2011年1月26日水曜日

Even if you choose "Objective", you can't rule out "Subjective"...Remind it.

気がつけば、もう大寒も過ぎてしまったのですね。あぁ、光陰矢のごとし。寒い日は都内のカフェでうとうとすることに至福の時を覚えつつ、こんなことしてる場合じゃないよなと焦る気持ちも携える今日この頃。冬もいよいよ折り返し、春に向けて色々な動植物がモゾモゾと動き出し始めますね。うーん、どんな出会いが待っているのでしょうか?雪解けにひょっこり顔を出すフキノトウ?ぽかぽか陽気に焦らされて、巣穴から飛び出してきたシマリス?はたまた、新たな恋のはじまり?楽しみでなりませんね♪

さて、恋の始まりを願いつつも、自分から動こうとはせず、運命の出会いがあると信じ続ける毎日を送る、チョッぴり乙女心に溢れる姿が「ダメだよね」と友人からお叱りの言葉を頂くことしばしばなオトコ、えびすが紹介する一冊はこちら。

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メルロ=ポンティ・コレクション (ちくま学芸文庫)

モーリス・メルロ=ポンティ、名前からは優しい印象を受ける(私だけかもしれないが)が、…この哲学者の論を取り上げるに、私の知識量は間違いなく不足していること間違いない。が、勢い素晴らしい書籍に出会ったら紹介したい思いが抑えきれないので、紹介させていただきたく思う。

本来、ポンティの論考を追うとなると、まずはデカルトの「省察」を読み、その後フッサールの「現象学」に目を通して、ベルクソンの「物質の概念」をしっかりと理解し、ソシュールの「言語論」を少しかじっておく必要があろう。彼らの著作物は一級品の書籍ばかりが立ち並ぶが、物怖じすることもない。時間をかけて一冊一冊読み込んでいけば、必ず理解できる…はずである。千里の道も一歩から。最初の1歩を踏み出すことで、新しい出会い・気付きが自らの身に舞い降りてくるものだ。受身であるためには、まず、第一に能動であれ。かつての私の師から受けた激励が脳裏をよぎる。

前置きはここまでにして本書の内容を少し展開していきたく思う。
物質、身体、思考に言語、これら各々の要素がポンティの論中で築き上げるネットワークは非常に興味深い。ある「信号」がある「パス」を通るときに、必ず先に上げた要素が相互に影響を及ぼしあい、それらから逃れるのは、よほどの環境を構築しない限り至極困難なことであろう。当該信号が諸機関の作用を促すに当たっては、その作用なるものは人間の諸感覚・器官を通じて積上げられた「経験」に大きく影響され、自身が「客観的だ」と思う内容にも必ず経験が築き上げた「主観」が混合しているのも理解できよう。われわれ人間はある基準(これも当人の経験に大きく寄るのは言うまでもない)に当てはめて「客観的だ」という判断を下す生き物だということに異論はないはずだ。そして、この客観的というレッテルを貼るにあたり、社会一般の総念・文化・教育背景が大きく影響してくるのは良く知られたところだろう。

さて、この客観的という単語についてであるが、国民→市民→村民→家族→個人と判断のカテゴリーの階層を降りて行くにつれ、そのフレームはどのように変化していくだろうか?各々の段階で、自身が下す判断が「主観的なもの」であるか、「客観的なもの」であるか、その線引きは自分自身の判断に基づいて行うもので、どちらを選択するかについての意志を持っているはずである。ここで、客観的な判断について一考してみよう。たとえ、客観的だと判断を下したとしても、その判断はあくまでも「私自身」に基づくものである。つまりは「客観的」だと判断したそのことさえも、自身の思考の内の選択、自身の経験に基づく選択であること理解されよう。そうするとどうだろうか?客観と捉えていたことさえも「主観」の色を帯びざるをえないことが見えてきたのではないか?

「そこにそれがそのようにある」…そのことでさえ、単なる認識においてさえ、己の「感覚」と「経験」から逃れることができない。なんとも、コロンブスの卵のような論だが、納得される点、多々あるはずだ。私自身も、過去の経験を振り返りつつ、自身が今もって要る思考・感覚を鑑み、ポンティの思考の断片をつまむことができたように思う。

最後に…もしも友人・知人が「客観的に云々」と語りだしたら、こう質問してみると面白いかもしれない…「何に基づいて、客観的だと判断したの?」…その判断材料の根源にあるモノは、間違いなく「主観の呪縛」から逃れられないこと、実感できるはずだ。

※メルロ・ポンティの書籍との最初の出会いは大学3年生の時でしたね。今振り返ると、その内容は全く頭に入ってこなかったと記憶してます。ただ、時間が経つと、不思議と腑に落ちてくる(いや、今でもあぶなっかしいんですけど)ところが随所に現れてきましたね。うーん不思議不思議。で、もう一度書籍を読み直してみると、「あぁ、なるほどねぇ」と理解できるんですね…もちろん、この理解は「主観的」であり、客観的だと断定することはできないわけでありまして。全く、素晴らしい論を書いてくれたものです。

2011年1月20日木曜日

One Lang, One Culture, and then, One Thought...

