12月も目前ですね。師も走る季節とは言いますが、子は呼吸困難になるほど全力で走り続けていることと存じます。良い形で一年を終える、これは結構大切なことです。もし、今年が良い年であった人は、来年もその良さが続くという期待以上に、今の良い流れを活かして何か一つじっくり取組んでみよう!と考えるのもいいことでしょう。また、あんまりよろしくない一年だったなぁと思いの方は、心機一転良い流れを作るためにも、一年を振り返りつつ、来年の豊富を組み立ててはいかがでしょうか?豊富というと、結構その場の流れで決めてしまうことかと思いますが、しっかりと構え、これは達成するぞ!という意志を吹き込める抱負を時間をかけて考えてみることをお勧めいたします。達成した時の感慨深さは相当なものだとおもいます。
さて、去年の抱負を振り返りつつ、成し遂げられなかったことを成し遂げることにやっきになりつつも、空回りばかりが目立つ、自称「言明の回転車」えびすが紹介する一冊はこちら。
これまでも、政治について古今東西様々な考え方を持つ学者の書籍が出版されてきた。ウェーバーの「職業としての政治」、マキャベリの「君主論」、アダムスミスの「国富論」etc。私が本ブログで紹介させていただいた政治に関係する書籍は、政治学のほんの一角を占めるに過ぎない。この学問の世界は想像以上に様々な学問と関係を持っているのは皆よくご存知の通りである。何せ、政治が包括するフレームの広さは、国家の統制、国家間権力争い、経済政策、教育改善、科学振興etc…およそ、数え上げればきりがないほどの分野にわたって、直接ではないにせよ影響を与えているのは間違いない。
本書は、近代以降の政治の流れ、各々の組織の構成・目的、古典にみる政治感とバラエティに富んだ内容である。しかし、各論ともにすっきりと腑に落ちる内容と明快さを備えており、政治学について少し深く知りたい人にはもってこいの一冊であろう。各論で興味を持った箇所・内容があれば、そこに記載されている参考文献等をあさり、いっそう深い理解へと繋げる楽しみも生まれることであろう。
さて、早速本書に収められている言論について紹介していこう。政治家の言論は、一国の未来、国民の将来を左右する効力を持つ。であるから、私が本書で展開しているような軽々しい言葉の羅列などは到底できるものではない。言論が機能を果たすには、入念な計算のもとつくりあげられたメッセージと今・ここのタイミングが必要となる。さて、翻って今の政治家はどうだろうか?小泉首相以降の政治家を見ていると、どこか彼らの素質に疑問点をつけざるを得ないと感じるのは私だけではないだろう。ただ、もう一点、注意すべきことはある。それは『また失言』『リーダー性の欠如』『信念の無さ』を押し付けている我われが、どういったポジションで何を考えて発言しているかについてだ。安全な場所から小石を投げるのは楽で良いが、石を避ければ非難され、受け止めれば傷つくポジションにいる人のことも考えるべきであろう。もし、丸山真男が今の時代に生きていれば、即刻議会の「総辞職」を要請するのはもちろんのこと、選挙制度・政治家育成の改革を断行するに違いない…帝国日本とまではいかないにせよ、幾分過激な政治家が多々現れることであろう。同時に国民の教育・政治に対する考えかたについても、色々と変更点を加えなければならない。
最後に、上述の延長線上で個人的に想うことを述べさせていただきたい。それは、昨今の「勢いで新しいことに身を投げる若者について」である。彼らの新しいことへ挑戦しよう!という意気込みは素晴らしい点、私も認めよう。しかし、歳を重ね、思考を重ねることなく、一面的にしか物事を見ようとしないままに、ふらふらと地に足をつけぬまま、飛び出す…日本社会が丈夫な基盤を持っているのを鑑みると、いささか勿体無い気がしないでもない。少なくとも、一つの分野で何かしらの結果を残してから外に飛び出して欲しいと願う「大老」の意は、なかなか汲み取られることがないのではないだろうか。ある著名人がいうには、社会のシステムを理解し、少なくとも一つの強みを持ったうえで新しい世界に飛び込む人は成功するだろうが、勢いだけの人はどうも上手くいかない傾向がある。仕組みをしっかりと考えること、その仕組みを回すにはどういった資源が必要なのか、どれほど確保できそうなのか、自身でカバーできる範囲はどれくらいかまで把握すること。そこまで理解したうえで新しいことに取り組む…明治維新の獅子達にあって今、新しいことに挑戦する人たちにないものは何か?時代が要請するもの、人として大切なものは、外から見て・聞いても「カッコイイ」。しかし、渋沢栄一や福沢諭吉、岩崎弥太郎らに学ぶべき「もの」も見逃してはほしくないと思うばかりである。
※大手オンライン書店のレビューでは色々と書かれております。確かに、本書の内容は明確な答え・解決方法などが記されているわけではなりません。どちらかというと、論文らしく各々の取り組み(マニフェストや派閥)がなぜつくられたのか、どういった弱点があるのか、その効果はどれほどであったのかを客観的に評するものとなっています。普段、論文を読むことに慣れている学者さんの目から見れば、すーっと納得いく書籍となるでしょうが、なんらかの答えを書籍に求める人たち(僕もこっち側の人間でしょうけれど)には、これをせよ!こうあるために、こうかえよ!といった主観的な文言は収められていないため、幾分有用な書籍と感じ取れないのも事実であります。ただ、過去の事例がどういった成り立ちを持っているのか、構造的にどこがよろしくないのかを知るには素晴らしい内容を備えております。事例・事実の背景をみんなが知ったうえで、それに対してどのような流れを築いていけばよいのかを考えること…「あなたまかせ」から脱却せよ!と暗にほのめかしているように感じとれました。丸山真男、ハンナアーレント、ウェーバー、マキャベッリ辺りの著作を1,2冊かじっておくと内容理解が深まるのではないかと思います…ただ、彼らの書籍を読むのは結構骨が折れるのも事実であります。
2010年11月27日土曜日
2010年11月24日水曜日
Make your life for yourself !
継続して読書に取組んでいると、不思議と「変な癖」がついてくるように感じます。それがいいものであるのか、よろしくないものであるのかは本人にはわかりません…ですので、ちょこっとやっかいなんですね。僕の癖も結構強いものであるということを、先輩諸兄と和気藹々談笑している時に痛感したしだいであります。え、癖の内容?それはそれは、僕の書評をご覧になれば一目瞭然の内容です…ので、詳しくは述べません。最近はフィードバックをしてくれる人が、たくさんもてることのありがたみを感じている次第です。持つべきものはなんとやら。もはや、友の範囲がどこまで広がるのか自分ではわからない、そんな感じですね。
さて、嬉しいことも厳しいことも、忌憚なくズバズバ語ってくれる人の存在に頼ってばかりで、成長の速度が著しく遅い和製おとこ、えびすが紹介する一冊はこちら。
とうとう、この書籍を紹介する日が来たかと思うと感無量の思いになる。私のようなものが紹介するのもなんだかなぁという思いもあるのだが…そこはご容赦いただきたい。本批評を通読し、もう一度本書を手にとり、思考にふけることを期待して、本書を紹介させて頂きたく思う。
さて、様々な学問に対して全霊をかけて取組んだ福沢諭吉(以下先生)が、後世に残した財産として一級の価値がある本書は、社会に出た人間にはひどく心打たれる言葉で溢れている。また、時に厳しい口調で、我われが新しいことに取組む姿勢のあり方・先人を越えることの必然性・明晰な観察力をもちつつ様々な物事に触れる重要性について説かれている。だらだらとした人生を過ごしているものにとっては、ぐさりと心に突き刺さる言葉が至るところに散りばめられているのも事実だろう。
学問はいかにしてあるべきか。先生が本書で伝えたかったこと、それは学問をする意義ではないだろうか。今の社会にあっては、「学問など実社会で使えるしろものではない」としばしば耳にする。しかし、本書で先生が述べるように、実社会における物事に対し「批判」の目を通して、それが正しいものなのか間違ったものなのかを判断することができる力を養う、という点で学問ほど有益なものは無いはずだ。論理的に確固とした位置づけを持つ「学問」は、実社会で獲得した「経験知」を補強するものとしてこの上なく有用なものであると私自身は考えている。というのも、たとえ素晴らしい経験を積んだとしても、経験知だけではぐらぐらと揺れ動き、どこからともなくやってきた一撃にバタンと倒されてしまう恐れがあるからだ。本書に記された先生の考えを汲んでも、経験に基づき、芯の通った体験知を学問で補強しつつ、様々な分野で応用していくことを読者に期待し、実践して欲しいと願う姿がありありと浮かび上がってくる。
さて、嬉しいことも厳しいことも、忌憚なくズバズバ語ってくれる人の存在に頼ってばかりで、成長の速度が著しく遅い和製おとこ、えびすが紹介する一冊はこちら。
とうとう、この書籍を紹介する日が来たかと思うと感無量の思いになる。私のようなものが紹介するのもなんだかなぁという思いもあるのだが…そこはご容赦いただきたい。本批評を通読し、もう一度本書を手にとり、思考にふけることを期待して、本書を紹介させて頂きたく思う。
さて、様々な学問に対して全霊をかけて取組んだ福沢諭吉(以下先生)が、後世に残した財産として一級の価値がある本書は、社会に出た人間にはひどく心打たれる言葉で溢れている。また、時に厳しい口調で、我われが新しいことに取組む姿勢のあり方・先人を越えることの必然性・明晰な観察力をもちつつ様々な物事に触れる重要性について説かれている。だらだらとした人生を過ごしているものにとっては、ぐさりと心に突き刺さる言葉が至るところに散りばめられているのも事実だろう。
学問はいかにしてあるべきか。先生が本書で伝えたかったこと、それは学問をする意義ではないだろうか。今の社会にあっては、「学問など実社会で使えるしろものではない」としばしば耳にする。しかし、本書で先生が述べるように、実社会における物事に対し「批判」の目を通して、それが正しいものなのか間違ったものなのかを判断することができる力を養う、という点で学問ほど有益なものは無いはずだ。論理的に確固とした位置づけを持つ「学問」は、実社会で獲得した「経験知」を補強するものとしてこの上なく有用なものであると私自身は考えている。というのも、たとえ素晴らしい経験を積んだとしても、経験知だけではぐらぐらと揺れ動き、どこからともなくやってきた一撃にバタンと倒されてしまう恐れがあるからだ。本書に記された先生の考えを汲んでも、経験に基づき、芯の通った体験知を学問で補強しつつ、様々な分野で応用していくことを読者に期待し、実践して欲しいと願う姿がありありと浮かび上がってくる。
学問以外についても、はっとさせられる洞察に多々出逢う。人付き合いの作法、交際範囲の広げ方とその効用、人望を得るためには何をなすべきか…etc。これらを方法論としてとらえられる人もいようが、それに求められる水準は巷に転がるビジネス関連のHow to本のそれを大きく凌駕していることは容易に理解されたい。『言うは易し、行うは難し』。本書に収められている名言・格言を実行しうる猛者が、本書を通じて多数輩出されることを期待してやまない。
※学問の進めは発売された当時、大ベストセラーとなったことで有名です。10人に1人は本書を読んだとか。そのお蔭もあってか、明治維新の大躍進があったのではないでしょうか。今の日本にも同じ風は起こせないものでしょうか。版権も切れて無償で手に入れることも可能な「学問のすすめ」、著者名と作品名だけではなく、その中身をこそ多くの人に伝えたいものであります。
2010年11月22日月曜日
Beyond the Words, We should Proceed now.
