

言葉尻ではよくわからないので、具体的な例を持ってこよう。本書に収められている、シュルレアリスムの第一人者アンドレ・ブルトンの「自動筆記」をベースとした解説を、自己流に落とし込んで紹介したく思う。少し小難しいと自身でも把握しているのだが、頭の体操と思ってお読みいただければ幸いだ。

ブルトンの自動筆記作品として有名な「ナジャ」。パリでであった娼婦との交際の記録「ログ」がそこに記されているのだが、自動筆記と言う一種のトランス状態に入った状態で描かれているため、我われの意識が感得する世界を超越した内容がそこに散見している。最初にあるテーマを設定し(作品「ナジャ」ならば「パリの女性との交際」)、そのテーマに沿って自分が紙の上に書画を意識的に描いているのだが、次第にその描くスピードを上げていくと、自分の意識が描くという行為に「これを描け」というう信号が伝わる前に「何か」が紙の上に描かれることとなる。私たちがよく知るところの熱い物に触れたときの「反射」に似た行為を想像していただければ良いかと思う。自動筆記において反射が働く対象…それを「意識」ではなかろうかと私は考える。

意識に反射する行為が生み出したアウトプット…それは「目的」を持たない、方向性が定まっていないがゆえに様々な可能性を内包している。脈絡の無さ・前後関係のなさなどは当たり前で、全く理解できない「混沌とした世界」がそこには描かれているわけだ。この世界を描いた(と私は勝手に解釈しているのであるが)世界的に有名な画家、それがサルヴァドーリ・ダリである。彼の描く世界には秩序だった系譜がなく、各々のオブジェが「独立した個性」を放っていることが理解できよう。ここで、ダリの言わんとするところはこうだ…「我われが意識の下に把握している世界、それはあくまでも我われの意識が勝手に秩序立てているのではないかだろうか?」

我われが認識している世界とは所詮意識の下に秩序立てられた世界であり、そのエントロピーは極めて低く抑えられている。エントロピーが大きくならないよう、意識は多大な労力を持ってそこに「秩序」を生み出しているのだ。シュルレアリスムの作家が描く世界、それはこの労力が取り去られた世界である。そこではエントロピーは大きくならざるを得ない…自然の摂理に逆らうエネルギーはそこに存在していない。さて、このエントロピーの増大は一体何を生み出すか?…シュルレアリスムが残した功績を我われの世界に投射してみよう…なるほど、超現実世界は確かに存在したことが理解できる。

※「書」を少し深く掘り下げてようと思い至った時に手にしたのが本書。ブルトンの有名な自動筆記についてわかりやすい解説がなされていたなぁと思い出せたのは幸運でした。まだまだ記憶は鮮明に残せているようです。何かを残そうと思って書き始め、次第にヒートアップして脳裏をよぎる言葉・単語をどんどん紙(今ならタイピングですね)に書き連ねていると、不思議と我を忘れた状態でも「なんらかの文章」が出来上がると。この一種のトランス状態で書き上げられた文章・画が、何によって描かれているのか?ブルトンは「誰かが乗り移ってかいている」と考えたようですが、僕は意識に対する反射によってそれが描かれているのではないかと考えたのですが…掘り下げると結構面白い論文ができるのではないかなと思う次第であります。気が向いたら書いてみようかな。

2010年10月13日水曜日

Could capital become a caterpillar of our life ?

小難しいことばかり考えていると、逆に思考が固まってしまいますよ。流転のごとく、思考も変わるものです。とはよく言われたもので、でもねぇ、考えるのって辞めようと思っても辞められないんですねぇ。不思議なもので。考えるのが嫌いな人がいるように、考えないことが嫌いな人もいるということです。日常の些細な事に対して、「お、これはここに活かせるんじゃないか?」「まてよ、これこれをここに移行させれば…新しいビジネスが展開できるじゃないか!」まぁ、どんどこ出てくるわけでありますね。多分、ある臨界点を越えると、自動的に「一つの思考の答え」が出てくるまでになるんでしょうが、僕の場合はまだまだそこまで達していないわけでありまして。「日々、これ考えよ」を貫きますよ~あと20年は。

さて、頭を使うこと=エネルギーを多大に消費すると信じて、歩くこと以外の運動を全くせずに体型維持に努めている自称歩く虚人えびすが紹介する一冊はこちら。

商品の詳細

ジジェクが広く知られるようになったのは、アメリカの同時多発テロ以降だろうか。他の論客とは良い意味でも悪い意味でも一線を画す鬼才ジジェクが、ポストモダン世界の社会情勢・政治動向・経済動向についての辛辣・鋭利・奇抜な自論を、惜しげもなく我われに提供してくれるのが本書である。

グローバル資本主義、エコ資本主義、ロハス主義、イスラム原理主義etc。世の中にはなんと様々な「主義」が転がっていることであろうか。しかし、各々の「主義」がどういった経緯で築かれたのか、誰が何を思って当該「主義」にどっぷりつかっているのかといった、一歩踏み込んだ調査・勉強をした覚えは無い。が、それらを理解しておくことはmutual-relationshipを築く上で大切なことである。今回はエコ資本主義について、ジジェクの考えをともに少々深入りしてみよう。

エコロジー+資本主義≒エコ資本主義。しばしば、企業・個人は社会的貢献という「善意」を掲げて、そこに「資本」を投入するスタイルを取ってきた。…「Reduce/Reuse/Recycle、地球に優しいことを始めましょ」「絶滅危惧種を量産しているのは人間です」…発端は世界各国の個人・機関であろうが、人間の心に響く「綺麗な言葉」をフラッグに、世界中の人々をエコを合言葉に啓蒙することに成功したのは素直に認めるべきであろう。では、その成功の「カタチ」はどうだろうか?「エコ」という「表面綺麗な商品」の資金集めの容易さ、それに投資する人達の期待のあり方・裏切り方、そして成功者というレッテルにあこがれる「希望主義」etc。これらの水源を辿ると、どこにいきつくだろうか?