しばしば東京の街を散策していると、面白い事象に多々出会います。『カップルの会話』もその一つ。僕は専ら一人身の人生を送っているわけでありまして、そうなると、周りの声に敏感になってくるんですね。映画館、カフェ、電車の中、美術館etc。カップルは至るところにいるわけでありまして、彼ら・彼女らの言動にはいつもインスピレーションを頂いている次第です。感謝感謝。
日常のふとしたところが、新しい発想につながることを経験すると、一分一秒、自分が経験することがいとおしく感じられるものです…まぁ僕に限る話かもしれませんけれど。物質的な満足を得ることも難しいのですが、精神的な満足を満たすこも難しいんですねよね。あ、極論、自分を満たすことは難しいということ。ふむ、どうすれば満たされた人生を送ることができるんでしょうか?意識して満足のレベルを落とすとかいろいろありますが…僕には無理でした(笑)。なんで、欲求には忠実に従いつつ、人生を謳歌していきたいと思います。

さて、欲求といいつつも、その9割を「本を読む欲求」が占めていることを公言すると、周りからは単なる「内向的な読書野郎だな」との厳しい声を頂きつつも、「そのレッテルいいかも」と思ってしまう、変り種満載なオトコ、えびすが紹介する一冊はこちら。

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ことばの不思議についてはこれまでもしばしば取り上げてきたが、どうやら、その奥深さは留まるところがないようだ。一言にことばといっても、ソシュールのいう「コトバ」と、ラカンの言う「コトバ」と、今回の「コトバ」では、その捉えるフレームが大きく異なる。本書の捉えることばは、認知心理学の部類に入るだろうか。それも、ラカンのような込み入った心理学ではなく、どちらかというと漠然とした、「純粋な認識」=かんじとるということ、そこまで。で留めているような気がする。

参考にしている学者の名前も、それほど知られていないだろう(もちろん、この分野の研究者の間では第一級の学者ではあるのだろうけれど)。本書が取り上げるサピア=ウォーフ仮説(以下ウォーフ仮説)と呼ばれる仮設があるのだが、これは本書を読み進める上で最も重要な仮設として位置づけられる。仮説そのものの起源は18世紀のカントらの学説にまで遡るとのことだが、その内容を簡単しるしておきたく思う。

ウォーフ仮説を一言で表すと、「言語は世界を分割する」といった具合だろうか。その分割のフレームはモノ、色、動物、物の内の関係にまで及ぶという。赤ちゃんから幼児にいたる過程で言語を習得するわけであるが、その習得する言語により「対象を言明するフレーム」が違ってくるという。簡単な例を示すと、こういうことになる…。
ある言語の内には「右と左」の区別があるのだが、ある言語の内には「右と左」という言葉そのものが存在しない。そなると「対象を指示」するにあたって、それぞれの言語間に指示の主・客に大きな変化が現れる。そして、これはそのまま当該言語の文化にも落とし込まれていくだろう。絵画芸術を一つの例にとって少し紐解いていこう。ここに「対象」を主観的に捉えた作品と客観的に捉えた作品がある。ここで考えていただきたいのは、その作家が、主客どちらの見方を作品に落とし込んだかについてだ。上述のように、主観的にしか対象を捉えられない場合と、客観的にそれを捉えられる場合とでは、その「選択性」に大きな差異がある。これはそのまま、物事の捉え方にまで落とし込むことができる…「なぜキミはこんな描き方を選択したのだい?」。説明責任ではないが、そこに「ことば」を上手く落とし込むこと、そこに芸術の一つのあり方を見る方法もあるということ…そう、選択性が広がるほどに、そこに据えつけられる「根拠・理由・思想」に『カラフルな模様』が生まれてくるのだ。

さて、この模様であるが、カラフルである=対象を様々に表明できるほど優れているのかというとそうでもない。有限な範囲で創りあげる芸術作品、原始芸術に素晴らしい作品が多々あることを鑑みれば、容易に想像がつくことだろう。そして、これをそのまま言語表現に落とし込んで考えていく。確かに、言語が持つ表現の幅は言語ごとのフレームの幅を決めることだろう。だが、フレームの幅は決まっても、その奥行きについては一意に決めることはできない。これは、アンリ・マティスの絵画を見ればよく理解できる…有限な色彩=有限なフレームしか用いていないにもかかわらず、その作品が持つ『奥行き』の深さに感嘆を覚えたのは私だけではないはずだ。

上述を踏まえて述べたいこと、それは言語のフレームが持つ幅に優劣を付すことには全くもって興味がないということだ…はたして、様々に色ついた他人様の人生に優劣などつけることができるのだろうか?Yes。私の意とは反対に、どうやら社会一般の通念ではこの優劣は「カテゴライズ化されうる」となっているようだ…その優劣の選定、その根源を辿ると「当人・当コミュニティ・当国家の認識」に大きくよることが理解できる。たとえ、ある社会が「これはいいものだ」と決めたとしても、他の社会では「そんなものに価値を見出すのは愚かなことだ」なんてことは日常茶飯事。そして、これが個々人の考え・思想にまで下ると、もはや単なるナルシズムと認識されてしまわざるを得ない。…なるほど、我われは「ことば遊び」の内に、各々の社会が形成した「カテゴリー」の中で、偏った集団の内に戯れるしかないということか。さて、この戯れはいったいどこまで浸透していくのだろう?年齢を重ねるとともに浸透圧こそ変化していこうが、半永久の時間経過を前提とすれば、カントが述べるような人間の根源にある「道徳」にまで、この戯れは浸透していくような気がしてならない…たとえ、それが全く新規な戯れであったとしてもである。