野郎と二人で、洒落たお店で『百年梅酒』の味に感嘆している僕に、ワインがさまになる友人が「男の生きる道とはどんなもんや?」と友人が唐突に問い、「信念を持ってまっすぐ生きることじゃないですかねぇ」と適当にあしらうと、「信念すらも時流と共に変わるもんやろ。それでええんか?」と返され、うむむ・・・と30分ほど考え込んでしまいました。確かに、どのような強い人でも信念は『時流とともに』変化してきたはずです。過去の偉人を鑑みてもそう。ただし、「根幹」は変わっていません。変化してきたのは、幹の先の枝葉たちです。これを木にたとえるならば、春に青々と茂った葉が、秋を迎えると赤く染まり、冬になって枯れ落ちる。青年時代の信念なるもの、とくにより現実世界に近いところのものは短い期間で塗り替えられていくものです。幹ではなく、葉がぐるぐると消滅・再生を繰り返す…信念も葉と同じ様に、消滅・再生を繰り返すものではないかと。思想というものの可変係数は往々にして大きいものであります。
さて、こまごまとしたことばかり口にしていると、変人あつかいされちゃいますよ。と学生に窘められ、既に多くの人から変人扱いされている身としては、なんとも返し方に困りつつもacknowledgeを返した心優しい男えびすが紹介する一冊はこちら。
新渡戸稲造の「武士道」を知らないという人はいないだろう。が、その原著が英語であるということを知る人は少ない。今回紹介する武士道は初版の出版が2005年と新しく、岩波のそれ(旧言葉使いが随所に見られる)に比べてかなり読みやすい内容となっている。ただ、若干の省略が加えられている点は否めないため、「武士道」をしっかりと読み込みたいのであれば、原著に当たるのがよさそうだ。
さて、武士道とはなんぞや?言葉ではそれを知っているが、その中身を知らないということは多々ある。表面的ない理解で満足しうるならば、国語辞典でも引けばよい(なお、私は2009年以降のウィキペディアは侮れないと感じている)。いつ生まれて、このような思いを抱いて、本書を上梓したと。ただ、もう少し深いところの理解を手に入れたいという思いを持つ人もいよう(私はその1人だ)。本書は現代に生きる人からみて、『武士道』とはどういったもののであるかを簡潔かつ明瞭な説明で持って紹介している。私のような初学者にはもってこいの一冊といって過言ではないだろう。
さて、武士道の中身であるが、そこには「かつての『日本人』はこうあった」という第二次世界大戦前の文化背景を垣間見ることができる点、気付かれたい。弱気を助け、強気を挫く精神、失敗に対しては死をも問わない覚悟、ぶれない正義の心。並べてみると、今の日本人にかけている要素ばかりが目立つことに気がつく…いや、反対の行動をとっていると言っても過言ではない。弱い者いじめ、挑戦からの逃避、芯のない揺れ動く心…誹謗中傷を並べる気は毛頭ないのだが、今の日本社会を鑑みると、武士道が書かれた時代の人々の心情・行動とは『真逆の方向』に向かっていると言わざるを得ない。
しかし、上記に述べた内容について早急な断定を下すのは危険だ。私自身の実体験に照らし合わせ、武士道に通ずる心を持っている人々に多々出会うのも事実であるからだ。もちろん、昔の武士道をそのままの形で実践している人は現代社会にいないだろう(いたら即逮捕されるに違いない)。しかし、武士道に書かれている「人間として生きていく姿勢」に多くを学び、間接的・自己流に取り入れている人はたくさんいるように思う。小さな思いやり、間違ったことに対する疑問、弱い人を恥ずかしながら助ける心…。こういった『小さいけれど、誰かのためを思って』行動に移す人に出くわすと、心がほっこりするものだ。100の奇麗事を口で並べるよりも、1の小さな行動で誰かのためになる…そんな心を持つことができる日本人、まだまだ捨てたものではない。
※本書によると、日露戦争で日本が勝利を収めた陰に、『武士道』が当時のアメリカ大統領ルーズベルトの琴線に触れ、日本人に対し好印象を抱き、調停役を快く引き受けてくれた事実があるそうです。一冊の書が一国の将来を左右す…なんとも、スケールが大きい話ですが、過去を遡ると素晴らしい業績を残した偉人、歴史的な変革を左右した事件の裏には、いつも『書物』の陰を感じざるを得ません。これらの書物が共通にもつ特徴、それは『誰かの琴線に触れる言葉』がそこに書かれているということです。言葉の力…今一度、その力を見直す必要があるのかも知れません。こと、技巧的な遊びではなく、魂を揺す振る言葉の見直しについてであります。もちろん、言葉の先にある、行動こそ最も見習わなければいけないんですがね。
さて、こまごまとしたことばかり口にしていると、変人あつかいされちゃいますよ。と学生に窘められ、既に多くの人から変人扱いされている身としては、なんとも返し方に困りつつもacknowledgeを返した心優しい男えびすが紹介する一冊はこちら。
新渡戸稲造の「武士道」を知らないという人はいないだろう。が、その原著が英語であるということを知る人は少ない。今回紹介する武士道は初版の出版が2005年と新しく、岩波のそれ(旧言葉使いが随所に見られる)に比べてかなり読みやすい内容となっている。ただ、若干の省略が加えられている点は否めないため、「武士道」をしっかりと読み込みたいのであれば、原著に当たるのがよさそうだ。
さて、武士道とはなんぞや?言葉ではそれを知っているが、その中身を知らないということは多々ある。表面的ない理解で満足しうるならば、国語辞典でも引けばよい(なお、私は2009年以降のウィキペディアは侮れないと感じている)。いつ生まれて、このような思いを抱いて、本書を上梓したと。ただ、もう少し深いところの理解を手に入れたいという思いを持つ人もいよう(私はその1人だ)。本書は現代に生きる人からみて、『武士道』とはどういったもののであるかを簡潔かつ明瞭な説明で持って紹介している。私のような初学者にはもってこいの一冊といって過言ではないだろう。
さて、武士道の中身であるが、そこには「かつての『日本人』はこうあった」という第二次世界大戦前の文化背景を垣間見ることができる点、気付かれたい。弱気を助け、強気を挫く精神、失敗に対しては死をも問わない覚悟、ぶれない正義の心。並べてみると、今の日本人にかけている要素ばかりが目立つことに気がつく…いや、反対の行動をとっていると言っても過言ではない。弱い者いじめ、挑戦からの逃避、芯のない揺れ動く心…誹謗中傷を並べる気は毛頭ないのだが、今の日本社会を鑑みると、武士道が書かれた時代の人々の心情・行動とは『真逆の方向』に向かっていると言わざるを得ない。
しかし、上記に述べた内容について早急な断定を下すのは危険だ。私自身の実体験に照らし合わせ、武士道に通ずる心を持っている人々に多々出会うのも事実であるからだ。もちろん、昔の武士道をそのままの形で実践している人は現代社会にいないだろう(いたら即逮捕されるに違いない)。しかし、武士道に書かれている「人間として生きていく姿勢」に多くを学び、間接的・自己流に取り入れている人はたくさんいるように思う。小さな思いやり、間違ったことに対する疑問、弱い人を恥ずかしながら助ける心…。こういった『小さいけれど、誰かのためを思って』行動に移す人に出くわすと、心がほっこりするものだ。100の奇麗事を口で並べるよりも、1の小さな行動で誰かのためになる…そんな心を持つことができる日本人、まだまだ捨てたものではない。
※本書によると、日露戦争で日本が勝利を収めた陰に、『武士道』が当時のアメリカ大統領ルーズベルトの琴線に触れ、日本人に対し好印象を抱き、調停役を快く引き受けてくれた事実があるそうです。一冊の書が一国の将来を左右す…なんとも、スケールが大きい話ですが、過去を遡ると素晴らしい業績を残した偉人、歴史的な変革を左右した事件の裏には、いつも『書物』の陰を感じざるを得ません。これらの書物が共通にもつ特徴、それは『誰かの琴線に触れる言葉』がそこに書かれているということです。言葉の力…今一度、その力を見直す必要があるのかも知れません。こと、技巧的な遊びではなく、魂を揺す振る言葉の見直しについてであります。もちろん、言葉の先にある、行動こそ最も見習わなければいけないんですがね。
2010年11月19日金曜日
A myth with a notion of death gives...