40年まえの"革命"を経て、資本主義社会に入り浸る我われ人間たちが獲得したものはなんだっただろうか?今一度、それらを列挙してみよう…シニシズム・スノビズム、嫉妬的・楽観的希望主義、自己責任の放棄・責任の転嫁/転換…書き連ねるのもいやになる言葉ばかりが出てくる。「失われた過去の負の遺産」としばしば言われることに至極納得させられた気分だ。では、そんな負の遺産を生み出すに至った背景はとはどんなものであったのか?…なるほど、ジジェクの考える「資本主義の姿」が、これほどまでに辛辣な様相を呈している理由が腑に落ちよう。

※資本主義を事例を踏まえて、メタメタに斬っちゃうジジェク。そのスタイルには賛否両論起こりそうですが、非常に過激(あくまでも批判に徹しており、案の提言にまではいたっておりません)な独自の考えを、惜しげもなく表に出してくれる研究者は少ないものですから、僕としては嬉しい限りであります。一歩、二歩ほど距離を置いて、資本主義を俯瞰することの大切さを改めて感じた一冊です。大学生以上の方には是非一読されることお勧めいたします。

2010年10月10日日曜日

Not only philosophy, but also way of life we should learn from him.

秋も深まり、食べ物も美味しい季節になってまいりました。今日は秋刀魚を自由が丘の東急ストアで調達。家でフライパンで焼いていたのですが、出るわ出るわの旨み脂。鮮魚は脂のノリが違いますね。冷凍品ではこれほどの脂は出ません。とはいえ、冷凍食品の素晴らしい点もたくさんあるんですけれど。とくに、保存期間に関してはそら、凄いですよ。冷凍したカレーなんかは6ヶ月保存しても、十分に食せましたしね。え?お前の胃がおかしい?だてに蝦蟇の胃袋を持ち合わせていません。※みなさまは真似されないほうがよろしいかと思います。

さて、そろそろ若気の至りもほどほどにして、規則正しい食生活を送ろうと計画はするものの、なかなか実行に移せずに自暴自棄になりがちなダメ男えびすが紹介する書籍はこちら。

商品の詳細

プラトンは哲学の世界に多大な功績を残した人だ。ソクラテスが書籍を残さなかったため、哲学の祖とも言われている。プラトンが後世に残した有名な概念はイデア論であるが、私自身、当のイデアとは何を指すのかについて深く考えたことはなかったように思う。本書を読むまでは「物事の起源にある理想の世界」=「イデアの世界」という、何とも浅はかでは済まされない程度の知識しか持ち合わせていなかった。

本書は、プラトンに関し、極浅い知識しか有していない私にも、理解できるように非常に平易かつわかりやすい文体で書かれており、すらすらと読み進めることができた。著者の分を書くという力量は相当なものであろうと思われる。プラトンについて浅はかな知識しか持ち合わせていない私が、その哲学について紹介するのは、何とも恥ずかしい限りであるが、プラトンの人物像について少し述べさせていただきたく思う。

プラトンのイデア論は中期に完成したのであるが、その内容については後期にプラトン自身も過誤がある点に気付き、その点修正した。攻防も筆の誤りという諺はよくできたもので、賢者でも間違えることはある。プラトンの素晴らしい点は、自らの間違いを認めたことだ。無理に自分の考えに固執するわけではなく、周囲の人の意見をしっかりと聞き、その上で間違いがあるならばそれを修正する…文字で並べるとなんだ簡単なことじゃないかと思われるかもしれないが、実際に行動に移すのは至難の業だである。一度造りあげた像、とりわけ観念的な像というものは壊しにくいものである。

晩年期の「ティマイオス」についても述べておかなければいけない。その内容は、これまでにプラトンが著してきた作品とは「袂を別つ」とまではいかないが、かなり趣が異なる。そこに見られるのは、一種の「諦念」に落ち着いたプラトンの姿だ。それまでの完璧を求める(たまに【例外】もあったりするのだが)姿勢を貫いていたプラトンであったが、晩年には「~らしい」でよしとする言説が多々見られ、完璧を求める姿勢はかなり薄れたのは間違いないだろう。長年描いてきた理想も、肩を張って相手に押し付けていても、一向にうまくいかないことに対する「諦念」が湧いてきたのだろうか。人間らしさに溢れたプラトンを知ることもまた良い機会だろう。

偉大な哲学者プラトンでさえも、自身の思想を「欠点なく完璧な状態」で世に送り出すことができたわけではない。長い年月をかけて、随所で修正を行いながら「イデア」を目指したのだ。そして、晩年の著作から何を見出せるだろうか?ほどほどの「諦念」…日本社会が忘れてしまった大切な「考え」を今一度呼び戻したいものである。

※本書はプラトンの哲学という表題でありますが、僕としては、何よりもプラトンがどうやって人生を全うしたのかを辿って欲しく思います。自身の過ちを認め、晩年には完璧を求めない心も持っていた、哲学の祖プラトン。彼の生きること・学問・政治に対する姿勢には、現在社会に生きる僕達が学ぶべき点がたくさんあるように思います。そこを是非汲み取っていただければと思います。

2010年10月7日木曜日

The width of One Language.