※当初は、どこに着地点を置こうか迷いました。で、結局は人間の道徳に落ち着くわけであります…このブログでは恒例になってきたかなとも感じているところですけれど、この落とし方、好きなんですね。一つの本から得られる知識を異なるフィールドに広げてみる。今回は、言語の世界から、芸術の世界へ、そして浸透圧という科学的要素を加えつつ、哲学的・人間の本質的なところに落とし込む…あな、たのしや。頭の体操として色々取り組んで見ましょう、そうしましょ♪

2011年1月16日日曜日

Do you "go-through" or "go through" the thought of the Past?

今年もはや2週間が経過してしまいました。光陰矢のごとしとは言いますが、歳を重ねるほどに、この言葉の重みを実感している次第であります。あぁ、時間が欲しい・・。と願っても、これだけは叶えられる・叶えてもらえるものでなく…まぁ、仕事を任したり、さぼったりすれば、時間は確保できるんですけど、これにはそれなりの「対価」が必用なわけであり、もちろん、僕にそのような余裕などないわけでありまして…。色んな意味での「パートナー」を見つけることの大切さを実感する日々を送っている次第です。

さて、「愚痴ばかりいっているからもてないんじゃねぇ?」と友人からの厳しい一言を貰いつつ、その友人に対して「減らず愚痴」で応戦してばかりいるどうしようもないオトコ、えびすが紹介する一冊はこちら。

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世俗という言葉はどこか響きがいい…と感じるのは私だけかもしれない。その気取りのなさによって、どこか高慢・諂い・といった概念をとっぱらってくれるからだろうか?この世に俗すモノ…というと語弊を招くかもしれないが、俗の立場に立って、素晴らしい過去の遺物を一つ一つ分析・応用する「姿勢」を持つことは、彼らの思想を「本当の意味」で解釈するに大切なことだろう。彼らの思想の意をただ汲み取るだけではもったいなく、その意を「今、この瞬間」に照らし合わせ、偉人が見逃した・予測し得なかった事象は何か、そしてそれがどのように社会に影響を及ぼしたのかを理解してこそ、彼ら偉人の思想を活かすことができる。この点に立つと、俗の世界から彼ら偉人の思想を見ることは非常に有益なことであること理解されよう。

さて、本書は経済学の分野に関し、惜しみない骨折りと素晴らしい省察を持って著された一冊である。アダムスミスの『道徳感情論/国富論』に始まり、リカードの『経済学原理』、マルサスの『人口論』、マルクスの『資本論』、ウェブレンの『有閑階級の理論』、ケインズの『雇用・利子および貨幣の一般理論』と歴史に名を残した経済学者の思想を順を追ってたどっており、大変体系的にわかりやすい。ここにあげた各論とも、内容は申し分ないのだが、いかんせん初学者には(もちろん私もその一人である)理解に苦しむところも多々あること間違いないだろう。そこで、お勧めしたいのが、本書を一読してのち、各論を読み込んでいく方法だ。贅沢をいえば、それぞれの経済学者の思想の特徴をカテゴライズ化したシートを片手に読まれると(思想の深いところまでを自身の言葉で落とし込んだもの)、内容理解は一層堅くなるであろう。

ざっくりと本書の活用方法を少し紹介したところで、早速その内容を少し紐解いていこう。が、例のごとく、本書の論全てを紹介する余裕もないので、その中の一つ「マルサスの人口論」に絞って紹介したく思う。人口論が世の中に出回ったのは、1798年のことで、アダムスミスの国富論が出版されてのち22年が経過していた。本論文は、学者・一般諸国民の間でもてはやされていたスミスの国富論に対し、現実世界の「厳しい矛先」を突きつける形になったようだ。その矛先の内容とはいったいどういったものであったのか?

国富論は、諸国民の繁栄の過程を事細かに記した書籍であり、多くの国民・学者はその展望に対して希望の光を見出していた。これに対し、人口論は資源・土地の有限性および、人口増加に対するそれらの開拓のスピードの遅さ・繁殖の不可能性を取り上げ、諸国民の富の過程で必要となる「人口の増加による富の創出」は実現しえないことを明らかにした。「人間の繁殖」は性行為を重ねれば、半永久的にその数を増やしていくことはできるが(過剰生殖による淘汰は起こらないとして)、地球に存在する土地は「交配」することはできず、自らが新たな土地を生み出すこともできない。べき乗則(指数関数的に)で増加する人口は、10年で10万人が1億人にもなりうるが、土地においてはその有限性・開拓困難性があるためこの法則が当てはまらない。

