金木犀の香が心地よい季節も過ぎ、一層の秋の深まりを感じる今日この頃。街を歩く人たちの服装も二週間前と大きく変わったなぁと感じている次第であります。カラフルなストールをしている学生風の青年、ベージュのカーディガンを羽織る女子高生、暖色のスーツを着たサラリーマン…四季に合わせて服装を変える文化は、着ている人はもちろんのこと周囲の人にも新しい発見や心地よさを与えてくれるものであります。まぁ、そのほとんどは輸入文化の洋服ではあるんですけれども…。
さて、秋の深まりとともに、心の寂しさもぐーっと深まり、帰宅してクノールのポタージュで一人暖まる日々を過ごす日々を語ったところ、友人に「哀れみを通り越した趣があるねぇ」といわれちょっと嬉しい気分に浸った変わり者えびすが紹介する一冊はこちら。
シュルレアリスムとは日本語訳で超現実主義を指すらしい。現実に超という接頭語が付いていることから、私は当初それを「現実を細部まで精細に模しすことを第一とする主義」であると考えていた。浅はかな思考もいいところだと反省するばかりである。では、シュルレアリスムとはなんぞや?というと、それは、「過剰なまでの現実」、「日常の延長線上に現れる未知の客観的な現実」の世界に舞い至る主義と考えていただければよい。ここでは、主観の世界の延長ではない点に留意されたい。
言葉尻ではよくわからないので、具体的な例を持ってこよう。本書に収められている、シュルレアリスムの第一人者アンドレ・ブルトンの「自動筆記」をベースとした解説を、自己流に落とし込んで紹介したく思う。少し小難しいと自身でも把握しているのだが、頭の体操と思ってお読みいただければ幸いだ。
ブルトンの自動筆記作品として有名な「ナジャ」。パリでであった娼婦との交際の記録「ログ」がそこに記されているのだが、自動筆記と言う一種のトランス状態に入った状態で描かれているため、我われの意識が感得する世界を超越した内容がそこに散見している。最初にあるテーマを設定し(作品「ナジャ」ならば「パリの女性との交際」)、そのテーマに沿って自分が紙の上に書画を意識的に描いているのだが、次第にその描くスピードを上げていくと、自分の意識が描くという行為に「これを描け」というう信号が伝わる前に「何か」が紙の上に描かれることとなる。私たちがよく知るところの熱い物に触れたときの「反射」に似た行為を想像していただければ良いかと思う。自動筆記において反射が働く対象…それを「意識」ではなかろうかと私は考える。
意識に反射する行為が生み出したアウトプット…それは「目的」を持たない、方向性が定まっていないがゆえに様々な可能性を内包している。脈絡の無さ・前後関係のなさなどは当たり前で、全く理解できない「混沌とした世界」がそこには描かれているわけだ。この世界を描いた(と私は勝手に解釈しているのであるが)世界的に有名な画家、それがサルヴァドーリ・ダリである。彼の描く世界には秩序だった系譜がなく、各々のオブジェが「独立した個性」を放っていることが理解できよう。ここで、ダリの言わんとするところはこうだ…「我われが意識の下に把握している世界、それはあくまでも我われの意識が勝手に秩序立てているのではないかだろうか?」
我われが認識している世界とは所詮意識の下に秩序立てられた世界であり、そのエントロピーは極めて低く抑えられている。エントロピーが大きくならないよう、意識は多大な労力を持ってそこに「秩序」を生み出しているのだ。シュルレアリスムの作家が描く世界、それはこの労力が取り去られた世界である。そこではエントロピーは大きくならざるを得ない…自然の摂理に逆らうエネルギーはそこに存在していない。さて、このエントロピーの増大は一体何を生み出すか?…シュルレアリスムが残した功績を我われの世界に投射してみよう…なるほど、超現実世界は確かに存在したことが理解できる。
※「書」を少し深く掘り下げてようと思い至った時に手にしたのが本書。ブルトンの有名な自動筆記についてわかりやすい解説がなされていたなぁと思い出せたのは幸運でした。まだまだ記憶は鮮明に残せているようです。何かを残そうと思って書き始め、次第にヒートアップして脳裏をよぎる言葉・単語をどんどん紙(今ならタイピングですね)に書き連ねていると、不思議と我を忘れた状態でも「なんらかの文章」が出来上がると。この一種のトランス状態で書き上げられた文章・画が、何によって描かれているのか?ブルトンは「誰かが乗り移ってかいている」と考えたようですが、僕は意識に対する反射によってそれが描かれているのではないかと考えたのですが…掘り下げると結構面白い論文ができるのではないかなと思う次第であります。気が向いたら書いてみようかな。