日本人がノーベル化学賞を受賞とのこと。こういうポジティブな報道を耳にすると、大変嬉しい思いになります。僕自身、研究者であったので、研究の醍醐味は大変身にしみております。まぁ同時に辛いところもあるんですけれど。何においても、簡単に答えが出ない問題に対して、時間をかけてじっくりと取組むことはとても素晴らしいことであります。とらえ方によっては昨今の「インスタント」に答えを求める社会風潮に反するように聞こえるかもしれません。このように書くと、僕が「じっくり考えること」にしか価値を置いていないように聞こえちゃうかもしれません…ので、インススタントに答えを求めることも重要だと思っておりますこと、付しておきます。じっくり考えることとスピードを持って考えること、この双方を使い分けられるのが一番ですね。そのためにも、若い内に双方の思考方法を経験し、該当する問題がどちらに分類されるのかを判断する「感覚」を磨くことが重要なのかなと思います。

商品の詳細

母国語である日本語、その日本語を我われはどれほど理解しているのだろうか?とりわけ、他の言語と比して、日本語の解釈の幅は広い。読み手・読者一人一人が一つの作品に対して様々に思いをめぐらす…ベンヤミンが述べたアウラは作品に宿ると言うよりは、ここの人間の内に宿っているっものだという解釈のほうが、我われ日本人にはしっくりくる理由がよくわかる。今回は本書に収められている「詩」を題材として、その翻訳による表現の幅、訳者の感性を探っていきたい。有名な「古池や 蛙とびこむ 水の音」を英語訳した時、どのような表現になるか、少し考えていこう。

日本人の感覚としては、ここでの「蛙」は一匹の蛙を頭に思い描くのはおおよそ総意が取れる。だったらば、これを英語約すると「frog」という単数になるはずだ。一匹の蛙がぴょこんと池の中に飛び込んだ時に、水面から発せられる儚くて素朴な音響、その趣や筆舌に尽くせぬものだ…といった感じだろうか。しかし、この詩を英語約した小泉八雲は「蛙」を複数の形「frogs」で表したという。なぜ複数形に訳したのか?欧米人にはたくさん飛び込むイメージのほうがしっくりと来ると想定して複数形にしたのか?八雲ほどの文人が、日本の侘び錆びの心を持ち合わせていないとは考えられない。ここで我われが考えるべき要素、それは「時間軸」である。

芭蕉の有名な詩に対して、我われは「蛙が飛び込むのは一度きり、その瞬間だけ」を思い描くことと思う。かくいう私もそのように描く。しかし、八雲は一度きりではなく、縁側に腰をかけて、長い時が経過する過程で蛙が一匹一匹、ぽちょん…ぽちょん……ぽちょんと飛び込む情景を思い描いたのであろう。だから「frog」ではなく「frogs」と訳したのだと考えられる。

私たちが物事・事象をとらえ思考する過程は十人十色であり、一つとして完全に同じアウトプットは生まれ得ないはずだ。長い時間をかけ、思考をこらして導き出した答え・表現であるほど、その色合いに違いが現れてくる。そして、それが「一人一人の個性」へと変わっていくものだ。もしも、個性を伸ばしたり自分の考えを持つことを望む人がいれば、もう少し「時間をかける余裕を持つこと」に専念してみるとよいだろう。生きてきた人生の厚みに比して、人間は一層輝くものである。

※ノーベル賞にあわせた書評を選択するべきなんでしょうけれど、専門的な分野は僕が理解できる範疇を越えていますゆえ、巷の書籍を軸にノーベル賞にみられる「じっくり思考すること」の大切さとその例を上述の評にて示させていただきました。時間をかけて物事・事象を考えることは大切です…そして、その上で答えが出たときの嬉しさは経験しないとわからないものと思います。若い内に、何十時間・何百時間もかけて「一つの問題」に対してあれこれと思考をめぐらす経験を積んでいただけると嬉しい限りですね…っと、自戒の念も込めて思いました。

2010年10月6日水曜日

Within the frame, Women can be free.

時がたつのは早いもので、今年も残すところあと二ヶ月半となりました。みなさまいかがお過ごしでしょうか?僕は年度はじめに立てた豊富を見直しております…。はい…未達成項目がありますねぇ…しかも…結構なハードルです。豊富の内容は『外国人の彼女をつくる』というもの。いやはや、有言実行の性分なもので、これは是非とも達成せねばならんと思いながら、ずるずると今日までやってきたわけでありまして…。やはりこちらから積極的にアプローチをかけないといけないですね。一目惚れの恋を成就すべく、残り二ヶ月半positiveアタックに励んでまいる所存であります。

さて、ドでかいことを口でいっておき、その後に慌てふためきながら帳尻合わせのごとく、緻密な計算と戦略をたてることに楽しみを覚えている、ちょっと傍目には近づきがたい男、えびすが紹介する書籍はこちら。