18世紀末に世に送り出された人口論であるが、この論はそのまま現在の世界にも当てはめることができよう。ピークオイル、食糧危機問題、レアメタル枯渇問題etc。全ての問題の根源に、しばしば「世界人口の多さ」が垣間見られるのは偶然ではなかろう。GDPGNP等、様々な経済指標が世の中に生み出されてきたのだが、果たしてそれらの指標の増減が意味するところは何か?資源の有限性と土地の有限性とを鑑みたときに「経済繁栄」がもたらすものが何かについて、今一度考え直したいところである。

※アダムスミスから、ケインズまでの経済学発展(?)の歴史を綴った本書。一読していただければ、高名な経済学者たちがどういった背景の下で各々の思想を書き残したのかを容易に理解することができると思います。文章の平易さもさることながら、内容の展開過程が大変興味をそそる形で書かれているので、それほど苦にならないはずです。実経済がどう動いていたのかを照らし合わせつつ読みたい人には「長い20世紀」も同時平行で読まれるといいかと思います・・・両書籍とも結構分厚い書籍ではありますが、その「対価」は存分に得られるのでしょう・・・本当に大変ですけれどね。

2011年1月12日水曜日

To Create A-thing from Zero should be armored, I suppose.

久しぶりに筆(正確にはタイピングですが)をとると、どうも調子がよろしくないこと、ありますよね?これは何もモノを書くことに限らず、身体を動かす・料理を作る・絵を描くことなど全てに当てはまります。ある程度の期間をあけちゃうと、どうやら身体機能は低下するのは必然のようです。まぁ、何もせずにムキムキ・俊敏だったら、スポーツ界など存在しないでしょうから最もなことですね。でも、思考についてはどうも時間を置くことが大切のようです。デザインともそうですね。出来立て『ほやほや』の時は、なんか全部良く見えてしまうわけですが、少し時間をおくと、『おや?』と思うところが出てくる。どうやら思考の筋肉は身体のそれとは大きく異なる構造を持っています。英文なども、少し時間をおいてもう一度読み直してみると、一層上手い・綺麗な表現が見つかったりします。ふむ、思考の筋肉を鍛えるに当たっては、間をおくことも大切なわけですね。あ、これは、筋肉痛にも当てはまるか。

さて、頭の使いすぎによる頭痛に悩まされつつも、日々のタスクが終わらないことに、悩みつつ、放出されるアドレナリンがもたらす快に浸る日々を過ごす、かなりの変わりモノえびすが紹介する一冊はこちら。

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ゼロから1を創る。このプロセスを実践したことがある人はどれほどいるだろうか?自らの頭で、何かを起こす、その過程で得られるものは、既存のプロセスに乗っかる過程で得られるものとは雲泥の差がある。

もちろん、既知の物事を頭に詰め込むことも大切だ。しかし、それ以上に、詰め込んだものから新しい何か・独自の何かを創りだすことに重きを置かれたい。言うなれば『正解のない答え』の探求と構築。これを実践している人たちのことを、今回のブログの中で広義の意としての『クリエーター』と名づけたい。

さて、今回はゼロから1を創りだすことに長けたクリエーターの『思考・創造のプロセス』を紹介しよう。本書が取り上げるのは、アドバタイズ・コマーシャル分野の第一線で活躍するクリエーター達だ。原研哉、佐野研二郎、水野学etc…みな一度は耳にしたことがあろう・その生み出されたモノに感嘆の息を漏らしたであろうクリエーター達が『新しいモノ』を生み出す際に、どのような思考回路をたどっているのかは興味深いと思うのは私だけではないはずだ。

総勢12人の思考回路は皆刺激に満ち満ちたものである。その中でも私の印象に深く残ったクリエーターの創造プロセスを少々綴らせていただきたい。そのクリエーターは、森本千絵。
私の知人に「女性クリエーターといえば誰?」という質問を投げかけた際、彼女を頭に思い浮かべる人が多い。確かに、彼女がこれまでに生み出してきた『モノ』の数々のクオリティを見れば納得のいく答えである。さて、私自身、本書に納められた12人のクリエーターの『創造プロセス』の中でも、森本千絵のそれには、ひどく惹きつけられた…一体、彼女の何が私を惹きつけたのであろうか?
惹きつけられた要因の一つに、彼女が『たゆまぬ努力の果てに今のポジションを獲得するに至った』経緯があるのは間違いなさそうである。武蔵野美術短期大学へ補欠合格で入学し、編入試験をパスして本科に入学。その後博報堂を経て独立した経歴から伺えるのは、彼女の「たゆまぬ努力」を常に積み重ねようという強い意志である。ストレート・順風満帆ではないかつ常に先の世界/新しい世界に踏み出そうという強い思いが、私の心臓の鼓動と共振したのだろう。もちろん、彼女が創りあげる作品そのものからくる感銘も後押ししているのは言うまでもない。

12人全てのクリエーターに共通するモノも記しておきたい。それは、何事に対しても人一倍強い好奇心を持ち、その好奇心からくる意欲に火をつけられ走り出し、火が大きくなるに伴って多大な努力を積み重ねていく点だ。青木氏の創造プロセスにあるような、何重もの思考を重ねた末に一つの答えを創りだす過程が正にそれと一致するのではないだろうか。時間制限がある状況下で、何重もの思考のプロセスを踏む…まぁ、とんでもない苦労が潜んでいることであろうが。

