2010年11月3日水曜日

『和の心』 ≠ 『無為自然』 !?

秋の深まりを感じ取る今日この頃。散歩中に、金木犀の甘い香りが、銀杏の渋みある香りにうつりかわった空気をしばしば感じているところです。香りから我われ日本人が感じ取るものは、諸外国の方々のそれと少し違うものでありましょう。これは古来のアーティストが残した短歌や俳句にしばしば見出すことができます。で、この香について、僕がしばしば経験し、不思議に感じているのが『香りが引き起こす想像』についてです。例をあげるとこんな感じ。

ある場面(B)である香り(A)を感じ取ったとします。意識化では、A → B といった形で結びつけることはしていないはずなんですが、どうも、無意識下ではA ∊ B といった具合にその二つを関連付けていると。よってAと類似した香りを感じ取ることで、Bが引き出されてくるというわけです…ここまでは、まぁ理解できるんです。でも、もう一段階下に降りたところ、AがBではなく、全く身に覚えのないCを引き出してくることがある。系譜としてはA ∊ B ∊ C もしくはA ∊ C ∊ B といった感じです。Cの位置はぼく自身も良くわかっていません、はい、すいません。

これは世間で言うところの『アナロジー』と一致するところがあります。ただ、アナロジーは連結点を明確に「意識して」造り出すプロセスを踏んでおり、連関に論理を持たせることができている。しかし、上に述べたAがCを引き起こす事象では、論理なるものは全く欠けているわけです。「なんでそこにつながるねん」と突っ込みたくなるばかりに。
面白いのは、この一見連関がないように見えるCが、様々な場面で「新たな創造性」を生み出しうるということです。既存の枠に当てはまらないからこそ、ぶっ飛んだところに行き着く考えだからこそ、誰にも上手く説明ができないことだからこそ、それがもつ可能性のフレームはもの凄く広い。ただ、誰にも理解できないから「そっぽ向かれ」「どこかに捨て去られる」という問題を抱えているのは事実。脈絡のない、だけど可能性だけはやたらにドデカイものを持つこいつを以下にコントロールするか…。

ここまで綴ってきた文章を鑑みると、僕はどうやら『直観がもたらすチャンスをいかに形にしていくかの術』を模索しているみたいです。まぁ、そもそも論として、そんな術があるのかという話なんですけれど。さて、前置きが長くなりましたが、今日は一つの展示を紹介したく思います。※内心久しぶりの芸術評、どうなることやら…と怯えております…。


ネイチャー・センスを直訳すると「自然を知覚する潜在的な力」といったところでしょうか。ただ、『自然を感じ取るという力』ではなく、さらに深く踏み込んで、『自然が織り成す事象とはいったい何ものであるのかを身体で感じ取る力』を指しているものと推測します。自然から刺激を受け、その刺激が五感を経て、我われの脳内で多様なフェースを持つ情報に変換され、その幾つかが魂にと送り出される…各々のフェーズをしっかりと理解したい所ではありますが、いかんせん、それには超人的な思考力が必要とされます。刺激を受ける対象はどういったものか。その対象は五感の感覚のそれぞれに収まりきるものか否か。収まりきるならば、それぞれの五感にはどういった作用があり、その作用はどんな情報へと変換されるのか。その変換の過程で他の要素が関連してくるのかしてこないのか。情報の加工の幅はどこまで広がるのか。広がった先にあるのはどういった世界か・・・書き連ねるときりがないです、はい、ここで止めます。

ネイチャー・センスがゲストにどの程度の力を要求しているのかはわかりません。上に挙げたことも、僕の勝手な脳内想像にすぎません。ただ、勝手な想像ではありますが、この想像を繰り返すことで、物事を多面的に見る、深く考えてみる、逆さ眼鏡をかけてみるetc…といったことが、瞬発的にできるようになるのではと思う次第です…もちろん、「~してみる」先に待ち構える「深い思考」に至るのが本当の目的である点、見逃してはいけません。

ちょこっと、持論がすぎました・・・。肝心の評について一つだけご紹介させていただきたく。

『GINGA』

作家によると、重森三玲が設計した庭に着想を得てつくった作品とのこと。枯山水の砂紋を水面の波紋に見出したとのことで、この作品を少し深く探って見たく思います。

1.波紋と時間と人生と。
上空から水滴が、地上の水面と交わるその瞬間に生み出される波紋…それは時が経過するにつれ、同心円状に外に歩みゆき、やがては力尽きて消えていくもの…いや、消えたわけではない。微かな「波」は永久に消えうせることはない…ただ、僕達が感じ取ることができないまでに減衰しただけ。なぜ減衰するかって?それは、波が外に歩みだす力に変わったからだ。高いところから水滴が落ちる。その水滴は位置エネルギーというポテンシャルを持ち、水面と接触することで波を創る。たとえるならば、『卵を床に落としたときに、卵の殻が割れる、殻を割る力は「高さ」がもつポテンシャルがあったからこそ生み出された』…これを作品に当てはめると、高いところから落ちた雫のポテンシャルが波を生み出すために使われたわけだ。そして、生まれた波は外に向かって歩みだす。最初は赤ちゃんのように、活発で力強い…そして、時の経過と共に波の高さは低くなり、波紋は大きくなっていく…日常の感覚では捉えきることができないレベルまで減衰していく。でも、完全に無くなりはしない。波は一定の周期を維持し続ける…たとえその大きさが変わろうとも。そこに見出すは、事象のフラクタル性であろうか…我われが把握する世界は、我われが想像する以上に「同一性」ある「何ものか」から織り成されているのは間違いないだろう。

2.時を止める・時を放つ
時をとどめた世界だからこそ見出せる何か、時をとどめない世界だからこそ見出せる何か。枯山水の石庭では解放されなかった「時間」をこの作品は見事に解放した。枯山水にみる宇宙は「こんにゃろう」という封じ込める力を、GINGAに見る宇宙は事象の儚さと永遠性を感じ取れるだろう。
ただ、一点考慮されたい点もある。それは『日本人のネイチャー・センス』についてだ。しばしば、無為自然こそ日本の芸術に見出せるものだと述べるヒトもいるが、日本の芸術においては、無為自然を感じ取れる作品は少ない…というのが私の見解である。枯山水にしても、欠けた茶碗にしても、生け花にしても、それを留めるに外から多大な力を付与している点は理解されよう。さて、この事実を鑑みると、いささか本展覧会の主題に疑問が湧き出てくるのは致し方がない…。

※さて、久しぶりにじっくりと美術館をまわらせていただいたのですが、今回の3人の作家がつくりだした空間に、ため息ばかりが出る結果となりました。「あぁ、なんと素晴らしい展示であるか」と。現代アートを「わけがわかない」で済ましてしまうのは勿体無いです。そこには色んな潜在性が内包されています。とくに、若い作品ほどその潜在性のフレームは広い…というのも、旧く有名な作品には、たくさんの「解釈」が付けられているため、どうしてもそれに影響されてしまうところがあります(良いにつけ悪いにつけです)が、人目に触れず、あんまり解釈が世のなかに広まっていない若い作品については、外から受ける情報の量が少ないため、自分の力で解釈を生み出す必要がある。もちろん、そんなことしたくな~いって人はする必要はありません(笑)。でも、僕はしちゃうタイプです。何せ、この自ら創りあげた解釈は『世界にたった一つの考え』であり、後世のいろんな場面で役に立つものでありますから。様々な経験を積み重ねつつ得たものを上手く人生に応用する…その上で「鑑賞」はとても有益なツールとなります。見ることの先へ、是非挑戦して見てくださいませ。