商品の詳細

Georg Simmel。彼の名を記憶している人は、おそらく相当な強者に違いないことと思う。社会学・哲学の世界の中でも「都市の諸事物」を批評した人物として有名なのは、長大な論考かつ才気に溢れ鋭い視点を記した「パサージュ論」の著者ベンヤミンだろう。独特の視点から綴られる文章とその構成(まぁ諸事情は多々あるのだが)には頭を悩まされるばかりだ。ベンヤミンの陰に隠れて、その功績の素晴らしさを過小に評価されている人(私がそう思っているだけかもしれないが)、それがジンメルだ。

本書に収められている論考の入り口は、誰が読んでも理解できるように書かれているので、巷に転がる社会学書にありがちな「頭から迷わされる」ということはないだろう。題材も興味をそそられるものばかりが揃っている(「愛の哲学」「女性心理学の試み」「橋と扉」「額縁」「よそ見について」etc…)。その中から二つの論考「女性心理学」「額縁」を少し紐解いていこう。

「女性心理学」では、近代社会における女性の閉鎖性を主軸において、当代の女性の慎ましさ・貞操さに関し、口語調(訳者によるところもあろうが)で柔らかく解説している。興味深いのは、女性と芸術作品とが似ているとして、論を進めているところだ。女性=芸術作品性の簡単な流れを記すと以下のようになる。
女性
⇒家に閉じ込められる
⇒閉鎖的な環境
⇒内面世界への没頭
⇒自己の充足と統一≒芸術作品。
重要な点は、内面世界において世の中の諸事情を理解し体験する傾向が強いということだ。ジンメルは、女性は、男性のように物事を人類一般の事柄とした枠組みで考えるよりも、「自分ごと」として考えるため、「縛りの中」に己の自由を見出すことができるわけだ。これを踏まええて、芸術作品について考えてみよう。なるほど、額縁という縛りのある枠の中でしか、自由を発揮できない点、女性との共通点が垣間見えよう。

「額縁」では、広く人間一般の閉鎖性に焦点をあて、人間の外に向かっての自己防衛と、内に向かっての統一的結束の双方向性に関して、論を展開していく。小さな絵の場合、それ単品では自己主張がしにくいため、あえて「大きな額縁」を着飾る。これにより、散漫しがちな鑑賞者の意識をぐっとひきつけることができる。また同時に、周囲の作品との「独立性」も築くことができる。一方、大きな絵にあってはその必要はない。単独で十分な主張を備えているため、鑑賞者の意識を無理にひきつけてくる必要もない。ジンメルはこの額縁に関し、それ自体が個性を持つべきでないと述べる。額縁はあくまでも作品という「魂」を入れる器にすぎず、無駄に着飾っては魂そのものの存在が稀薄になってしまうということだ。…さて、これを踏まえて、少し私たちの世界を俯瞰してみよう。なるほど、世の中にはなんと大層な額縁を携えた人が多いことか。

ジンメルの凄いところは、諸事物の特性・素材・使用目的等に応じて、こと細かな論考を立てることができることだ。そして、その多くがすーっと腑に落ちるものばかりである点、彼の観察能力・類推能力は当代随一であるといっても過言ではない。もっとも、こじ付けだと言われてしまいかねない点は多々あるわけであるが…。

※都市に見られる諸事情を、これほど興味深くかつ含蓄に富んだ論考に纏め上げる手腕は、おそらく社会学者の中でも随一ではないでしょうか?無理に難解な言葉を連発して、読者を迷わせるようなことはせず、初心者の人にも想像しやすい展開の仕方には舌を唸らされます。社会学の入門書、頭の体操の一冊として、本書を書架に加えることを心底お勧めいたします。後世に残したい社会学書でありますね。

2010年10月5日火曜日

Train your heart&spirit with passionate love!

さて、書きかけのブログが消失したときの悲しさといったら…それはそれはもう、何ともいえない気分になっちゃいますよ。そういえば昔、8時間かけて解析したデータが突如PCの不調で消失したことがあったなぁと思い出しました。そのときは、もう研究なんかやめてやる~!と思ったものですが、翌日にはすぐにまた研究生活に没頭していましたね。基本、嫌なことは翌日には忘れてしまう達なんで…人生前向きが一番。まぁ嫌なことでずっとドロップしてても気が持たないので(正確には懐が持たない)、前向きに生きるようにしております。これでも昔はペシミズムだったんですけどね。

さて、最近いろいろな人に「顔つきが変わったねぇ」といわれ、歳を食ったんだなぁとしみじみ感じ入りながら、自分の人生を振り替えることしばしばなえびすが紹介する書籍はこちら。

商品の詳細

人間の体内に住まう回虫の代表といえばサナダムシ(勝手にそうであると私は思っているのだが)であるが、著者はサナダムシの研究の権威である。が、今回はサナダムシのお話は一先ず脇において、オトコの生命力について熱く語っている。その内容を少し紐解いていきたい。

世の中で「草食男子」という部類が生まれたのはここ数ヶ月のことであろう。女性に対してがっつかず、女性の家に泊まっても何も無く帰ってくるという草食男子。勿論、この件だけで草食男子と決め付けるのはいかがなものかと思うが、世の中のオトコが以前ほど女性にがっつかなくなったのは事実であるようだ。以前ならば、気になるあのこと寝た寝ないの話題で、半日がすぎてしまうこともしばしばあったようだが、昨今では続いても1時間程度がいいところだろう。女性の話題よりも、漫画の話題や、芸人の話題、サークルの話題などのほうが、話の主導権を握りやすくなっているようである。もっとも、私の知る限りの狭い範囲のことではあるのだが。