人一倍の努力の積み重ねはなぜに成しうるのか?それは言ってしまえば、周りの人たちの怠慢があるおかげだ。もしも、皆が皆、本書の12人のように弛まぬ努力を積み重ねることができるならば、恐らく彼ら・彼女らが今のポジションを得ることは難しかったかもしれない。努力の恩恵というと安い言葉になってしまうが、人一倍何かに向かって努力を積み重ねることは、才能以上にその人をヒトたらしめるのだろう…有名な科学者の言葉にもあるが、本書のページをめくるにつれ、この言葉の真意が強まる感覚を覚えるはずだ。

※久しぶりにデザイン関連の本をあさっていたら出てきた本書。読み直して、感じたことは、一線で活躍する人たちの半端ない努力量です。彼ら・彼女達にとっては、周りの人が『やらなければいけない』思いで、物事に取組んでいるのに対して、『やりたいから・・・やっちゃう!』思いが強いのではないかと感じた次第です。普通の人が感じるであろう『苦』を苦と感じない…いや、苦の中に楽を見出しているんでしょうか。うーん、改めて自身の『物事を学ぶ態度』に関し、客観的に見つめなおさせられる、良い機会をもたらしてくれたことに感謝感謝です。


2011年1月10日月曜日

The Stranger Sometimes Give us a lot of Insights.

最近めっきり草食になったなぁと感じる今日この頃。あ、食欲ですよ。食欲。少しずつ歳を重ねるにつれ、なんとも脂っこいものよりもさっぱりしたものを好むようになってきました。茄子の浅漬けとか、オカラとか、さばの塩焼きとか。昔はガッツリ肉食だったのですが、ふむ。人間の嗜好は変わるものですね…食欲に限らず、本のジャンルや音楽、果ては好みのタイプまで時間と共に変わっていくこと実感している次第です。さて、終着点ではどんな人間になっているのか…夢想するだけで一日が過ぎちゃいそうです。

さて、早速今日の一冊をご紹介いたします。肩の力を抜いて、少し顔の筋肉を緩めるに丁度良い書籍でしょう。ちなみに、あのお笑い芸人3人組とは全く関係ないこと、予め記しておきます。。

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ダチョウ力。何とも脱力感を覚えるこのタイトルをつけた著者のセンスには脱帽するしかない。一度耳にすれば、まず忘れることがないタイトルだろう。なにせダチョウだ。みんなもご存知のあいつに『力』がついているだけ。ただし、この力は本書の論旨と恐ろしいほど合致しており、そのタイトルは間違いなく脳裏に焼きつくことだろう。

ダチョウから想起されるイメージは、卵が大きい・首が長い・つぶらな瞳・高速で走る鳥といった像がおおい。私の周りの友人に聞いても、ほぼ100%上に挙げた類に入る回答を頂いている。イメージから抱きうるダチョウ、しかし、それはダチョウのほんの一面しかあらわしていないこと、本書を通読して痛感させられた。いやはや、これほどまでに『魅力』に溢れたトリだとは思わなかった…空を飛べない、鳥としては出来損ないに当たりうるトリが、実は数々の奇蹟を起こしうる可能性を多分に含んでいる。早速本書の紹介に移ろう。

本書はその初めから読者をぐっとひきつける要素がふんだんに盛り込まれている。ページをめくるごとに出会うのは、ダチョウの『オバカ』な行動・研究の取り組みとその失敗談・足立君の奮闘ect…と笑いを誘うものばかりだ。お蔭様で、私も途中で止まることなく一気に読み終えることができた。さて、その読者を惹きつける構成もさることながら、内容についても申し分ない仕上がりとなっている。その内容を少し掻い摘んで紹介していこう。

ダチョウはかなり獰猛で単一的な行動しかとれない生き物であるようだ。筆者によるとダチョウ同士で喧嘩をしたり、ひとりでに柵に頭をぶつけたりして、致命傷を負うことがよくあるらしい…人間で言うところの天然を通り越している。そして、喧嘩の果てに深く傷つけられたダチョウはフラフラながらに餌を食べる…すると、どこからともなく烏が群がり、ダチョウの露出した肉部をついばみ始める。しかし、当のダチョウは烏に『食べられている』ことに全く気付かない…この甚だしい鈍感力にも驚かされるのだが、それ以上に驚くのはダチョウが持つ自己治癒能力・免疫力の高さだ。深い傷を負ったダチョウも、一ヶ月ほどすれば傷はほぼ全快しケロリとしているという。本書はこの免疫力の高さに注目して、鳥インフルエンザの抗体や美容液、がん治療薬等様々な研究の悪戦苦闘の様子が描かれている。主として紹介されている研究スタイルは一貫しており、ダチョウに無害化したウィルスを注射し、そのダチョウが産む卵が持つ抗体を抽出して、抗体の活用方法を模索していくというものである。各々の研究の結果については、本書を手にとって確かめていただきたい。

