2010年11月19日金曜日

A myth with a notion of death gives...

TVを見なくなってから早くも2年が経過しようとしております。この生活が板につくと、かなり有効に時間を使うことができます。読書しかり、ブログ更新しかり、仕事しかり。僕も昔はTVにaddictされていました。意味もなく、ただ画面をつけているだけ…なぜか家にいるとTVをつけていないと「落ち着かない」そんな感じでした。けれど、歳を重ねるとともに、番組内容の程度が低く感じ取られるようになり(いや、いい番組もたくさんあるんですけれど)、コメンテーターの意見もどうも腑に落ちなくなってきたと…そこで実験として「TVの電源を2週間つけない生活をしよう」と思い立ち、実践に移したところ、2週間が2年になっちゃったと。いやはや、今度はTVを見ないことにaddictされちゃったようです。

さて、TVを見なくなれば視力が良くなる・回復するだろうと、安易に考え、読書ばかりにふけっていたらいつのまにやら視力の低下がとんでもないことになってしまい、どうしたものかと未来の展望が霞む思いに苛まされえる男えびすが紹介する一冊はこちら。

商品の詳細

ウルク城の暴君として君臨する半神半人のギルガメシュ。彼の横暴振りをおさめるために創られたエンキドゥとの闘いと深い友情。そして、森の怪物フンババとの死闘とエンキドゥの死。親友の死を省みての自身の死…ギルガメシュ叙事詩は非常に「人間臭い」物語構成になっている。現存する最古の文学作品であるこの叙事詩が神話の形をとっていない点は興味深い。英雄を称ええる物語の多くは、その不死・成功・繁栄をもって物語を終えるものだが、この叙事詩にあっては、ギルガメシュが「死の恐怖」に直面し、葛藤を重ねつつも「死」に対して自身の内投稿を公開でけじめをつけるという類の物語になっている。

さて、この物語が語られた場面とはどんなふうであったのだろうか?繁栄を極めた都市の頂点に君臨する王の目前で、このような「死の物語」を語ること、それは甚だ「無礼」にあたるものであろう。信頼できる者の死、権力の所在とは何か、そして王すらも死からは逃れられないと言う事実。精神面にマイナスの要素ばかりをもたらすに違いないギルガメシュ叙事詩ならば、発禁・処分という訓令が下ってもいいはずだ。それにもかかわらず、この叙事詩には多くの版が存在している。その理由は何か?私が考えつく理由としては、死に絶えゆく王への「レクイエム」として永きに渡り伝承されてきたのではないかといったところか。「英雄さえも死からは逃れられなかった。王である貴方も死からは逃れられない。しかし、死を迎える前にできることはたくさんある。そう、太古の英雄ギルガメシュが成し遂げたように…」

一つの叙事詩から何を受け取るか。そこに描かれた物語は自身の人生にどのような教訓を与えてくれるのか。ただ、漠然と読み進めるのも一つの読書法だが、そこに自身の姿を投影し、「はて、我も同じ道をたどらんや」と自問を重ねていく読書法もある。「書を読むこと」から「書を我が人生に活かすこと」…その効果は実践した者にしかわからないものであり、同時に味わえないものである。

※久しぶりの物語系(とはいっても文学作品ですが)の書評でした。でも評すると言うよりは、そこから何を読み取ろうかという僕の読書法の紹介文になっちゃいましたね。書を読むことから一歩踏み出して書を吟味すること・書を活かすことへ、書物のvirtue(byアリストテレス)は本来そうあるべきものでしょう。僕自身、まだまだできていないことなんですけれど。