TVを見なくなってから早くも2年が経過しようとしております。この生活が板につくと、かなり有効に時間を使うことができます。読書しかり、ブログ更新しかり、仕事しかり。僕も昔はTVにaddictされていました。意味もなく、ただ画面をつけているだけ…なぜか家にいるとTVをつけていないと「落ち着かない」そんな感じでした。けれど、歳を重ねるとともに、番組内容の程度が低く感じ取られるようになり(いや、いい番組もたくさんあるんですけれど)、コメンテーターの意見もどうも腑に落ちなくなってきたと…そこで実験として「TVの電源を2週間つけない生活をしよう」と思い立ち、実践に移したところ、2週間が2年になっちゃったと。いやはや、今度はTVを見ないことにaddictされちゃったようです。
さて、TVを見なくなれば視力が良くなる・回復するだろうと、安易に考え、読書ばかりにふけっていたらいつのまにやら視力の低下がとんでもないことになってしまい、どうしたものかと未来の展望が霞む思いに苛まされえる男えびすが紹介する一冊はこちら。
ウルク城の暴君として君臨する半神半人のギルガメシュ。彼の横暴振りをおさめるために創られたエンキドゥとの闘いと深い友情。そして、森の怪物フンババとの死闘とエンキドゥの死。親友の死を省みての自身の死…ギルガメシュ叙事詩は非常に「人間臭い」物語構成になっている。現存する最古の文学作品であるこの叙事詩が神話の形をとっていない点は興味深い。英雄を称ええる物語の多くは、その不死・成功・繁栄をもって物語を終えるものだが、この叙事詩にあっては、ギルガメシュが「死の恐怖」に直面し、葛藤を重ねつつも「死」に対して自身の内投稿を公開でけじめをつけるという類の物語になっている。
さて、この物語が語られた場面とはどんなふうであったのだろうか?繁栄を極めた都市の頂点に君臨する王の目前で、このような「死の物語」を語ること、それは甚だ「無礼」にあたるものであろう。信頼できる者の死、権力の所在とは何か、そして王すらも死からは逃れられないと言う事実。精神面にマイナスの要素ばかりをもたらすに違いないギルガメシュ叙事詩ならば、発禁・処分という訓令が下ってもいいはずだ。それにもかかわらず、この叙事詩には多くの版が存在している。その理由は何か?私が考えつく理由としては、死に絶えゆく王への「レクイエム」として永きに渡り伝承されてきたのではないかといったところか。「英雄さえも死からは逃れられなかった。王である貴方も死からは逃れられない。しかし、死を迎える前にできることはたくさんある。そう、太古の英雄ギルガメシュが成し遂げたように…」
一つの叙事詩から何を受け取るか。そこに描かれた物語は自身の人生にどのような教訓を与えてくれるのか。ただ、漠然と読み進めるのも一つの読書法だが、そこに自身の姿を投影し、「はて、我も同じ道をたどらんや」と自問を重ねていく読書法もある。「書を読むこと」から「書を我が人生に活かすこと」…その効果は実践した者にしかわからないものであり、同時に味わえないものである。
※久しぶりの物語系(とはいっても文学作品ですが)の書評でした。でも評すると言うよりは、そこから何を読み取ろうかという僕の読書法の紹介文になっちゃいましたね。書を読むことから一歩踏み出して書を吟味すること・書を活かすことへ、書物のvirtue(byアリストテレス)は本来そうあるべきものでしょう。僕自身、まだまだできていないことなんですけれど。
さて、TVを見なくなれば視力が良くなる・回復するだろうと、安易に考え、読書ばかりにふけっていたらいつのまにやら視力の低下がとんでもないことになってしまい、どうしたものかと未来の展望が霞む思いに苛まされえる男えびすが紹介する一冊はこちら。
ウルク城の暴君として君臨する半神半人のギルガメシュ。彼の横暴振りをおさめるために創られたエンキドゥとの闘いと深い友情。そして、森の怪物フンババとの死闘とエンキドゥの死。親友の死を省みての自身の死…ギルガメシュ叙事詩は非常に「人間臭い」物語構成になっている。現存する最古の文学作品であるこの叙事詩が神話の形をとっていない点は興味深い。英雄を称ええる物語の多くは、その不死・成功・繁栄をもって物語を終えるものだが、この叙事詩にあっては、ギルガメシュが「死の恐怖」に直面し、葛藤を重ねつつも「死」に対して自身の内投稿を公開でけじめをつけるという類の物語になっている。
さて、この物語が語られた場面とはどんなふうであったのだろうか?繁栄を極めた都市の頂点に君臨する王の目前で、このような「死の物語」を語ること、それは甚だ「無礼」にあたるものであろう。信頼できる者の死、権力の所在とは何か、そして王すらも死からは逃れられないと言う事実。精神面にマイナスの要素ばかりをもたらすに違いないギルガメシュ叙事詩ならば、発禁・処分という訓令が下ってもいいはずだ。それにもかかわらず、この叙事詩には多くの版が存在している。その理由は何か?私が考えつく理由としては、死に絶えゆく王への「レクイエム」として永きに渡り伝承されてきたのではないかといったところか。「英雄さえも死からは逃れられなかった。王である貴方も死からは逃れられない。しかし、死を迎える前にできることはたくさんある。そう、太古の英雄ギルガメシュが成し遂げたように…」
一つの叙事詩から何を受け取るか。そこに描かれた物語は自身の人生にどのような教訓を与えてくれるのか。ただ、漠然と読み進めるのも一つの読書法だが、そこに自身の姿を投影し、「はて、我も同じ道をたどらんや」と自問を重ねていく読書法もある。「書を読むこと」から「書を我が人生に活かすこと」…その効果は実践した者にしかわからないものであり、同時に味わえないものである。
※久しぶりの物語系(とはいっても文学作品ですが)の書評でした。でも評すると言うよりは、そこから何を読み取ろうかという僕の読書法の紹介文になっちゃいましたね。書を読むことから一歩踏み出して書を吟味すること・書を活かすことへ、書物のvirtue(byアリストテレス)は本来そうあるべきものでしょう。僕自身、まだまだできていないことなんですけれど。
2010年11月15日月曜日
いきとしいけるもののために。
11月も半ば、今年もあと一ヵ月半を残すところとなりました。街にはちらほらと冬の景色を見かけることも多くなってきました。何せ、12月から2月にかけては「記念日」ラッシュですからね。クリスマスに始まって、大晦日・元旦、成人式そしてバレンタインデー。恋人達にとっては大忙しの季節の到来です。え?僕ですか?もちろん暇に決まっているじゃありませんか。巷では「持つべきものは友」といいますが、僕としては友の後ろに恋人も入れるべきかと。いや、ただの戯言として受け取ってくださいませ…。
さて、秋の終わりの茜空に、哀愁の思いを投射しつつ、明日があるさとポジティブシンキングに浸りたい思いで一杯の独男えびすが紹介する一冊はこちら。
さて、秋の終わりの茜空に、哀愁の思いを投射しつつ、明日があるさとポジティブシンキングに浸りたい思いで一杯の独男えびすが紹介する一冊はこちら。
「生とデザイン」
我われがデザインに求めるものは何か。デザインが醸し出すものとは一体何か。そもそも、何を持ってデザインと定義するのか…。問いを重ねれば重ねるほどその本質は見えにくくなる。逆説的ではあるが、知れば知るほど本質から遠ざかっているかのように感じられてくる。このような経験をされた人は、相当な猛者であるに違いない。一人夜中まで物思いに耽る…あぁでもない、こうでもない、これはどうだ?いや違う、あの考え方はどうだったか?応用はできないか?いやだめだ…気付けば窓から光が指し込んでいたという経験を持つ方もいられるだろう。
本書は、デザインの起源に始まり、それに向き合ってきた人たちの思想・哲学、人間が生きることとそこに潜むデザインのかけらについて、美しくも切れのある論説を展開してくれる。肉体的経験からデザインに落とし込む方法、精神的経験をデザインに造り上げていく過程、デザインが生まれる過程は、同じ時代に生きた芸術家たちの間でも様々である。
さて、今回は20世紀後半以降のデザインに焦点を当てて本書を紐解いていこう。この時代にデザインは産業・学問・社会でどのようなポジションを獲得してきたか?産業としてはプロダクトにその変遷を見ることができる。視覚的な快適さ・機能的な美・周囲とのマッチング…根幹にある「理想のデザイン」そのものは19世紀のそれと大きく変わっていないように感じる。そして、学問の世界で「デザイン」が適用される『フレーム』の枠がぐっと広がったことは、非常に興味深いと同時に注意を払うべきことだ。生態学、人類学、工学、医学、天文学…およそ、全ての分野において「デザイン」なる言葉はなんらかのポジションを獲得しているものと思う。これほどまでに広範にデザインが拡張して用いられるに至った背景には、単に「響きがかっこいいから」という理由もあるだろうが、各々の分野が提唱する「デザイン」は相当に奥が深い点も見逃してはならない。私が研究していた分野でいう「デザイン」とは、使用環境(水環境・高温環境・高湿度環境・応力振幅環境)に応じて最適なマテリアルを設計するというもの。近年では複合材料(Carbon Fiber Reinforced Polymerとか)の研究における材料設計を「デザイン」するといった具合に使っていた記憶がある。
一言にデザインといっても、それが言い表すところは各学問・産業分野で千差万別であろう。しかし、全てのデザインには共通するものもある。それは、「誰かのために・何かのために役立てたい」という心がそこに内包されていることである。個々の小集団単位で進化・成長を続けるデザインの「木」たちが集まり、一つのまとまりとして「林」へと成長し、長い年月を経て「森」へと成長する…なるほど、デザインという言葉がもつ魔力には心躍らされるわけだ。
※おもえば僕の研究室も「~デザイン研究室」という冠名を持っていました。学問の世界でデザインはどんな形で用いられているのかを実例で示したく。M. AshbyというMaterial Scienceの世界で高名な学者が創りあげた『Ashby Chart』を紹介いたします。

このChartは数式を基に、使用目的にあわせてどのようなMaterialがどれほどの機能を備えるかをわかりやすいfigureに落とし込んだものです。上の図ではヤング率と密度の関係を示しています。ちょっとマニアックな世界なんで、中身は割愛いたします…話し出すと止まりませんから(笑)。Ashby先生には実用的かつ、理解しやすい図を作ることで、実学の世界でも大いに活用してもらいたい思いがあったのでしょう。科学者の「愛」を感じ取ることが出来る素晴らしいChartであり、学問から実学への橋渡しを上手く成し遂げた実例として、見習うべきところが多々あります。おのれのフィールドで積上げてきた知識・技術を他者のフィールドへ応用する…理想の形ですが、これがなかなか難しい。自信も精進せねばと思う次第であります。

2010年11月13日土曜日
New face and inspiration at the same time !