さて、研究の過程でどうやって壁を乗り越えたのかを追うのも大変面白く、打開策となるアイデアが舞い降りてきた瞬間に何をしていたのかにも注目して欲しい。およそ、往々にしてアイデアは少し気を抜いた瞬間、雑談にふけっている時間に舞い降りてきていることに気付かれよう。アイデアの想起について貴重な紹介・洞察が記されている点、見逃したくないところである。

※本書の脱力感たっぷりの文体にひどく感嘆してしまいました。堅い文章も大切ですけれど、柔らかい文書を描く力も重要ですね。TPOに応じて、文体を使い分けることができる、そんな書き手になれるよう精進してまいります。いやはや、本書は研究者の著作であることを鑑みて、色々な面で勉強させられた一冊でありました。

2011年1月7日金曜日

Do you Love Lingerie or Underclothes ? Yes, I Love the Former...

七草粥。昔から伝わる食事文化の背景を探ると面白いことしばしば。・・・正月の豪勢な食事に、少し胃ももたれ気味でしょう。これからお仕事が本格的に始まるみなさま、今日はお身体に優しい薬草たっぷりの『おかゆ』を食べて、滋養を取り戻すこととしましょう・・・。まったく、頭が下がる思いであります。細部にいたる心使いにおいて、『日本人』の右に出る『ヒト』はいないのではないでしょうか。自らを律する習慣は世界各国に多々ありますが、自らを癒す習慣、それも科学的に効果がある癒しを得られる習慣は少ないように感じます。いやはや、日本に生まれてよかったなぁ。

さて、楽観的な年の始まりとは裏腹に、仕事面で色々と追い詰められ、ちょこっと胃が痛い日々を送っている心身のか弱いオトコ、えびすが紹介する一冊はこちら。

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西洋の下着が本格的に日本女性に根付いたのは戦後のことである。海外では既に、コルセットなどと合わせて下着の役目は『ボディを整える』ところにあったようだ。確かに、ブラ・ショーツとも、履くことで身体を縛る感覚を抱かせられるのは良く知られたところあだろう。ただし、その縛りはきついものからゆるいものまで様々だ。
 
中世/西洋にみる下着の多くは、後者の分類に入るだろう。プロポーションを綺麗に見せるために開発されたであろう下着。男性が着用するものと、女性が着用するものには大きな違いがあったのは想像に易い。女性の美の追求、その美の形はしっかりと後世にまで伝わってきているようだ。さて、そんな『矯正具』としての西洋の下着と比して日本のそれはどうであったか?

私の記憶している限りでは、オトコもオンナも皆ふんどしを着用していたように思う。プロポーションを綺麗に見せるというよりは、快適な生活を送るために着用していた。個尾の背景には、日本の着物と、西洋の洋服にみる、『体系』を見せることに対する考えかたの違いがある。着物は体系を隠す役目がある一方、洋服は体系を際立たせる役目があるように感じる。

もしも、本格的に下着文化を探るならば、大衆文化一般論まで、そのフィールドを広げなければならない。が、今回はそこまで深くは掘り下がらないこととしよう。何せ、紙面が足りない。日本と西洋で下着の役目が大きく異なっていたという点だけ、頭に入れておくこととする。

さて、前置きはこれくらいにして、本書の心理学的な内容を少し見ていこう。
下着には大きく二つの心理的な効果がある。一つ目が、着用者自身の快適さ・自己満足に、ねづ苦心理学的効用、二つ目は、着用者を見る側にたった心理学的効用だ。先の日本人が下着に求めているものと、西洋人が求めていたもの、両者の心理学的効果を下着は補完している。統計結果によると、前者に重きを置いているのはどちらかというと高齢層に多く、後者においては若年層に多い。恋多き若き年代の女性達は、相手を惹きつけることができる、魅力的に自分を魅せられる下着を好んで着用する傾向にある。年代別の女性が気にする視線の統計結果にもこれは如実に現れており、若年層ほど恋人・夫の視線を気にするとのことだ。ただ、一点注意すべきは、それは特別な日に限ると述べる女性が多い点である。日常の生活においては、やはり着心地が最重要視されている。

また、自分のプロポーションについて不満があるかないかの調査結果も興味深かった。彼女・妻のプロポーションに50%近くの彼氏・夫が満足している一方、彼女・妻のそれは15%に満たない数字となっている。この背景には、女性のプロポーションを意識した宣伝および完璧なスタイルのモデルの露出が多いことが大きく影響しているように思う。これに関し、昨今は男性のプロポーションについても色々と言われてきていることを鑑みると、今後は男性においても、同じ様に自分の身体のプロポーションに不満を持つ人が多くなるようにシフトしていくものと考えられよう。

※下着という言葉に引かれて本書を手にしたのは言うまでもなく、ただ、思っていた以上に統計の取り方・統計の分析の仕方が新鮮に感じられました。自分の知らない分野に踏み込むこと、新たな発見・気付きがたくさんあるので、面白くてしかたないです。本文中では評しませんでしたが、『見せる下着』と『見られる下着』に対して女性が抱く心理的不快感・開放性は、社会心理学的に掘り下げてみたいところですね。哲学的断片をそこに組み込んでいくと、興味深い『論』ができそうです。


2011年1月4日火曜日

For What, the Mat-Boundaries are Existing in This World ?