異性への興味が減退している要因として、昨今の情報社会の弊害と家庭における過保護があるのではなかろうかと筆者は述べる。その内容は以下の通りだ。
まず前者について。今日我われは興味のあること(例えば女性の身体とか)について、インターネットを使えばその内容に関し即座にかつ容易に知ることが出来るようになり、以前は神秘的な存在であった「モノゴト」についても詳細な情報を手に入れることが出来るようになってしまった。その結果、実世界で生身を持って神秘を調べることなく、神秘を手に入れることができ、そこで満足してしまうオトコがたくさん現れてしまったというわけだ。
次に後者について。親から比較的やさしく育てられた青年は、自身が傷つくことを恐れ、自分から好きな人へ思いを伝えるという挑戦をしなくなってしまった。自分が傷つくことを避け、なぁなぁで成り立った男女の仲で満足する人が多くなってしまった。なので、肉体関係をもったとしてもそれは互いの「遊び」で終わってしまっているというわけだ。著者はこのフラットな関係に関して危惧を抱いているのであるが・・・私個人としては白黒付けられないこと記しておきたい。白黒付けられないのは、昨今の若者を取り囲む社会情勢・将来観を鑑みた上でのことである。

著者の博士という立場を考えれば、様々なデータを基に裏づけのある「堅い」論考を記すことも出来たはずだ。しかし、本書がとる体裁は「若者にも読みやすく、納得できる内容」を保っている。おそらく、著者の「今の日本の若いオトコたちに、諸外国のオトコたちと肩を並べるくらいまでに元気になって欲しい」という願いが本書に込められているような気がしてならない。暗い話題ばかりが目立つ日本社会を明るくしていくのは今の若い世代の力である。そのためにも、まずは恋愛・肉体からオトコを強化していこう!…著者の思いが今の若手に届くことを願いたい。

※僕が藤田先生を知ったのは高校生のときでした。当時、大学への数学のコラムにてサナダムシの素晴らしさを語っていらっしゃったのを記憶しています。世間一般ではサナダムシに対して悪い印象が貼られているようですが、実際は腸の調子を整えてくれるありがたい存在なんですね。本書でも「全ての虫に悪者あつかいするという風潮」に対して危惧を抱いていらっしゃいます。程よく菌がいる状況でないと、人間の免疫力はどんどん低下してしまい、しまいにはひょんなことで疾患にかかってしまうと藤田先生は述べます。元気に外で泥だらけになって遊ぶ、汚れること=成長することなんですけどねぇ…今のご時世ではなかなか通用しないようで、なんとも残念であります。

2010年10月4日月曜日

The People are Inclined to Dive into Implicit Knowledge.

さてさて、ここ数日ラジオ版学問のススメにかなりはまってっしまいました。いやはや、無料で1時間弱にわたる一流の方々のインタビューを聞けるのは嬉しい限りであります。お勧めは栗城史多さんの回。栗城さんの「自分で決断して、実行して、失敗してもそれを隠さず、次の目標に挑戦するその姿勢」にひどく感動しました。彼の生き方・考え方には見習うべきところはたくさんありますね、新しい何かに取組もうとしようとする人にはそれを特に感じ取るのではないでしょうか。更なる活躍・経験の積み重ねを期待するばかりです。

さて、「ロールモデルは誰ですか?」と聞かれたときに、「いません。僕自身です」と大見得きって答えてみたい誘惑に駆られる、3小(小心・小物・小動物)男、えびすが紹介する書籍はこちら。

商品の詳細

しばしば本ブログでも言及している無意識下の知識。今回紹介する「暗黙知」も片足を無意識の世界に踏み込んでいるといっていいだろう。夢の中に出てくる、"全く聞いたことも見たことも無いような物事に出会う"といった意識下には昇ってこない"明瞭な知"はなく、「こんな感じもあったかなぁ」といった"不確かな認識程度の知」と考えていただくといい。さて、前置きはこれくらいにして、さっそく本書の内容を評していこう。

「暗黙知は身体と事物との衝突から、その衝突が意味を包括=理解することにより、周囲の世界を解釈する」とポランニーは述べる。噛み砕くと、次のようになる。…我われ人間は物事と出会ったときに、対象を理解するに当たって「あぁ、この人・これはこういった特性があるのか」と理解する。そして、そこ出生まれた理解(例えば気持ちい・不快だという理解)を、対象を取り囲む世界にまで我われが半ば無意識に「滲み出し」てしまうということである。一人の無礼な男がいたとして、彼と接した人は彼の家族や友人までも「喋ったことも、あったこともない」にもかかわらず、勝手な「像」を脳裏に描いてしまう。この半ば無意識に造り上げられた概念・像こそ、暗黙知そのものだ。この暗黙知、何も言葉だけで形成されるものではなく、対象の表情・匂い・感触といった「五感」全てを通じて形成される点、心にとどめておくべきだろう。

しこうして、我われ人間は五感をフルに活用して暗黙知を造りあげるわけだが、この暗黙知の功罪について少し考えてみたい。まず功についてであるが、これは日本人お得意の「空気を読む」にしばしば現れる。その場の状況、相手の表情の変化、言葉の使い方を敏感に感じ取り、物事がうまく運ぶように取り計らう…こういった点において、「それが成功」した時には、暗黙知の功は多大なものであろうこと、容易に想像されよう。さて、もう一方の罪についてはどうだろうか?これもしばしば経験していることだと思う。一つの情報から類推される「こんなかんじだろう」に翻弄され、自分勝手な断定を下してしまい、「偏見」を生み出してしまう。その偏見が基となって、対象に対して物理的・精神的な攻撃が下すに至ってしまう。