身辺が忙しくなると、日常生活のバランスが崩れることありますよね?最近はこなさなければいけないタスクが増えてきており、あな辛しなスケジュールになっちゃっています。うむ、自己責任。突如として幸運が舞い込んできたとして(例えば恋人が見つかるとか♪)、この状態だとそれはそれはもう、残念な結果になるのが目に見えてしまいます…はぁ。デキル男ならば、ホイホイとこなすことができるのでしょうけれど、デキナイ男の代表格である僕には、そのような余裕など全く無いわけでありまして…。成長を臨むだけで行動を起こさないようではだめだ!と自分に活を入れる毎日を送っております。
さて、行動が大切だ!といいつつ、びびって自ら行動をとることに躊躇してばかりの小心者えびすが紹介する一冊はこちら。
日本人による日本論、欧米人による日本論はしばしばよく目にするところだ。前者であれば、古くは新渡戸稲造の『武士道』、近年であれば内田樹の『日本辺境論』あたりが参考になる。後者であれば、ルース・ベネディクトの『菊と刀』、ロラン・バルトの『表徴の帝国』(本人は日本論ではないと述べているが)が有名であろう。私自身、これら著作については「なるほど」と思わされるところが多々あった。とりわけ、『表徴の帝国』には舌を唸らされたものだ。
さて、アジア人による日本論にはお目にかかったことがある人は何人ぐらいいるだろうか?私自身について述べれば、客観的な視点から、その生活スタイル、観念・思想、歴史・文化背景について分析した書籍に出会った記憶は皆無だ。であるので、今回本書と出会えた(韓国と日本の比較)のは非常に素晴らしい糧となった。読了後、「自身、よくもまぁ隣国の声を聞かずしてどうして『日本論』を語ってきたものだな」と自戒の念にかられた次第である。また、この世に行き渡る『知の海の広大さ』を改めて感じ取ることができた点においても、本書には感謝しきれない。
本書の素晴らしい点、それは今まで「日本独自のもの」と考えられてきたことの多くが、実は層ではなかったということを教えてくれる。また、日本人の自然観についても、それが「本来の自然」そのものを取り入れる類のものではなく、なかば「力ずく」で取り入れてきたという解釈は私の目に新しく映ったものだ。著者がとりあげている日本の石庭について当てはめると、石庭にみられる世界、それは宇宙・自然界を「手ごろな場所」と「手ごろな大きさ」に圧縮したものであり、そのためにもの凄い労力が費やされているとのことだ。なるほど、日本人は西洋人のように「自然を支配しよう」という意気込みはなかったが、「自然を手元に置いて楽しもう」とした点で、西洋人と同じく「力ずく」で自然に手を加えてきたのは間違いなさそうである。
また、扇子の解釈についても面白い論を展開している。扇子は外部に漂う様々な事象に触れ合い、扇ぐ行為を通して、外部の事象を要約することができる道具であると述べる。また、小さく「縮める」ことができるので、どこへでも持ち運べることができ、かつ、不意をついて取り出すことができる道具でもある。「要約性」・「携帯性」・「隠遁性」…日本人が得意とする能力の多くが扇子という一つの道具に集約されていること、理解できよう。
その他、茶・文楽・家紋・食べ物に関しても、鋭い切れ味ある論を展開している。日本について多角的な視点を学びたいという人は是非とも本書を取っていただきたい。欧米人の考える『ニホン』とは、一味も二味も異なる『日本像』を垣間見ることができるに違いない。
※改めて多角的な視点を取り入れることの大切さを思い知らされました。同時に、自分の中で、割れた茶碗に対し「割れた茶碗を繋ぎ合わせる金・漆に、モノに宿る魂」なるものを見出すことができました。見出した内容を記すと、次のようになります…【茶碗の修復が目指すのは、「割れた瞬間の形態」…割れた瞬間にモノから「魂」が抜け出すと考えると、修復の際に用いる金・漆は魂そのものを表現しているものではないか】…うーん、もう少し詰めて論に仕上げたいところですね。
さて、行動が大切だ!といいつつ、びびって自ら行動をとることに躊躇してばかりの小心者えびすが紹介する一冊はこちら。
日本人による日本論、欧米人による日本論はしばしばよく目にするところだ。前者であれば、古くは新渡戸稲造の『武士道』、近年であれば内田樹の『日本辺境論』あたりが参考になる。後者であれば、ルース・ベネディクトの『菊と刀』、ロラン・バルトの『表徴の帝国』(本人は日本論ではないと述べているが)が有名であろう。私自身、これら著作については「なるほど」と思わされるところが多々あった。とりわけ、『表徴の帝国』には舌を唸らされたものだ。
さて、アジア人による日本論にはお目にかかったことがある人は何人ぐらいいるだろうか?私自身について述べれば、客観的な視点から、その生活スタイル、観念・思想、歴史・文化背景について分析した書籍に出会った記憶は皆無だ。であるので、今回本書と出会えた(韓国と日本の比較)のは非常に素晴らしい糧となった。読了後、「自身、よくもまぁ隣国の声を聞かずしてどうして『日本論』を語ってきたものだな」と自戒の念にかられた次第である。また、この世に行き渡る『知の海の広大さ』を改めて感じ取ることができた点においても、本書には感謝しきれない。
本書の素晴らしい点、それは今まで「日本独自のもの」と考えられてきたことの多くが、実は層ではなかったということを教えてくれる。また、日本人の自然観についても、それが「本来の自然」そのものを取り入れる類のものではなく、なかば「力ずく」で取り入れてきたという解釈は私の目に新しく映ったものだ。著者がとりあげている日本の石庭について当てはめると、石庭にみられる世界、それは宇宙・自然界を「手ごろな場所」と「手ごろな大きさ」に圧縮したものであり、そのためにもの凄い労力が費やされているとのことだ。なるほど、日本人は西洋人のように「自然を支配しよう」という意気込みはなかったが、「自然を手元に置いて楽しもう」とした点で、西洋人と同じく「力ずく」で自然に手を加えてきたのは間違いなさそうである。
また、扇子の解釈についても面白い論を展開している。扇子は外部に漂う様々な事象に触れ合い、扇ぐ行為を通して、外部の事象を要約することができる道具であると述べる。また、小さく「縮める」ことができるので、どこへでも持ち運べることができ、かつ、不意をついて取り出すことができる道具でもある。「要約性」・「携帯性」・「隠遁性」…日本人が得意とする能力の多くが扇子という一つの道具に集約されていること、理解できよう。
その他、茶・文楽・家紋・食べ物に関しても、鋭い切れ味ある論を展開している。日本について多角的な視点を学びたいという人は是非とも本書を取っていただきたい。欧米人の考える『ニホン』とは、一味も二味も異なる『日本像』を垣間見ることができるに違いない。
※改めて多角的な視点を取り入れることの大切さを思い知らされました。同時に、自分の中で、割れた茶碗に対し「割れた茶碗を繋ぎ合わせる金・漆に、モノに宿る魂」なるものを見出すことができました。見出した内容を記すと、次のようになります…【茶碗の修復が目指すのは、「割れた瞬間の形態」…割れた瞬間にモノから「魂」が抜け出すと考えると、修復の際に用いる金・漆は魂そのものを表現しているものではないか】…うーん、もう少し詰めて論に仕上げたいところですね。
2010年11月10日水曜日
My Suspicious eye on the enlightenment in deep consideration
空間の演出と創造性の喚起についてしばしば考えさせられます。最近は専ら広い空間の下で色々と思念を馳せているのですが、これがどうも狭くて窮屈な場所より、ひらめきがバンバン生まれてくるような気がするんですねぇ。家で机に向かってグーッと集中するのはどうも苦手になっちゃったようです。これについて、先日友人とだらだら話していたのですが、お互いの同意が取れたのは「他の人の視線が程よく入ってくる空間が一番集中力が出やすい」という点。なんか、頑張ってる俺ってかっこいい?みたいな錯覚に陥るのだとか。え、僕もそんなひとり?いやいや、カフェで仕事している姿を見たら、傍から離れたくなること保証します。
さて、カフェを渡り歩く生活がすっかり板についてきて、定員さんに顔を覚えられるまでになってしまったことに、おどおどしている小心者えびすが紹介する一冊はこちら。
公案は臨済宗の修行において、欠かすことができない「修行」ツールとなっている。その修行スタイルは、師匠が弟子に「ナゾナゾ」を問いかける類のものだ。ナゾナゾが解けた弟子は、晴れて師匠から悟りの印加を貰う。師匠から印加を貰わない限り、悟りを開くことはできないとするのが臨済宗の教えのようだ。ただし、公案はあくまでも悟りにいたる修行ツールであり、それを解くことが目的になっているというわけではない点、留意されたい。
さて、臨済宗を取り上げれば、真言宗を取り上げないわけにはいかないだろう。真言宗は師空海によって開かれた宗派である。その修行スタイルはいたって明瞭簡潔、肉体的・精神的に自身を極限状態に追い込んでいくものだ。臨済宗のように頭であれこれを考えることによって、悟りに至る(師匠より印加を貰う)のではなく、自身の内で「これだ」と悟って初めて開眼したとする宗派だ。
日本には数多くの仏教の宗派がある。天台宗、全ての宗派に通じるものもあれば、宗派ごとに異なるものもある。先に示した臨済宗と真言宗の悟りに対する考え方の違いが良い例となろう。「悟る」という共通の目標に対して、両者は全く異なる考え方に従って修行を課している。
宗派による考え方の違いは何も仏教に限ったことではない。これはみなよく知るところだろう。イスラム教のスンニー派とシーア派、キリスト教のカトリックとプロテスタントなど、共通の師を持つにもかかわらず、宗派ごとに戒律を異にしている例はごまんとあるに違いない。また、自分が属している宗派の考えと違う考えを持つ宗派に対しては、敵対的な態度をとることもしばしば起こっている。
実は公案については私自身、懐疑を抱いている点打ち明けたい。なぜかというと、「印加」をもって「悟り」を認めるという明確な基準があると、いくら弟子に「公案は悟りにいたるツールだ」と諭したとしても、それを解くことに目的意識が移ってしまうのは避けられないだろうと考えられるからだ。言うはやすし、制するは堅しである。このような危惧は本書にも記載されているところであり、悟りの必須要件に位置づけるに否定的な人も多数いることだろう。ただし、公案そのものの内容はとても素晴らしいものであり、これを後世に伝えていくという点を鑑みると、「公案による悟り」を廃絶してしまうのはいささか勿体無いのも事実だ。もっとも、公案が仏教の枠を越え出でて、広く大衆一般にまで知れ渡るようになれば話は違ってくるのだろうけれども。
※書評というよりは、禅に対する僕の考えを述べるカタチになっちゃいましたね。公案を褒賞に変えて考えてみると、面白い一面が見えてくるのではないでしょうか。褒章というインセンティブを掲げると、多くの人はそれを目指して頑張りますが、それを勝ち取った瞬間・目的を達成した瞬間に一気にモチベーションが下がる・怠けるといったことが起きています。これについては先に紹介した書籍「Drive」を参照していただくとよくわかるのではと思います。人のやる気・モチベーションを操るのは本当に難しい…僕が公案から学んだものは「反面教師」であるような気がします。かなり否定的な表になっちゃいましたが、公案の問題自体はどれも素晴らしいものばかりです。頭の体操をしたい人は是非挑戦してみてください。ちなみに僕は1問も解くことができませんでした…何を持って解けたかは師匠に教えてもらうしかないので、今の環境下で公案を解くことなどできるはずが無いんですけどね。
さて、カフェを渡り歩く生活がすっかり板についてきて、定員さんに顔を覚えられるまでになってしまったことに、おどおどしている小心者えびすが紹介する一冊はこちら。
公案は臨済宗の修行において、欠かすことができない「修行」ツールとなっている。その修行スタイルは、師匠が弟子に「ナゾナゾ」を問いかける類のものだ。ナゾナゾが解けた弟子は、晴れて師匠から悟りの印加を貰う。師匠から印加を貰わない限り、悟りを開くことはできないとするのが臨済宗の教えのようだ。ただし、公案はあくまでも悟りにいたる修行ツールであり、それを解くことが目的になっているというわけではない点、留意されたい。
さて、臨済宗を取り上げれば、真言宗を取り上げないわけにはいかないだろう。真言宗は師空海によって開かれた宗派である。その修行スタイルはいたって明瞭簡潔、肉体的・精神的に自身を極限状態に追い込んでいくものだ。臨済宗のように頭であれこれを考えることによって、悟りに至る(師匠より印加を貰う)のではなく、自身の内で「これだ」と悟って初めて開眼したとする宗派だ。
日本には数多くの仏教の宗派がある。天台宗、全ての宗派に通じるものもあれば、宗派ごとに異なるものもある。先に示した臨済宗と真言宗の悟りに対する考え方の違いが良い例となろう。「悟る」という共通の目標に対して、両者は全く異なる考え方に従って修行を課している。
宗派による考え方の違いは何も仏教に限ったことではない。これはみなよく知るところだろう。イスラム教のスンニー派とシーア派、キリスト教のカトリックとプロテスタントなど、共通の師を持つにもかかわらず、宗派ごとに戒律を異にしている例はごまんとあるに違いない。また、自分が属している宗派の考えと違う考えを持つ宗派に対しては、敵対的な態度をとることもしばしば起こっている。
実は公案については私自身、懐疑を抱いている点打ち明けたい。なぜかというと、「印加」をもって「悟り」を認めるという明確な基準があると、いくら弟子に「公案は悟りにいたるツールだ」と諭したとしても、それを解くことに目的意識が移ってしまうのは避けられないだろうと考えられるからだ。言うはやすし、制するは堅しである。このような危惧は本書にも記載されているところであり、悟りの必須要件に位置づけるに否定的な人も多数いることだろう。ただし、公案そのものの内容はとても素晴らしいものであり、これを後世に伝えていくという点を鑑みると、「公案による悟り」を廃絶してしまうのはいささか勿体無いのも事実だ。もっとも、公案が仏教の枠を越え出でて、広く大衆一般にまで知れ渡るようになれば話は違ってくるのだろうけれども。
※書評というよりは、禅に対する僕の考えを述べるカタチになっちゃいましたね。公案を褒賞に変えて考えてみると、面白い一面が見えてくるのではないでしょうか。褒章というインセンティブを掲げると、多くの人はそれを目指して頑張りますが、それを勝ち取った瞬間・目的を達成した瞬間に一気にモチベーションが下がる・怠けるといったことが起きています。これについては先に紹介した書籍「Drive」を参照していただくとよくわかるのではと思います。人のやる気・モチベーションを操るのは本当に難しい…僕が公案から学んだものは「反面教師」であるような気がします。かなり否定的な表になっちゃいましたが、公案の問題自体はどれも素晴らしいものばかりです。頭の体操をしたい人は是非挑戦してみてください。ちなみに僕は1問も解くことができませんでした…何を持って解けたかは師匠に教えてもらうしかないので、今の環境下で公案を解くことなどできるはずが無いんですけどね。
2010年11月8日月曜日
A little money could change the world !