正月休みはどこへやら。新年そうそうから慌しく動かざるをえない状況に追いやられているのは嬉しい悲鳴ですね。今年は飛躍の年にすべく、色々と新しいことに積極的に取組んでいく所存です。何事も挑戦あるのみ。一先ずやってみよう!結果はどうなるかはわからなくても、やってみることが大切だと、ひしひしと感じている今日この頃。ただし、何をやるにしてもそれなりの下準備と確固たる意志をもって取組まないと、無駄骨になることしばしば。まぁ、下調べをして、重要なポイントを抑えて、何をすればどのように展開していくのかを『頭の中でシミュレート』することを心がけてはいるものの、いざやってみると「あれ?」と思うこともしばしばなんで何とも言えない所もあるですけど。

さて、頭で考えすぎることをそろそろやめい!と知人から叱咤されるも、その叱咤が右から左に自然に流れる思考構造が出来上がってしまっている事に葛藤を覚える悩ましいオトコえびすが紹介するのはこちら。


小谷元彦の作品は昨年度のエルメスギャラリーでもお目にかかっている。独特のガラスから射す光の中に居(虚)をすえた作品一つ一つから醸しだされるAuraに、畏怖と尊敬と嫉妬の念を感じたものだ。当時、私がやられたと感じたのは一つの作品についてというよりは、作品全体が創る独特の『空間』、その『空間』が纏う『質的なモノ』…物質性にとらわれては感得しえない『モノ』ついてであったと記憶している。

4ヶ月という短い期間を経て、再び小谷の作品とあいまみえることができるとは思いもよらなかった。今回の展示会場は現代アートの企画展をしばしば開催している森美術館。およそ、私が都内で最も足を運んだ美術館であろうが、その空間の使い方にはいつも感嘆するばかりである。高い天井はもちろんのこと、広い空間、ギャラリー間のスペース、細部に至りディレクションを可変することができる空間はアーティストにとっては嬉しい限りだろう。今回の展示においても、作品と空間の相性には細やかな手が行き届いているように感じた。ギャラリーを隔てるごとに立ち現れる『新世界』、後ろに残してきた世界とは異なる世界への客観的な誘いを惹起されるのは、今回が初めてのことではない。

さて、空間につてはここまでにして、作品の評に移りたいと思う…が、全て紹介すると、それこそ原稿用紙20枚は軽く超えてしまうため、一つの作品に留めさせていただきたく思う。今回紹介するのは『インフェルノ』。
多角柱の外見の中に佇む空間は『上面/底面:鏡』『側面:スクリーン』『中央:音響装置』だけからなるのだが、上面と底面に設置された鏡が創りだす世界に驚きを覚える・・・底面の鏡をみるやいなや『底なし』の世界を垣間見ることができ、上面の鏡をみるとどこまでも続くそびえ立つ『天なし』の世界に吸い込まれるはずだ。そして、側面のスクリーンに映像が投影されると、いよいよ角柱の中に踏み込んだゲストは『ゆらぎの世界』への旅路を歩みはじめることとなる。『インフェルノ』に見出せるもの。それは、留まっているそれを自覚しつつも、視線に送り込まれる『情報』のために『留まっている感覚』から離脱してしまう感覚だ。確固たる意志をもってここに『留まること』を自覚していたにもかかわらず、視覚から入り込んでくる『情報』によってその意志に『ゆらぎ』が生じる。このゆらぎなる特質は、ちょうどこの世の物質すべてが纏う性質の一つであることは疑いない。およそ私たちが知覚しうる全ての物質が、安定的なポジションに『一に留まることはない』ということは良く知られたところである。近年話題になっている『動的平衡』のフレームを、『視覚から得られる情報』にまで応用/拡張していただければ容易に理解できることだ。

ここで視覚のフレームをもう一段拡げてみたく思う。視覚の世界を超え出でて、我われが感じうる『全てのモノ』が内包しているであろう『ゆらぎ』…漂いつつも、一点に留まらない『モノ』…そして、いよいよ『ゆらぎ』は『思考』の世界にまで及び始める…宗教・民族・哲学・思想・戦争・差別・慈善・エコロジーetc…あぁ、人間『的』存在そのものを再考する必要性はますます高まるばかりだと感じざるをえない。

※この作品一つを体感するだけでも、本展覧会に足を運ぶ価値があると感じた人は多数いるのではないでしょうか?少なくとも僕にとってはそれくらいの衝撃の作品でした。空間の使い方一つで平衡状態を揺さぶられる、その平衡状態は何もアートの鑑賞においてだけではなく、現実に起こっている様々な諸問題にも当てはまりうることだと思います。大切なのはしっかりと自分の頭で考えて、意見をもつこと。そして、その意見をみんなで共有しあうこと…あ、これはサンデル教授のお考えそのものですね。