ここまでは個人の中での暗黙知について論を掘り下げてきたが、これを広く社会一般にまで拡げるとどうなるだろうか?個々人の考え・思想・意思が集約した「社会」が備える暗黙知…個の内で収まっていたはずの「自分勝手な断定」が「共同体・国家レベル」で行われた時に一体何が起こるだろうか?我われが直面している社会の中に、その答えの片鱗を見出せるのはいうまでもない。

※サンデル教授の「justice」を読む前に本書を読んでおくと、内容理解が深まるのではないでしょうか?暗黙知の存在を理解すること、ただ理解することだけでも関係性の構築の仕方が大きく変わってくるものと思います。あと、そろそろ新しい形での書評を始めようかなと考えています。その形とは、一枚の「クリティカルFigure」を添えるというもの。言葉のみではなかなか理解しづらいというお声を多数頂いておりまして…近く、その形での書評を展開させていただきたく思います。しばしお待ちくだされ。

2010年10月3日日曜日

MAC skills will be of great importance in future

時々、あまりに素晴らしい書籍に出会うと、誰かに教えたくなくなることありませんか?これだけは、座右の一冊として、あんまり広く世の中に広めたくない…みんなが知っちゃうと、なんだか、この本の価値が(勝手な解釈なんですが)減じられてしまうようで嫌だ…実は僕の周りに結構いるんですよね、本当に素晴らしい書籍は誰にも教えないというヒト。とかくいう、僕もその一人だったりするのですが。とりわけ、洋書で翻訳されていない書籍に多いです。これは、俺だけのものだぁと自己満足に浸る自分に酔っちゃうんでしょうか。まったく卑しいこと限りなしですね、すいません。

さて、そんな卑しい心を持っていながらも、結局は喋りたくて仕方が無くなり、周りの友人たちに「これはやべぇべよ」とぽろぽろ内容をこぼしてしまう、アポ男えびすが紹介する書籍はこちら。

商品の詳細

とうとう出合ったか…本書をぱらぱらと見渡した瞬間に、これは「大当たり」の書籍だと直観した。出会いはAmazon.USA。本書に付けられたブックレビューの数(発売一ヶ月で50近く)に、「どないな本やねん」と興味津々で中身拝見をクリックした時だ。次の瞬間、あふれ出る珠玉の「Figure」に感嘆するばかりの自分がいた。

絶賛する理由は、ビジネスモデルについて「口」ではなく「図」をフル活用して紹介している点だ。巷に溢れるビジネス書の類は、おうおうにして方法論についてはたくさん書かれているのだがの質が稚拙なものが多く、記載の内容を勝手に図に落とし込んでもいまいちわかりにくい書籍が多い。まぁ私の理解能力が劣っている点もあろうが。翻っての本書、抜け目がないのだ、初めから終わりまで一貫して。本書は、新規のビジネスモデルを創出するための「教科書」として、広く大学・企業で有効に活用することができるレベルを保ちつつ、その内容説明・j方法論は簡略に書かれており、途中で迷うことなくビジネスモデルの創出プロセスを学ぶことができる。

さて、その方法論を少し紐解いていこう。
世の中には様々なビジネスがうごめいている。洋服をうったり、自動車を売ったり、ネット上で講演記録を売ったりとビジネスの展開の仕方・収益の上げ方は、千差万別に見えるものだ。しかし、どのビジネスにも共通する「核」となる要素および要素同士の「関係性」は存在する。違いはそこではなく、要素の展開の仕方・要素同士の関連性の付け方にあり、それらが「コア・コンピータンス」になっているわけだ。このコア・コンピータンスを把握・創出するためのツールとして、筆者らはBusiness model campusを提唱する。9つのビジネス要素とそれらの連関を、Firgureベースで感覚的に理解することができるcampusだ(以下参照図)。


分析事例に関しても、WiiやPSP、iPodにCar2Goなど、とっつきやすい題材が選ばれており、常に右脳・左脳を刺激されることだろうと思う。また面白いのは、ビジネスモデルを「平面」だけでなく、「階層」にわけた(3次元ビジネスモデル)概念が簡単にだが付記されている点だ(※ちなみに、3次元モデル図については使っているのは私だけしかいないようだが)。時間の流れを加えると、どうしても「階層」で考えなければならなく、二次元では限界がある。そこで、うまく階層を作り、時系列による影響までも含めたビジネスモデルを描くわけである。まぁほとんどの人には理解されない代物である…経験者は語るだ。

巷に溢れるビジネスモデル・イノベーションを謡った書籍に翻弄されている方には、是非本書を手に取っていただければと思う。経営の基礎であるManaging-Analyzing-Creating(以下MAC) 三つのスキルを身につけるにもってこいの書籍でであること間違いない。また、今後のビジネス社会を鑑みるに、どのような職種にあっても、「経営センス」なる力が要求される時代がやってくるのは時間の問題だ。一歩、二歩先を見据えて、今の内に経営センスを磨いておくのも良いのではなかろうか。