新しい季節の始まりには、新しい志を持って歩みたいもの。立冬も過ぎて、いよいよ夜風が体に刺さるくらいになってきました。僕自身も、将来のことで色々と変なものを自らの手で刺してしまっている状況です。改めてflexibleな心を持つこと、相手のことを思うことの大切さを感じた次第であります。え?失恋?あたって砕けてなんぼです、人生は!
さて、寂しい夜長を癒してくれる「ほっとココア」を飲みながら、のんびり桑田さんの歌に心を慰めてもらっている、冬の河原に体育座りする姿がやたらさまになるオトコ、えびすが紹介する一冊はこちら。
近年の社会起業家の活躍には目を見張るものがある。3年ほど前までは、社会起業家という言葉が耳に入ることなど、ほとんど無かったように記憶している。3年前といえば世界経済が絶好調に突っ走っていた時代であり、社会貢献・弱者救済などに「かまってられない」環境だったのだろう(と私は勝手な解釈をししている)。とりわけ、一般大衆の人々の経済危機前後における社会起業家に対する眼差し・注目は大きく異なるのではなかろうか。自身が厳しい身におかれた状況にあって、弱者の立場にちかいポジションに立つに至って、初めて社会起業家の存在意義なるものを理解することができたのかもしれない。もちろん、メディアの効果が最も大きいのは承知の上である。
さて、社会起業家がたくさん生まれるのは喜ばしいことである。世の中に「良いことをしよう」という熱い思いを持つ人がたくさん現れれば、社会もより住みやすく、協同しようという気概が生まれやすくなるに違いない。どこで発生したかもわからないほどの小さなはばたきが、世界を変えうる大きな風に変わりうる可能性など皆無だと誰がいえようか。偉大な先達はみな小さなはばたきからスタートしたものである。今日の社会企業の5年後の姿を頭の中に思い描いてみよう…1から3へ、3から10へ、10から100へ…世界を変えるまでに成長した姿を想像すると、自然と頬が緩むものである(少なくとも私はそうだ)。
良いことは続けたい。この事業を持続できればもっと世界はよくなる…ここで社会起業家に一つ目の壁が立ちはだかることとなる。その壁とは「継続性と収支」である。世間の中には「社会企業なるものは利益を求めない団体(NPO)だろ。お金を儲ける・有料でサービスを提供するなどといったことは言語道断の行為だ!」という観念をもっている人もいると聞く。ここまでいかなくとも、多くの人はお金を徴収するというモデルに対して、いささか抵抗を抱いているのが現状だ。
そんな中、NPO法人Table For Two(以下TFT)代表である著者が打ち立てた経営モデルは異彩を放つ。経営モデルとして彼が提唱したのは、「お金を全く貰わずにサービスを提供するのではなく、小額のお金を消費者から頂いて、そのお金を貧しい国への寄付や自身の社会企業の運営資金に当てる」というものだ。会社での食事一食あたり20円を半強制的(自由意志でプログラムが提供する食事を選択できる)に徴収するプログラムを大企業各社で展開している。
ビジネス畑出身の筆者が企業に歩み寄るテクニックは勉強になる。CSR部門なら「どれだけおおくの従業員が社会貢献に参加できるか」を強く出し、人事部の場合なら「メタボ対策」、総務部なら「給食会社との価格交渉の請負」をする等、TFTのプレゼンス内容を各々の部門が「触手を出し」やすい形に変えていく。相手側のメリットをしっかりと考えることで、採用の確立もぐっと上がり、お互いにwin-winの関係を築くことができる。
「ビジネスとしての社会企業」という言葉ほど、TFTが提供する事業内容に適した言葉は無いだろう。企業運営を寄付に頼ることなく、なおかつ社会貢献に繋げられるビジネスモデルが日本から生み出されたのはとても有意義なことだ。今後、世界中で本プログラムが展開され、一つの成功モデルとして確立されれば、日本社会でも「職業の一つ」として社会企業が認知されるようになる、そんな気がしてならない。
※本書を読んだときの衝撃はかなりのものでした。社会貢献とビジネスをつなげる方法など、到底思いつかなかったのですが、本書を読んだ後に「あぁ、こんな展開の仕方があったのか」とひどく納得させられてしまいました。無理なく・持続的に・多くの人を巻き込むためにはどうすればいいのだろうか?とりわけ、社会企業が取り扱う事業内容は短期間で効果が出るようなものではありません。持続性を持たせる、そのためはどういったところからお金を集めてこればよいのか…今後、多くの社会企業がTFTのようなビジネスベースの事業モデルを導入し、持続性を持った運営ができるようになると、よりすみやすい社会ができるのではないでしょうか?「綺麗ごとばかりいってんじゃねぇ」としばしば言われるのですが、「綺麗ごとが無い」=「綺麗ごとが普通」な世界を作って生きたいものです。あ、希望じゃ駄目だ、作っていきます!
さて、寂しい夜長を癒してくれる「ほっとココア」を飲みながら、のんびり桑田さんの歌に心を慰めてもらっている、冬の河原に体育座りする姿がやたらさまになるオトコ、えびすが紹介する一冊はこちら。
近年の社会起業家の活躍には目を見張るものがある。3年ほど前までは、社会起業家という言葉が耳に入ることなど、ほとんど無かったように記憶している。3年前といえば世界経済が絶好調に突っ走っていた時代であり、社会貢献・弱者救済などに「かまってられない」環境だったのだろう(と私は勝手な解釈をししている)。とりわけ、一般大衆の人々の経済危機前後における社会起業家に対する眼差し・注目は大きく異なるのではなかろうか。自身が厳しい身におかれた状況にあって、弱者の立場にちかいポジションに立つに至って、初めて社会起業家の存在意義なるものを理解することができたのかもしれない。もちろん、メディアの効果が最も大きいのは承知の上である。
さて、社会起業家がたくさん生まれるのは喜ばしいことである。世の中に「良いことをしよう」という熱い思いを持つ人がたくさん現れれば、社会もより住みやすく、協同しようという気概が生まれやすくなるに違いない。どこで発生したかもわからないほどの小さなはばたきが、世界を変えうる大きな風に変わりうる可能性など皆無だと誰がいえようか。偉大な先達はみな小さなはばたきからスタートしたものである。今日の社会企業の5年後の姿を頭の中に思い描いてみよう…1から3へ、3から10へ、10から100へ…世界を変えるまでに成長した姿を想像すると、自然と頬が緩むものである(少なくとも私はそうだ)。
良いことは続けたい。この事業を持続できればもっと世界はよくなる…ここで社会起業家に一つ目の壁が立ちはだかることとなる。その壁とは「継続性と収支」である。世間の中には「社会企業なるものは利益を求めない団体(NPO)だろ。お金を儲ける・有料でサービスを提供するなどといったことは言語道断の行為だ!」という観念をもっている人もいると聞く。ここまでいかなくとも、多くの人はお金を徴収するというモデルに対して、いささか抵抗を抱いているのが現状だ。
そんな中、NPO法人Table For Two(以下TFT)代表である著者が打ち立てた経営モデルは異彩を放つ。経営モデルとして彼が提唱したのは、「お金を全く貰わずにサービスを提供するのではなく、小額のお金を消費者から頂いて、そのお金を貧しい国への寄付や自身の社会企業の運営資金に当てる」というものだ。会社での食事一食あたり20円を半強制的(自由意志でプログラムが提供する食事を選択できる)に徴収するプログラムを大企業各社で展開している。
ビジネス畑出身の筆者が企業に歩み寄るテクニックは勉強になる。CSR部門なら「どれだけおおくの従業員が社会貢献に参加できるか」を強く出し、人事部の場合なら「メタボ対策」、総務部なら「給食会社との価格交渉の請負」をする等、TFTのプレゼンス内容を各々の部門が「触手を出し」やすい形に変えていく。相手側のメリットをしっかりと考えることで、採用の確立もぐっと上がり、お互いにwin-winの関係を築くことができる。
「ビジネスとしての社会企業」という言葉ほど、TFTが提供する事業内容に適した言葉は無いだろう。企業運営を寄付に頼ることなく、なおかつ社会貢献に繋げられるビジネスモデルが日本から生み出されたのはとても有意義なことだ。今後、世界中で本プログラムが展開され、一つの成功モデルとして確立されれば、日本社会でも「職業の一つ」として社会企業が認知されるようになる、そんな気がしてならない。
※本書を読んだときの衝撃はかなりのものでした。社会貢献とビジネスをつなげる方法など、到底思いつかなかったのですが、本書を読んだ後に「あぁ、こんな展開の仕方があったのか」とひどく納得させられてしまいました。無理なく・持続的に・多くの人を巻き込むためにはどうすればいいのだろうか?とりわけ、社会企業が取り扱う事業内容は短期間で効果が出るようなものではありません。持続性を持たせる、そのためはどういったところからお金を集めてこればよいのか…今後、多くの社会企業がTFTのようなビジネスベースの事業モデルを導入し、持続性を持った運営ができるようになると、よりすみやすい社会ができるのではないでしょうか?「綺麗ごとばかりいってんじゃねぇ」としばしば言われるのですが、「綺麗ごとが無い」=「綺麗ごとが普通」な世界を作って生きたいものです。あ、希望じゃ駄目だ、作っていきます!