2011年1月1日土曜日

重厚な空間の中の虚無感

あけましておめでとうございます。新しい年の始まりですね。皆様、抱負は決まりましたでしょうか?僕は年末より一週間ほどじっくりと考え、リストアップし、達成見込みのあるモノないモノを精査分析して、三つの抱負を創りあげました。去年達成できなかった抱負の『持ち越し』はせずに(僕にはハードルが高すぎたようです…反省。)、新たに一つ一つを『』に落とし込んだ次第であります。
一つ目はありきたりになりますが、ブログ100本更新。これは昨年末からしばしば口にしていることです。本年の仕事量を考慮すると、おそらくこの値が『達成可能ライン』の境目かな。二つ目は中国語の修得。いや、修得まではいかず習得どまりにとどめておきます。なんだかんだで仕事上、プライベート上双方の場面で修めておかなければいかんなぁとひしひし感じますね。一番良いのは現地に赴いて、必死に働くことなんでしょうけれど流石にそれは難しく…。NHKのラジオを有効活用する予定であります。三つ目はちょっと口外できない内容です。仕事関連とだけお伝えしたく思います。ただ、三つの内で一番真剣に取組まなければいけないと覚悟している内容ではあるのですけれど。さて、いくつ達成できることいや、達成しないとだめなんですけれどね。

さて、達成可能な範囲の抱負しか立てることができないことに、周囲の人から「おまえはあめぇんだよ」とちょこっとお叱りを受けつつも、自分への甘さを抜けきれず、「可能範囲」の外にはあまり積極的に足を踏み込まない内気なオトコ、えびすが紹介するのはこちらの一冊。

商品の詳細

新年一発目から重厚な論考を紹介するのは、少々気がひけるところではあるのだが。批評の世界に多少なりとも首を突っ込んだことがある人ならば、蓮實重彦の論考に出会った経験はあることであろう。フランス文学から哲学、そして日本のそれへと縦横無尽に渡り歩く姿に、ロラン・バルトの面影を見たというのは私の主観であるのだが、今生きている学者のうちでも、諸氏の『論考』としての深さは、群を抜いて高いと思われる。というのも、前提条件として、19世紀~20世紀初頭の哲学・社会学の展開を把握していることが要求されるからだ。アカデミズムの重鎮・重厚さを感得するに、諸氏の書籍ほど参考になるものはないもちろん、『参考にする』までに至るのが大変であることはいうまでもない。

ただ、本論の内で並べられている言葉を一つ一つ拾っていくと、あることに気付くのではないだろうか?それはバルトの自身の主張・思考を『完成された一のもの』に留めなかった態度に共通する。しばしば「この世とあの世」話で話題になる『言霊』と『言葉』を結びつける、そこから全てが始まっているのだろうか。Materialに固有の言葉を付すこと、その行為の内に我われは何を見出すべきであろうか?そこで語るべきは最早デカルトの延長線上にみる哲学の世界ではない。言葉を生み出すに至った起源、そこにみる意味論まで下ること考えるほどに、掘り下げるほどに、思考がぶれてイク感覚を実感する。ブレる過程で拾った思考の断片に、我われは何らかの価値をつけたがるものだ。それはちょうど、思考の中の『自己満足処理』そのものであろう。どれほど理論で武装しようとも、所詮は個々人のナルシズムを満たすものでしかない過去の哲学者の論考を俯瞰してみるとよい。彼らの論は往々にしてナルシズムの産物であることがわかろう。

一読、二読、三読と回数を重ねるごとに、蓮實の文体に幾ばくかの『孕み』を見出したものである。時間に余裕がある人は、ぜひとも重厚な書籍と真剣に向き合って欲しい。ビジネス書の類でもてはやされている『思考力』なるものを鍛える点においても、時間をかけ、一文一文を噛み砕かないと理解できない書籍は大変役立つことだろう。ただし、注意も必要だあまりに、『そっちの世界』にはまりすぎると、現実世界で言われるところの『思考力』なるものが『ひどく』陳腐に見えてきてしまうからだ。身の回りの友人が話す内容、ニュースが発する内容etc。もはや自身の思考をかき乱してくれることのない『情報』『他愛もない内容』に我慢ならなくなる私自身が出会い、語り、触れ合ってきた経験がそれを裏づけているのは間違いないようだ。『過ぎたるは及ばざるがごとし』いや、『過ぎたるは災いの元』であろうか。この世を生きていく術の一つとして、程よい『俗化』を教育課程に組み込みたいところである。

※久しぶりに読み応えある()一冊を読ませていただきました。全部で十五論が収められていますが、一つ一つの論は独立しているため、読み進めるにはさほど苦を感じないかなと思います。ただし、バルト、フーコー、ソシュール、ラカンの書籍を一冊はかじっていないと書かれている内容を楽しめないのは間違いないでしょうけれど…。この点、後世にかかれる書籍を読むにあたり、その人が取り上げる/専門とする分野についての知識が必要とされるのは良く知られたことだとは思います。この手の書籍が面白いのは『時の洗練を受けていない』ということ。後年になってこの論を軸に新しい思考の補助線がひかれたり、はたまた本論を覆す内容が出てきたりすることでしょう。いやはや、読書の楽しみはそんな『書籍の先を考えること』にあるのではないでしょうか。特に、思考をかき乱される内容の書籍にあっては是非ともこの手の楽しみを噛み締めたいところであります