さて、へんてこな感性を持ち合わせているがゆえに、へんてこなことばかり思いつく、へんてこな人生を送ることを楽しんでいる、へんてこ男えびすが紹介する一冊はこちら。
ヴェイユの思想を理解するのは骨が折れる。「まぁこの手の書き方はニーチェの系譜」かと昔は考えていたのだが、今読み直して、当時の自分がいかに浅はかな(勿論、今も浅はかではあるのだが)読み方をしていたかを実感させられた。私自身への戒めの胃として、今回は本書の一遍を紹介し、それについて少し掘り下げたところまで思考を深めたく思う。少々長いが本書P140~P141に記載されている文を以下に載せよう。
知識としての、苦しみとしての楽しみ。蛇はアダムとエバに、知ることを得させようとした。セイレーンたちは、オデュッセウスに知識を与えた。こういう物語はたましいが快楽の内に知識を求めようとして自分を滅ぼすことを教えている。それは、なぜか。快楽はおそらく、その中に知識を求めることさえしなければ、罪の無いものであろう。知識を求めることが許されているのは、ただ苦しみだけである。
~重力と恩寵 P140,141 出版:ちくま学芸文庫~アダムもエバも、蛇にそそのかされたとはいえ、その誘惑に負け神からの約束を破って、自らの選択で未来を切り開いた。禁止ごとに手を出すことはまさに知識の探求の好意そのものだ。しかし、その結果、彼らは楽園を追放され、苦しみの世界に生きざるを得なくなってしまった。では、オデュッセウスにあってはどうか?彼は、セイレーンの声を聞く誘惑と同時に自身の命を守る術を考え付いた。その術とは部下達には耳栓をさせて、自分だけ耳栓をしないというものであった。声を聴いて、そちらのほうへ行きたいという快楽に抗うことは大きな苦痛を伴ったことであろう。しかし、その苦痛無しに快楽は手に入れることはできない。死んでしまっては、快楽も何もなくなってしまうのは自明だ。しこうして、ヴェイユは二つの例から「知識を求めることが許されているのは、ただ苦しみだけ」だと述べる。
知識の獲得は、苦しみの中でのみ可能だ…なんともヴェイユらしい考えである。ヴェイユはまた、善についても大多数の悪の中、それがあってこそ獲得できるものだと考えた。悲観の中・罪の中にこそ、善・幸福が転がっているのだ。彼女が思考するのはあくまでも「善」であり、「幸福」であり、「知識」である。苦しみはそれらを獲得するための手段に過ぎない点は留意されたい。
ヴェイユが残した言葉の数々。断片であるゆえの魅力…それらは一遍の「詩」に匹敵するものであろう。美しさの中に垣間見る苦悩・皮肉・楽観etc。本書を通じて感じたこと、それは、ヴェイユの真髄を味わいうるためには、私が人間として「幼すぎる」ということである。
※いやはや、ヴェイユの言葉は珠玉であります。巷では「ニーチェの言葉」なる書籍が売れているようですが、僕としてはヴェイユのほうが好きですね。ニーチェのようなシニシズム全快で物事を考えるのはどうも納得できぬものでありまして…。あぁ、昔はニーチェ通だった自分を振り返ると、なんだか寂しいような嬉しいような複雑な気持ちです。あ、学生の皆様には是非読まれることをお勧めいたします。社会人になる前に、思考を深める訓練をするという点でも、本書は有益でありましょう。