2010年11月6日土曜日
Does A Χ Dimensions World Exist?
大好きなことに熱中すると時間を忘れる…歳をとると時間が立つのが早くなる…面白いもので、二つの時間の感じ方の核は供に「時間が過ぎるのが速く感じる」というものなのですが、その感じ取り方は大きく異なるように思います。前者は、未知のものにふれあって「なんじゃこりゃ」と思っているうちに時間が過ぎていくのに対し、後者は、いろいろ知りすぎてすぐさま直感的に物事・事象の展開を捉えるうちに時間が過ぎていくように思います。前者は頭をフルに回転させて、倍速で脳を酷使することにより時間が早く感じる、後者は反対に、直観で物事・事象がどのような結果に至るかがわかってしまうので、身の回りの様々な物事・事象が頭の中を通り過ぎていく。しこうして、時間が早く感じるというわけです。まぁ僕の考えなんで、科学的な根拠は全く無いんですけれどね。
さて、理系の道から外れて早3ヶ月、最近妙に数式と向かいたい思いがふつふつと湧き上がってきているけれど、いざ向き合うとそっぽ向いてしまう軟弱男えびすが紹介する一冊はこちら。
われわれが生きている世界は何次元だろう?次元という言葉を覚えたのはおそらく小学生時代のTV番組特集からだったと記憶しているが、次元の概念を理解したのは中学校に入ってからだった。先生は「この世界は3次元で成り立っている」という類の言葉を発していたように記憶しているが、その後、高校に上がってのち、世界はデカルト座標の3次元に時間軸をあわせた4次元であることを理解したものだ。
次元の概念は様々な事象に展開できる。あるフレームの中での原子の動き、統計データの解析、人間の人生etc…それぞれ特有の「次元」を有しているのがわかるであろう。例えば統計データの解析であれば、x=全体売上量 y=リピーター率 z=市場全体の変化 t=時間 α=年齢層 β=各時間の売上量と6次元の世界で統計データを考える必用がある。「数学は苦手」と言っておきながら、実務では学校で教わらないようなレベルの次元を容易く扱っているのだから、ビジネスの世界で働く人たちのポテンシャルはあなどれない。
さて、本書の中身に入っていこう。我われは宇宙を4次元(3次元のデカルト空間+時間)でとらえている。これは教科書にもその図が描かれていることから、宇宙の一概念として広く受けとめられている。だが、それは本当に宇宙は4次元の世界に収まっているのだろうか?銀河なるものは、外に開かれたまま、膨張し続けているのだろうか?
現行の考え型に則ると、宇宙には「端」が存在することなり、そこにいたった時には何が起こりうるのか予想ができない。いくら宇宙が膨張しているとはいえ、短い時間でとらえれば「端」はその都度そこに現れるはずだ。だが、それでも、概念として捉えることができない…色んな考え方が展開されてきたがイマイチ腑に落ちる物が無い…宇宙を4次元の世界で考えている限り、それを頭の中に思い描くことはできないままだ。ではどうする?宇宙を4次元で考えなければ良い。
いきなり4次元でとらえるなといわれても、理解に困るものだ…一度染み付いた概念というものはなかなか拭い去れないのはどの世界でも共通のことである。大切なのは、新しい概念・考えに出会ったときに、自らの頭を使って考え、理解しようという心だ。というわけで、4次元の宇宙観から脱出し、新しい宇宙を頭の中に思い浮かべていこう。
まずは宇宙の平面化から考えてみる。3次元にばーッと広がっている宇宙を平面に落とし込んで考える。身近な例で言うところの「写真」を思い浮かべてもらえれば良い。
苦労して、何億年もかかって宇宙の端までをくまなく「写真」に収めることができたとしよう。各々の写真を繋ぎ合わせてると3次元だった宇宙が「2次元」の世界に収まる。次に、この写真を丸めて、上下、左右を繋ぎ合わせて欲しい。すると、ドーナツ状の3次元の宇宙が出来上がることがわかる。この宇宙にあっては、一つの方向に進むと、グルーッと宇宙を周るだけで、「端」に行き着くことは無い。閉空間の宇宙が出来上がったわけだ。さて、ここで注意していただきたいのは、我われが思い描く3次元の宇宙が、ドーナツの表面に「乗っかっている」点である。ドーナツの中に存在しているのではなく、その表面に存在している…ふむ、難しい。
本書で描かれる宇宙は、さらに広がりを見せていくのだが、これ以上は上手く説明できそうに無いので、ここで筆をおかせていただきたく思う。深遠な世界をのぞくこと、頭を唸らせながら、何時間もかけて事象を把握すること…是非とも若いうちに経験しておきたいことである。
※おそらくこれまで紹介した書籍の中では、「書かれている内容を理解する」という点で断トツのNo.1に位置するかと思います。ぼく自身も相当に頭を痛めました、はい。4次元の宇宙をぶち壊せといわれてもねぇ…新しい像を思い描くにあたって、生半可な思考・短期的な解決の期待をもってしても、有益なものを得られる可能性は低いと思います。じっくりと腰をすえて、長い目で見て理解に励む。問題に直面した時に、すぐに答えに走ってしまう現在の風潮の下では「煩わしい」と思いのことでしょうが、一流の人はこれを「楽しい」ことと捉え、ああでもないこうでもないと考えるそうです。これを繰り返して、一つの自分の理解像が組みあがるわけですね。比較的時間に余裕がある学生時代に、頭を使いまくって「楽しい」世界を経験すること…今一度、世の中に呼び戻したい流れであります。
さて、理系の道から外れて早3ヶ月、最近妙に数式と向かいたい思いがふつふつと湧き上がってきているけれど、いざ向き合うとそっぽ向いてしまう軟弱男えびすが紹介する一冊はこちら。
われわれが生きている世界は何次元だろう?次元という言葉を覚えたのはおそらく小学生時代のTV番組特集からだったと記憶しているが、次元の概念を理解したのは中学校に入ってからだった。先生は「この世界は3次元で成り立っている」という類の言葉を発していたように記憶しているが、その後、高校に上がってのち、世界はデカルト座標の3次元に時間軸をあわせた4次元であることを理解したものだ。
次元の概念は様々な事象に展開できる。あるフレームの中での原子の動き、統計データの解析、人間の人生etc…それぞれ特有の「次元」を有しているのがわかるであろう。例えば統計データの解析であれば、x=全体売上量 y=リピーター率 z=市場全体の変化 t=時間 α=年齢層 β=各時間の売上量と6次元の世界で統計データを考える必用がある。「数学は苦手」と言っておきながら、実務では学校で教わらないようなレベルの次元を容易く扱っているのだから、ビジネスの世界で働く人たちのポテンシャルはあなどれない。
さて、本書の中身に入っていこう。我われは宇宙を4次元(3次元のデカルト空間+時間)でとらえている。これは教科書にもその図が描かれていることから、宇宙の一概念として広く受けとめられている。だが、それは本当に宇宙は4次元の世界に収まっているのだろうか?銀河なるものは、外に開かれたまま、膨張し続けているのだろうか?
現行の考え型に則ると、宇宙には「端」が存在することなり、そこにいたった時には何が起こりうるのか予想ができない。いくら宇宙が膨張しているとはいえ、短い時間でとらえれば「端」はその都度そこに現れるはずだ。だが、それでも、概念として捉えることができない…色んな考え方が展開されてきたがイマイチ腑に落ちる物が無い…宇宙を4次元の世界で考えている限り、それを頭の中に思い描くことはできないままだ。ではどうする?宇宙を4次元で考えなければ良い。
いきなり4次元でとらえるなといわれても、理解に困るものだ…一度染み付いた概念というものはなかなか拭い去れないのはどの世界でも共通のことである。大切なのは、新しい概念・考えに出会ったときに、自らの頭を使って考え、理解しようという心だ。というわけで、4次元の宇宙観から脱出し、新しい宇宙を頭の中に思い浮かべていこう。
まずは宇宙の平面化から考えてみる。3次元にばーッと広がっている宇宙を平面に落とし込んで考える。身近な例で言うところの「写真」を思い浮かべてもらえれば良い。
苦労して、何億年もかかって宇宙の端までをくまなく「写真」に収めることができたとしよう。各々の写真を繋ぎ合わせてると3次元だった宇宙が「2次元」の世界に収まる。次に、この写真を丸めて、上下、左右を繋ぎ合わせて欲しい。すると、ドーナツ状の3次元の宇宙が出来上がることがわかる。この宇宙にあっては、一つの方向に進むと、グルーッと宇宙を周るだけで、「端」に行き着くことは無い。閉空間の宇宙が出来上がったわけだ。さて、ここで注意していただきたいのは、我われが思い描く3次元の宇宙が、ドーナツの表面に「乗っかっている」点である。ドーナツの中に存在しているのではなく、その表面に存在している…ふむ、難しい。
本書で描かれる宇宙は、さらに広がりを見せていくのだが、これ以上は上手く説明できそうに無いので、ここで筆をおかせていただきたく思う。深遠な世界をのぞくこと、頭を唸らせながら、何時間もかけて事象を把握すること…是非とも若いうちに経験しておきたいことである。
※おそらくこれまで紹介した書籍の中では、「書かれている内容を理解する」という点で断トツのNo.1に位置するかと思います。ぼく自身も相当に頭を痛めました、はい。4次元の宇宙をぶち壊せといわれてもねぇ…新しい像を思い描くにあたって、生半可な思考・短期的な解決の期待をもってしても、有益なものを得られる可能性は低いと思います。じっくりと腰をすえて、長い目で見て理解に励む。問題に直面した時に、すぐに答えに走ってしまう現在の風潮の下では「煩わしい」と思いのことでしょうが、一流の人はこれを「楽しい」ことと捉え、ああでもないこうでもないと考えるそうです。これを繰り返して、一つの自分の理解像が組みあがるわけですね。比較的時間に余裕がある学生時代に、頭を使いまくって「楽しい」世界を経験すること…今一度、世の中に呼び戻したい流れであります。
2010年11月3日水曜日
『和の心』 ≠ 『無為自然』 !?