※先日、松岡正剛氏があるラジオ番組で語っていたことを思い出しました…日本を除くアジア人の現代アートがかなり凄い。日本人は良くも悪くも村上隆以降、原研哉に代表されるような「ミニマリズム」の路線をとってきたが、今のアジア各国では、膨大な情報量を一つの作品に落としこむことができる作家がたくさんいる。彼らの凄いところは、複雑怪奇で互いに喧嘩しそうなモノ同士を、うまくカオスの中でコントロールしていることだ。コントロールできていないと、まぁ子どもの遊びなんだが、それがしっかりとできているので凄い作品に仕上がる。日本の現代アートはいよいよ絶壁に立たされるんじゃないかな…かなり僕の編集が入っている点、ご容赦ください。これと同じことが、教科書や参考書にも当てはまるんですよね。日本発の教科書で「コレは!」という書籍に、ついぞ出会った覚えがありません。難解な言葉をわざとらしく使って、図は全くなく、視覚的な理解ができない、そんな書籍がほとんど。反対に、図を使ってわかりやすく書かれていると思ったら、内容が稚拙であったり。高度な内容を維持しつつ、わかりやすい説明・図が満載されている教科書が出てくることを願います。あ、ちなみに、本書は2010年度後期No.1候補の書籍であります。

2010年10月2日土曜日

書評リスト 2010.01~2010.09

2010.01~2010.09までの書評リストです。


~起業・ビジネス~


~政治・哲学・社会~


~芸術~


~科学~

The Others who are overwhelming me.

人間の記憶とは不思議なものであります。いや、正確には意識と呼びましょうか。みなさま、しばしば夢を見られることともいます。僕も、毎夜のように夢を見る人なんですが、その種類はさまざま。幼少期の自分がそこにいたり、中学生で部活に励んでいる自分がそこにいたり…千差万別の自分に出会うんですね、夢の中で。もちろん、現実の世界でもそういった「自分」を頭に思い浮かべることは可能です。俗に言うところの妄想に長けた人なんかは、結構なリアリティを持った自分を意識下で描くことが出来るとか。僕には全くそんな能力は無いんですけどね…なんで、妄想力に長けた人にであうと「クソッ」と思っちゃうわけでありまして。で、そこで卑しい自分が嫌になるわけでありまして。ふむ、自己嫌悪に注意注意。

さて、若き頃はある分野において妄想の鬼と呼ばれたこともあったなぁと昔の頭の柔らかさを偲ぶ、一般ピープルえびすが紹介する書籍はこちら。

商品の詳細

私が人間の脳にしばしば神秘を感じるのは上に挙げた「夢」においてである。というのも、夢の世界で「見た記憶も無い、経験したことも無い」ようなことが、鮮明に現れることがしばしばあるためだ。そんなに高度な数式など記憶した覚えは無いぞ…なるほど、そんなものの見方があったのか…こいつは天才だ、どうしてこんな思考ができるんだ…これらは、誰かと「対面する」ことでしばしば抱く思いである。そう、重要なのは「自分」に凄いと思うところではなく、「他人」に凄いと思うところだ。自分を基準にしての知識はやはり限界があるのだが、なぜかそのハードルを越えた知を持つ存在を夢の中に持ち出してくることが出来る・・・これはいったいどういうことだろうか?本書を追ってすこし分析してみたい。

本書のタイトルにあるように、脳の中はまさに美術館である。美術館という言葉が言い得て妙だと感心するのは、美術館の様々な「作品」を脳内の「記憶」のそれと結びつけることができるからだ。例えば、モネの絵という作品が脳内にあったとして、その作品をどうみることができるだろうか?現実の世界にあっては現実に目の前にあるモノを基準として、網膜にその像(Iaとする)を映し出すわけだが、脳内の世界にあっては頭の中(脳の中)にある「仮想」のモネを基準として像(Ibとする)を紡ぎだすわけだ。仮想であるが故、そこから引き出してくる像のフレームも広がる。なぜかって?不安定な意識下にあるほど可能性の幅は大きく広がっているからだ。これは容易に理解されたい。

この仮想の像(分子のように細かい要素が集まって出来たもの)を基準に描かれるIbこそ、まさに私が夢の中に現れる「自分のハードルを飛び越えた他人」にあたると私は考える。ただし、そこには無意識下という条件を付け加えるべきであろう。意識では汲み取れない要素、いやむしろ意識が拒んだ要素を無意識下では存分に解放できる。その結果、0ベースの地点から、像を紡ぐことが出来るわけだ。そこで出来上がった像は、なるほど、意識下にある「私」が理解できないのも無理は無い。「私」は、それを意識する以前に拒絶しているのだから。

脳について新しい一面を感得できるという点で、本書はいいツールとなるだろう。ただし、本書をそのまま受け止めて留まるのではいささか勿体無い…というのが私の思いだ。写真・絵画・マンガと脳の関係性の橋を渡り歩いる内に、自分の脳内美術館を振り返るという行為にも是非挑戦していただきたい。唯一無為の思考方法を得る最初の一歩として、本書を薦めたく思う。

※脳の中とは面白いもので、小さい頃から興味津々でした。なんで夢を見るのかなぁと、なんで記憶っちゅーもんが存在するのかなぁと不思議に思ったわけであります。で、その不思議心は今も拭えないでいるわけでありますが…知れば知るほど神秘に満ちた要素が立ち現れてくる…そんな脳の中に今後も翻弄されつつも魅了される自分の姿がありありと脳内に映ります。

2010年10月1日金曜日

As a duke, I should betray my people...really?

