空間の演出と創造性の喚起についてしばしば考えさせられます。最近は専ら広い空間の下で色々と思念を馳せているのですが、これがどうも狭くて窮屈な場所より、ひらめきがバンバン生まれてくるような気がするんですねぇ。家で机に向かってグーッと集中するのはどうも苦手になっちゃったようです。これについて、先日友人とだらだら話していたのですが、お互いの同意が取れたのは「他の人の視線が程よく入ってくる空間が一番集中力が出やすい」という点。なんか、頑張ってる俺ってかっこいい?みたいな錯覚に陥るのだとか。え、僕もそんなひとり?いやいや、カフェで仕事している姿を見たら、傍から離れたくなること保証します。
さて、カフェを渡り歩く生活がすっかり板についてきて、定員さんに顔を覚えられるまでになってしまったことに、おどおどしている小心者えびすが紹介する一冊はこちら。
公案は臨済宗の修行において、欠かすことができない「修行」ツールとなっている。その修行スタイルは、師匠が弟子に「ナゾナゾ」を問いかける類のものだ。ナゾナゾが解けた弟子は、晴れて師匠から悟りの印加を貰う。師匠から印加を貰わない限り、悟りを開くことはできないとするのが臨済宗の教えのようだ。ただし、公案はあくまでも悟りにいたる修行ツールであり、それを解くことが目的になっているというわけではない点、留意されたい。
さて、臨済宗を取り上げれば、真言宗を取り上げないわけにはいかないだろう。真言宗は師空海によって開かれた宗派である。その修行スタイルはいたって明瞭簡潔、肉体的・精神的に自身を極限状態に追い込んでいくものだ。臨済宗のように頭であれこれを考えることによって、悟りに至る(師匠より印加を貰う)のではなく、自身の内で「これだ」と悟って初めて開眼したとする宗派だ。
日本には数多くの仏教の宗派がある。天台宗、全ての宗派に通じるものもあれば、宗派ごとに異なるものもある。先に示した臨済宗と真言宗の悟りに対する考え方の違いが良い例となろう。「悟る」という共通の目標に対して、両者は全く異なる考え方に従って修行を課している。
宗派による考え方の違いは何も仏教に限ったことではない。これはみなよく知るところだろう。イスラム教のスンニー派とシーア派、キリスト教のカトリックとプロテスタントなど、共通の師を持つにもかかわらず、宗派ごとに戒律を異にしている例はごまんとあるに違いない。また、自分が属している宗派の考えと違う考えを持つ宗派に対しては、敵対的な態度をとることもしばしば起こっている。
実は公案については私自身、懐疑を抱いている点打ち明けたい。なぜかというと、「印加」をもって「悟り」を認めるという明確な基準があると、いくら弟子に「公案は悟りにいたるツールだ」と諭したとしても、それを解くことに目的意識が移ってしまうのは避けられないだろうと考えられるからだ。言うはやすし、制するは堅しである。このような危惧は本書にも記載されているところであり、悟りの必須要件に位置づけるに否定的な人も多数いることだろう。ただし、公案そのものの内容はとても素晴らしいものであり、これを後世に伝えていくという点を鑑みると、「公案による悟り」を廃絶してしまうのはいささか勿体無いのも事実だ。もっとも、公案が仏教の枠を越え出でて、広く大衆一般にまで知れ渡るようになれば話は違ってくるのだろうけれども。
※書評というよりは、禅に対する僕の考えを述べるカタチになっちゃいましたね。公案を褒賞に変えて考えてみると、面白い一面が見えてくるのではないでしょうか。褒章というインセンティブを掲げると、多くの人はそれを目指して頑張りますが、それを勝ち取った瞬間・目的を達成した瞬間に一気にモチベーションが下がる・怠けるといったことが起きています。これについては先に紹介した書籍「Drive」を参照していただくとよくわかるのではと思います。人のやる気・モチベーションを操るのは本当に難しい…僕が公案から学んだものは「反面教師」であるような気がします。かなり否定的な表になっちゃいましたが、公案の問題自体はどれも素晴らしいものばかりです。頭の体操をしたい人は是非挑戦してみてください。ちなみに僕は1問も解くことができませんでした…何を持って解けたかは師匠に教えてもらうしかないので、今の環境下で公案を解くことなどできるはずが無いんですけどね。
