さて、恋の始まりを願いつつも、自分から動こうとはせず、運命の出会いがあると信じ続ける毎日を送る、チョッぴり乙女心に溢れる姿が「ダメだよね」と友人からお叱りの言葉を頂くことしばしばなオトコ、えびすが紹介する一冊はこちら。

メルロ=ポンティ・コレクション (ちくま学芸文庫)
モーリス・メルロ=ポンティ、名前からは優しい印象を受ける(私だけかもしれないが)が、…この哲学者の論を取り上げるに、私の知識量は間違いなく不足していること間違いない。が、勢い素晴らしい書籍に出会ったら紹介したい思いが抑えきれないので、紹介させていただきたく思う。
本来、ポンティの論考を追うとなると、まずはデカルトの「省察」を読み、その後フッサールの「現象学」に目を通して、ベルクソンの「物質の概念」をしっかりと理解し、ソシュールの「言語論」を少しかじっておく必要があろう。彼らの著作物は一級品の書籍ばかりが立ち並ぶが、物怖じすることもない。時間をかけて一冊一冊読み込んでいけば、必ず理解できる…はずである。千里の道も一歩から。最初の1歩を踏み出すことで、新しい出会い・気付きが自らの身に舞い降りてくるものだ。受身であるためには、まず、第一に能動であれ。かつての私の師から受けた激励が脳裏をよぎる。
前置きはここまでにして本書の内容を少し展開していきたく思う。
物質、身体、思考に言語、これら各々の要素がポンティの論中で築き上げるネットワークは非常に興味深い。ある「信号」がある「パス」を通るときに、必ず先に上げた要素が相互に影響を及ぼしあい、それらから逃れるのは、よほどの環境を構築しない限り至極困難なことであろう。当該信号が諸機関の作用を促すに当たっては、その作用なるものは人間の諸感覚・器官を通じて積上げられた「経験」に大きく影響され、自身が「客観的だ」と思う内容にも必ず経験が築き上げた「主観」が混合しているのも理解できよう。われわれ人間はある基準(これも当人の経験に大きく寄るのは言うまでもない)に当てはめて「客観的だ」という判断を下す生き物だということに異論はないはずだ。そして、この客観的というレッテルを貼るにあたり、社会一般の総念・文化・教育背景が大きく影響してくるのは良く知られたところだろう。
さて、この客観的という単語についてであるが、国民→市民→村民→家族→個人と判断のカテゴリーの階層を降りて行くにつれ、そのフレームはどのように変化していくだろうか?各々の段階で、自身が下す判断が「主観的なもの」であるか、「客観的なもの」であるか、その線引きは自分自身の判断に基づいて行うもので、どちらを選択するかについての意志を持っているはずである。ここで、客観的な判断について一考してみよう。たとえ、客観的だと判断を下したとしても、その判断はあくまでも「私自身」に基づくものである。つまりは「客観的」だと判断したそのことさえも、自身の思考の内の選択、自身の経験に基づく選択であること理解されよう。そうするとどうだろうか?客観と捉えていたことさえも「主観」の色を帯びざるをえないことが見えてきたのではないか?
「そこにそれがそのようにある」…そのことでさえ、単なる認識においてさえ、己の「感覚」と「経験」から逃れることができない。なんとも、コロンブスの卵のような論だが、納得される点、多々あるはずだ。私自身も、過去の経験を振り返りつつ、自身が今もって要る思考・感覚を鑑み、ポンティの思考の断片をつまむことができたように思う。
最後に…もしも友人・知人が「客観的に云々」と語りだしたら、こう質問してみると面白いかもしれない…「何に基づいて、客観的だと判断したの?」…その判断材料の根源にあるモノは、間違いなく「主観の呪縛」から逃れられないこと、実感できるはずだ。
※メルロ・ポンティの書籍との最初の出会いは大学3年生の時でしたね。今振り返ると、その内容は全く頭に入ってこなかったと記憶してます。ただ、時間が経つと、不思議と腑に落ちてくる(いや、今でもあぶなっかしいんですけど)ところが随所に現れてきましたね。うーん不思議不思議。で、もう一度書籍を読み直してみると、「あぁ、なるほどねぇ」と理解できるんですね…もちろん、この理解は「主観的」であり、客観的だと断定することはできないわけでありまして。全く、素晴らしい論を書いてくれたものです。