秋の深まりを感じ取る今日この頃。散歩中に、金木犀の甘い香りが、銀杏の渋みある香りにうつりかわった空気をしばしば感じているところです。香りから我われ日本人が感じ取るものは、諸外国の方々のそれと少し違うものでありましょう。これは古来のアーティストが残した短歌や俳句にしばしば見出すことができます。で、この香について、僕がしばしば経験し、不思議に感じているのが『香りが引き起こす想像』についてです。例をあげるとこんな感じ。
ある場面(B)である香り(A)を感じ取ったとします。意識化では、A → B といった形で結びつけることはしていないはずなんですが、どうも、無意識下ではA ∊ B といった具合にその二つを関連付けていると。よってAと類似した香りを感じ取ることで、Bが引き出されてくるというわけです…ここまでは、まぁ理解できるんです。でも、もう一段階下に降りたところ、AがBではなく、全く身に覚えのないCを引き出してくることがある。系譜としてはA ∊ B ∊ C もしくはA ∊ C ∊ B といった感じです。Cの位置はぼく自身も良くわかっていません、はい、すいません。
これは世間で言うところの『アナロジー』と一致するところがあります。ただ、アナロジーは連結点を明確に「意識して」造り出すプロセスを踏んでおり、連関に論理を持たせることができている。しかし、上に述べたAがCを引き起こす事象では、論理なるものは全く欠けているわけです。「なんでそこにつながるねん」と突っ込みたくなるばかりに。
面白いのは、この一見連関がないように見えるCが、様々な場面で「新たな創造性」を生み出しうるということです。既存の枠に当てはまらないからこそ、ぶっ飛んだところに行き着く考えだからこそ、誰にも上手く説明ができないことだからこそ、それがもつ可能性のフレームはもの凄く広い。ただ、誰にも理解できないから「そっぽ向かれ」「どこかに捨て去られる」という問題を抱えているのは事実。脈絡のない、だけど可能性だけはやたらにドデカイものを持つこいつを以下にコントロールするか…。
ここまで綴ってきた文章を鑑みると、僕はどうやら『直観がもたらすチャンスをいかに形にしていくかの術』を模索しているみたいです。まぁ、そもそも論として、そんな術があるのかという話なんですけれど。さて、前置きが長くなりましたが、今日は一つの展示を紹介したく思います。※内心久しぶりの芸術評、どうなることやら…と怯えております…。

ネイチャー・センスを直訳すると「自然を知覚する潜在的な力」といったところでしょうか。ただ、『自然を感じ取るという力』ではなく、さらに深く踏み込んで、『自然が織り成す事象とはいったい何ものであるのかを身体で感じ取る力』を指しているものと推測します。自然から刺激を受け、その刺激が五感を経て、我われの脳内で多様なフェースを持つ情報に変換され、その幾つかが魂にと送り出される…各々のフェーズをしっかりと理解したい所ではありますが、いかんせん、それには超人的な思考力が必要とされます。刺激を受ける対象はどういったものか。その対象は五感の感覚のそれぞれに収まりきるものか否か。収まりきるならば、それぞれの五感にはどういった作用があり、その作用はどんな情報へと変換されるのか。その変換の過程で他の要素が関連してくるのかしてこないのか。情報の加工の幅はどこまで広がるのか。広がった先にあるのはどういった世界か・・・書き連ねるときりがないです、はい、ここで止めます。
ネイチャー・センスがゲストにどの程度の力を要求しているのかはわかりません。上に挙げたことも、僕の勝手な脳内想像にすぎません。ただ、勝手な想像ではありますが、この想像を繰り返すことで、物事を多面的に見る、深く考えてみる、逆さ眼鏡をかけてみるetc…といったことが、瞬発的にできるようになるのではと思う次第です…もちろん、「~してみる」先に待ち構える「深い思考」に至るのが本当の目的である点、見逃してはいけません。
ちょこっと、持論がすぎました・・・。肝心の評について一つだけご紹介させていただきたく。
『GINGA』
作家によると、重森三玲が設計した庭に着想を得てつくった作品とのこと。枯山水の砂紋を水面の波紋に見出したとのことで、この作品を少し深く探って見たく思います。
1.波紋と時間と人生と。
上空から水滴が、地上の水面と交わるその瞬間に生み出される波紋…それは時が経過するにつれ、同心円状に外に歩みゆき、やがては力尽きて消えていくもの…いや、消えたわけではない。微かな「波」は永久に消えうせることはない…ただ、僕達が感じ取ることができないまでに減衰しただけ。なぜ減衰するかって?それは、波が外に歩みだす力に変わったからだ。高いところから水滴が落ちる。その水滴は位置エネルギーというポテンシャルを持ち、水面と接触することで波を創る。たとえるならば、『卵を床に落としたときに、卵の殻が割れる、殻を割る力は「高さ」がもつポテンシャルがあったからこそ生み出された』…これを作品に当てはめると、高いところから落ちた雫のポテンシャルが波を生み出すために使われたわけだ。そして、生まれた波は外に向かって歩みだす。最初は赤ちゃんのように、活発で力強い…そして、時の経過と共に波の高さは低くなり、波紋は大きくなっていく…日常の感覚では捉えきることができないレベルまで減衰していく。でも、完全に無くなりはしない。波は一定の周期を維持し続ける…たとえその大きさが変わろうとも。そこに見出すは、事象のフラクタル性であろうか…我われが把握する世界は、我われが想像する以上に「同一性」ある「何ものか」から織り成されているのは間違いないだろう。
2.時を止める・時を放つ
時をとどめた世界だからこそ見出せる何か、時をとどめない世界だからこそ見出せる何か。枯山水の石庭では解放されなかった「時間」をこの作品は見事に解放した。枯山水にみる宇宙は「こんにゃろう」という封じ込める力を、GINGAに見る宇宙は事象の儚さと永遠性を感じ取れるだろう。
ただ、一点考慮されたい点もある。それは『日本人のネイチャー・センス』についてだ。しばしば、無為自然こそ日本の芸術に見出せるものだと述べるヒトもいるが、日本の芸術においては、無為自然を感じ取れる作品は少ない…というのが私の見解である。枯山水にしても、欠けた茶碗にしても、生け花にしても、それを留めるに外から多大な力を付与している点は理解されよう。さて、この事実を鑑みると、いささか本展覧会の主題に疑問が湧き出てくるのは致し方がない…。
※さて、久しぶりにじっくりと美術館をまわらせていただいたのですが、今回の3人の作家がつくりだした空間に、ため息ばかりが出る結果となりました。「あぁ、なんと素晴らしい展示であるか」と。現代アートを「わけがわかない」で済ましてしまうのは勿体無いです。そこには色んな潜在性が内包されています。とくに、若い作品ほどその潜在性のフレームは広い…というのも、旧く有名な作品には、たくさんの「解釈」が付けられているため、どうしてもそれに影響されてしまうところがあります(良いにつけ悪いにつけです)が、人目に触れず、あんまり解釈が世のなかに広まっていない若い作品については、外から受ける情報の量が少ないため、自分の力で解釈を生み出す必要がある。もちろん、そんなことしたくな~いって人はする必要はありません(笑)。でも、僕はしちゃうタイプです。何せ、この自ら創りあげた解釈は『世界にたった一つの考え』であり、後世のいろんな場面で役に立つものでありますから。様々な経験を積み重ねつつ得たものを上手く人生に応用する…その上で「鑑賞」はとても有益なツールとなります。見ることの先へ、是非挑戦して見てくださいませ。
2010年11月2日火曜日
Dependence of the beautiful sense in one people.