政府が為替介入の意向を示して、一時的に円安に振れましたが、果たしてその効果や長続きするものでありましょうか?折りしも大統領選挙を二ヵ月後に控えた時点での為替介入の表明・・・アメリカとしては「お前ら何考えとんねん!」と突っ込みを入れたくなるタイミングでしょう。その報復かアメリカでは更なる金融緩和を行うとの表明がありました。さて、日本政府はイタチごっこを続けるのか、はたまたアメリカに迎合するのか。ちょこっと面白い局面に向かっていますね。ここで、日本政府が強硬姿勢に出ることがあれば、米中二極体制の完成が一層早まりそうです。日本政府の決断やいかに!?あ、ちなみにこのブログを書いたのは9月20日だったりします(笑)。書き溜めること・先を予想して文頭を書くことを実験中。

さて、このままいっそう1ドル70円まで落ち、日本経済も方向転換せざるを得ない状況に直面すれば、いいタイミングで内需活性化プロジェクトを組めるのではないかと淡い期待を抱く、経済に関してはめっぽう素人なえびすが紹介する書籍はこち。

商品の詳細

「君主論を知っていますか?」ときくと、大体の人は「マキャべリが書いた本だよね」と答えてくれる。しかし、「内容はどんなものか知ってる?」と聞くと、誰も答えられる人がいない。今は亡き詩人 俵万智がある講演の中で「日本人はどの作品が誰によっていつかかれたかの記憶は凄いが、その中身について知っている人はほぼ皆無」と述べていたのを記憶している。

諸外国(欧米その他周辺国)では、当該作品がいつ書かれたのか?といったことよりも、その作品はどのような社会背景があり、どういったポイントに焦点をあてて、何を訴えるためにこの世に送り出されたのか、そして、それを読んであなたは作者の考えに対し、どういった思い・考えを抱いたのかを「自分の言葉で明確に表現する」訓練を組まされるという。なるほど、debateの素地はこういったところから鍛えられているようだ。日本でも年号暗記などに時間を割くのではなく、内容把握に時間を割く教育へシフトしなければいけない・・・ただ、今の「その場限りの知識の習得」の流れを鑑みると、難しいのは間違いないであろうが。

さて、いつものごとく話が逸れてしまい恐縮である。さっそく君主論の中身を見ていこう。君主論が書かれたのは1512年、この時期のイタリアは5大国(ローマ、ナポリ、フィレンツェ、ヴェネツィア、ミラノ共和国)が覇権を争っていた時期である。マキャべリは商家メディチ家が事実上社会を取り仕切っていたことで有名なフィレンツェの君主ロレンツォ・メディチに君主論を捧げ、職を与えてもらうことを期待したのであろう。この献上が功を奏したのか、後年マキャベリは枢機卿から執筆の依頼を受けている。
君主論に書かれている「理想の君主」像は、昨今の我われが期待するような「全ての民を思い、国の発展のために自己犠牲も惜しまない」といった綺麗な像ではない。性悪説を基調として、いかに臣下にある者たちが裏切りの行為を起こすのか、統治をするにあたってどのような障害・弊害(内部起因の障害、外部起因の弊害等)が現れるのか、統治に至る過程の違い(圧制によるものか、譲歩によるものか等)による民の統制の仕方などについて詳細に書かれている。今で言うところの、ゲームの説明書みたいなものだ…このようにすればこういったレスポンスが返ってくる。ある程度の操作方法を学んだら、あとは実践で慣れてください…マキャベリは民の視点と君主の視点、双方を有していたがゆえ、君主論を書くことが出来たのは間違いないだろう。

マキャベリが偉大な人間が辿ってきた道を辿ることの有徳を語っている点も見逃してはならない。長い時を経ても、なおその価値が認められる考え方・思想・姿勢といったものは、厳しい淘汰の歴史を経てきたものであり、付け焼き刃で生み出されたそれとは一線を画すべきものであるといえよう。これは芸術にも当てはまることであるが、長い歴史を経た現在でもその素晴らしさを認められるものには不思議と「エネルギー」を感じ取れるものだ。勿論、有名な作品であってもそれを感じ取れないものも多々あるのであるが(この点については書籍「芸術作品の根源」を読まれたい)・・・。

最後に、君主論でも一番の名言であると私が勝手に解釈している部分を引用したく思う。
君主は風のままに、運命の変化の命ずるところに従って自らの行動を変更する心構えを持つ必要がある。そして・・・可能な限り好ましい行為から離反せず、しかし必要な場合には悪事に踏み込むことができる心構えを持つ必要がある。
ウェーバーの「職業としての政治」 では、「臣・民が政治をどのように考えるべきか」が説かれ、マキャベリの「君主論」では、「統治者はどのように政治を執行していくべきか」が説かれている。およそ、広く国民一般が双方の書籍を読み終えることで、政治に対する新たな見解を打ち立てることができるのではないだろうか…もっとも、そんなことは既に過去になされたと思われるのだが。

※さて、ようやっと君主論を紹介することが出来ました。ウェーバーの書籍と合わせて読むことで、一層内容理解が深くなると思います。共通するのは他人に期待をし過ぎても駄目だし、信頼しすぎても駄目だということ。全ての民が裏切り・犯罪をしないという保証があれば話は違ってきますが、まぁそんなことはありえないわけでありまして・・・。大学生の皆様には是非とも読んでいただきたい書籍です。もちろんん、社会人一般の方々にも読んでいただけると幸いでありますけどね。