東京の素晴らしい点として、ギャラリーがいたるところにあることがあげられます。仕事の合間に、移動の合間にしばしば「気分転換」を兼ねてギャラリーを訪れることしばしば。新進気鋭の作家さんの作品はどれもエネルギッシュ!というわけではなく、中には物静かでおどろおどろしい作品も。まぁ総じて良いと思う作品は、人目でグーッとひき付けられるんですよね。悪魔の手ほどきのごとく、一時間ほど対面するなんてことも。気付いたら時計の針がえらく進んでいたなんて経験はざらであります。あぁもう少し自制せねばなぁ…。
工芸の美とは何ぞや。日本人が持っている美意識と西洋人が持っている美意識はかなり異なると言われている。日本のそれは、「捉えがたく、一瞬のうちに消えゆく…その時間をとめたところに現れる美」であるのに対し、西洋のそれは、「普遍的で、生々しく、我をみよ!といわんばかりに強硬な美」であるように感じる。
本書の著者、柳宗悦が論としてこの世に落とした美の意識、それは日用雑器の中に見出す美である。がっちりとした美ではなく、ほのかにたち現れてくる類の美…代表的な作品として、高麗時代の青磁器、江戸時代の誰が作ったのかもしれないひび割れた茶碗などがある。我われ日本人に日用雑器(茶碗や湯のみ)のうちで、美を感じるものはどんな茶碗か?という質問を投げかけると、ここにあげたような「時間の経過を感じる・歪な中に垣間見える美がある」茶碗や湯のみを上げる人が多いことだろう。一方、西洋人に同じ様な質問をすれば、およそヒビ一つ入っていない、左右対称・均等なマイセンの食器などを上げる人が多いと考えられる。
「芸術作品」について、宗悦がどのような考え方を持っていたのかも記しておこう。彼は総じて宗教改革以降に生み出された「芸術」なる概念に否定的な態度をとる。作品の評価が、作品そのものではなく「誰が描いたものか」によって評価されることに大きな疑問と懸念を抱いていた。ただ一点のみ素晴らしい作品を生み出した作家がいたとして、どうしてその作家の「他のさほど魅力的でない」作品の価値まで上がることが起こるのか?宗悦は例え大量生産であっても、美しいものは美しくあるという考え方を持つ人だ。その美しさは古来の匠たちが長年の修行・鍛錬を経て作品に宿らせることができるようになるものだという。工房で何百という数の茶碗を作っていれば、自然と型も身につくものである。一個人で終わる技巧と比して、長き伝統に裏付けられた型がより高次の美を宿すのは自然なことだろうと宗悦は考えたのだろう。
もし宗悦が現在の世界に存在しているとして、彼はどのような作品に価値を見出すだろうか?昨今の混沌とした現代アートには見向きもしないのは間違いなさそうだ。そして少なくとも、無印良品の一部製品に心奪われるのも間違いないだろうと考えられよう…もっとも、それを作る工程が全て機械によるもので人間の手による介入が全く無いと知った時点で評価は変わりそうではあるのだが。
※宗悦の提唱する美とウィリアムモリスが考えた美は共通するところがありますね。それは生活の中に美を見出したところです。日常の中で使用される道具に宿る美、それは目的意識を備えつつも光り輝くものであり、芸術作品以上に評価されるべきものであると述べます。まぁ大量生産しないと多くの人が「美」を手にすることはできないことを考えると一理あるように思います。けれど、一人の作家さんが長い時間をかけて渾身の魂を込めて生み出した作品に美が宿ることもしばしばあります。宗悦の考える美は一つの美の形としてとどめておきたい、というのが僕の本音ですね。
本書の著者、柳宗悦が論としてこの世に落とした美の意識、それは日用雑器の中に見出す美である。がっちりとした美ではなく、ほのかにたち現れてくる類の美…代表的な作品として、高麗時代の青磁器、江戸時代の誰が作ったのかもしれないひび割れた茶碗などがある。我われ日本人に日用雑器(茶碗や湯のみ)のうちで、美を感じるものはどんな茶碗か?という質問を投げかけると、ここにあげたような「時間の経過を感じる・歪な中に垣間見える美がある」茶碗や湯のみを上げる人が多いことだろう。一方、西洋人に同じ様な質問をすれば、およそヒビ一つ入っていない、左右対称・均等なマイセンの食器などを上げる人が多いと考えられる。
「芸術作品」について、宗悦がどのような考え方を持っていたのかも記しておこう。彼は総じて宗教改革以降に生み出された「芸術」なる概念に否定的な態度をとる。作品の評価が、作品そのものではなく「誰が描いたものか」によって評価されることに大きな疑問と懸念を抱いていた。ただ一点のみ素晴らしい作品を生み出した作家がいたとして、どうしてその作家の「他のさほど魅力的でない」作品の価値まで上がることが起こるのか?宗悦は例え大量生産であっても、美しいものは美しくあるという考え方を持つ人だ。その美しさは古来の匠たちが長年の修行・鍛錬を経て作品に宿らせることができるようになるものだという。工房で何百という数の茶碗を作っていれば、自然と型も身につくものである。一個人で終わる技巧と比して、長き伝統に裏付けられた型がより高次の美を宿すのは自然なことだろうと宗悦は考えたのだろう。
もし宗悦が現在の世界に存在しているとして、彼はどのような作品に価値を見出すだろうか?昨今の混沌とした現代アートには見向きもしないのは間違いなさそうだ。そして少なくとも、無印良品の一部製品に心奪われるのも間違いないだろうと考えられよう…もっとも、それを作る工程が全て機械によるもので人間の手による介入が全く無いと知った時点で評価は変わりそうではあるのだが。
※宗悦の提唱する美とウィリアムモリスが考えた美は共通するところがありますね。それは生活の中に美を見出したところです。日常の中で使用される道具に宿る美、それは目的意識を備えつつも光り輝くものであり、芸術作品以上に評価されるべきものであると述べます。まぁ大量生産しないと多くの人が「美」を手にすることはできないことを考えると一理あるように思います。けれど、一人の作家さんが長い時間をかけて渾身の魂を込めて生み出した作品に美が宿ることもしばしばあります。宗悦の考える美は一つの美の形としてとどめておきたい、というのが僕の本音ですね。
2010年11月1日月曜日
A Layer of towns in future.
頭の中では上手くいっていたのに、実際に表に出してみると「あれ?」といったこと、結構ありますよね?いかに完成度の高いものを作ろうと、最初のそれはしょぼいものにならざるを得ない。どこかの借り物であるならば、問題ないのでしょうけれど、全くのオリジナルであるならば、それはそれは結構な労苦を要するものです。まぁ苦ではなく快を感じるヒトもいるのでしょうけれどね。リバイスは大切ですね…それは物の世界に限ることではないとひしひし実感しているところであります。
さて、自身のリバイスに励むも、リバイス後の像がなかなかすんなり収まらないことに葛藤を覚えるオトコえびすが紹介する一冊はこちら。
東京都市再開発はいつまで続くのだろうか…ここ10年ほどの大規模再開発として、六本木ヒルズ(2003)・東京ミッドタウン(2007)・赤坂サカス(2008)があげられる。大々的な宣伝効果もあり、どの施設も来客数はかなりの数に昇ったと聞く。私自身も上記に上げた某巨大複合施設の一部にて働いていた経験もあり、そこに集まるヒトの数には圧倒されたものだ。一日に10万人が、「来る」という意識をもって訪れるのだから、それはそれはもの凄いエネルギーである。そこに湧きだす「熱」たるものは、駅の混雑のそれとは大きく「質」が異なる。意識の執着点のポジションにいてこそ、感じ取れたことなのかもしれない…大変貴重な経験を積むことができたのは幸運だった。
さて、そんな熱狂を生み出す都市開発であるが、その成功・失敗はしばしば議論されるところだろう。しかし、その評価軸をどこにおくのかは難しいところもある。地域貢献・社会インパクト型であれば収入はぎりぎりでもOKだろうし、完全利益追求型であれば(ほとんどはこれに属するのだろうが)、その利益額で成功・失敗を判断するところである。ただ近年の都市開発は双方の型を完備するようなモデルで開発が進められているのは間違いない。本書には今後進められるであろう都市開発計画が多数収められている。東京スカイツリー、日本橋、京橋、大丸有、御茶ノ水、環状二号線、渋谷…プロジェクトの戦略・主眼はどれも興味をそそる計画ばかりだ。
なかでも三菱グループのお膝元、大井町~丸の内~有楽町に渡って勧められている再開発プロジェクトは壮大だ。オフィス街としてのイメージが強いが、実は古い歴史をもつギャラリーや三菱一号館美術館、さらには大学の進出など、アートシティとしての魅力も十分に持ち合わせている。そして、何より無料のシャトルバスが運行されている点、他の街とは一線を画すといってよい。現状は丸の内エリアと日本橋エリアの二つに限られているが、今後の再開発にあわせて拡張(特に皇居方面)していく可能性は十分に考えられる。シャトルバスは観光客にも人気で、新しい街つくりにおいては欠かせないものとなりそうだ。
他にも働く女性のための保育所完備や地下通路を活かして地上階に出ることなく移動ができる計画なども盛り込まれている。森ビルの社長が構想する「vertical garden city」の前駆モデルとしても参考にすべき点は多いに違いない。
※都市開発たる言葉を、大学4年生になるまでまったく知らなかったのですが、一度その内容を知るやぐいぐい引き込まれてしまいました。ここまで壮大なプロジェクトを計画できるものとは…。もっと若くしてこの世界の魅力を知る機会があれば、建築の世界に足を踏み入れていたかもしれません。もっとも、芸術センス・未来視点が要求される建築の世界は大変な能力が要求されることも記述しておかなければ…数値・資格では測れない【天分の才】がもっとも要求される理系分野ではなかろうかと思う次第であります。
さて、自身のリバイスに励むも、リバイス後の像がなかなかすんなり収まらないことに葛藤を覚えるオトコえびすが紹介する一冊はこちら。
東京都市再開発はいつまで続くのだろうか…ここ10年ほどの大規模再開発として、六本木ヒルズ(2003)・東京ミッドタウン(2007)・赤坂サカス(2008)があげられる。大々的な宣伝効果もあり、どの施設も来客数はかなりの数に昇ったと聞く。私自身も上記に上げた某巨大複合施設の一部にて働いていた経験もあり、そこに集まるヒトの数には圧倒されたものだ。一日に10万人が、「来る」という意識をもって訪れるのだから、それはそれはもの凄いエネルギーである。そこに湧きだす「熱」たるものは、駅の混雑のそれとは大きく「質」が異なる。意識の執着点のポジションにいてこそ、感じ取れたことなのかもしれない…大変貴重な経験を積むことができたのは幸運だった。
さて、そんな熱狂を生み出す都市開発であるが、その成功・失敗はしばしば議論されるところだろう。しかし、その評価軸をどこにおくのかは難しいところもある。地域貢献・社会インパクト型であれば収入はぎりぎりでもOKだろうし、完全利益追求型であれば(ほとんどはこれに属するのだろうが)、その利益額で成功・失敗を判断するところである。ただ近年の都市開発は双方の型を完備するようなモデルで開発が進められているのは間違いない。本書には今後進められるであろう都市開発計画が多数収められている。東京スカイツリー、日本橋、京橋、大丸有、御茶ノ水、環状二号線、渋谷…プロジェクトの戦略・主眼はどれも興味をそそる計画ばかりだ。
なかでも三菱グループのお膝元、大井町~丸の内~有楽町に渡って勧められている再開発プロジェクトは壮大だ。オフィス街としてのイメージが強いが、実は古い歴史をもつギャラリーや三菱一号館美術館、さらには大学の進出など、アートシティとしての魅力も十分に持ち合わせている。そして、何より無料のシャトルバスが運行されている点、他の街とは一線を画すといってよい。現状は丸の内エリアと日本橋エリアの二つに限られているが、今後の再開発にあわせて拡張(特に皇居方面)していく可能性は十分に考えられる。シャトルバスは観光客にも人気で、新しい街つくりにおいては欠かせないものとなりそうだ。
他にも働く女性のための保育所完備や地下通路を活かして地上階に出ることなく移動ができる計画なども盛り込まれている。森ビルの社長が構想する「vertical garden city」の前駆モデルとしても参考にすべき点は多いに違いない。
※都市開発たる言葉を、大学4年生になるまでまったく知らなかったのですが、一度その内容を知るやぐいぐい引き込まれてしまいました。ここまで壮大なプロジェクトを計画できるものとは…。もっと若くしてこの世界の魅力を知る機会があれば、建築の世界に足を踏み入れていたかもしれません。もっとも、芸術センス・未来視点が要求される建築の世界は大変な能力が要求されることも記述しておかなければ…数値・資格では測れない【天分の才】がもっとも要求される理系分野ではなかろうかと思う次第であります。
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