日常のふとしたところが、新しい発想につながることを経験すると、一分一秒、自分が経験することがいとおしく感じられるものです…まぁ僕に限る話かもしれませんけれど。物質的な満足を得ることも難しいのですが、精神的な満足を満たすこも難しいんですねよね。あ、極論、自分を満たすことは難しいということ。ふむ、どうすれば満たされた人生を送ることができるんでしょうか?意識して満足のレベルを落とすとかいろいろありますが…僕には無理でした(笑)。なんで、欲求には忠実に従いつつ、人生を謳歌していきたいと思います。
さて、欲求といいつつも、その9割を「本を読む欲求」が占めていることを公言すると、周りからは単なる「内向的な読書野郎だな」との厳しい声を頂きつつも、「そのレッテルいいかも」と思ってしまう、変り種満載なオトコ、えびすが紹介する一冊はこちら。
ことばの不思議についてはこれまでもしばしば取り上げてきたが、どうやら、その奥深さは留まるところがないようだ。一言にことばといっても、ソシュールのいう「コトバ」と、ラカンの言う「コトバ」と、今回の「コトバ」では、その捉えるフレームが大きく異なる。本書の捉えることばは、認知心理学の部類に入るだろうか。それも、ラカンのような込み入った心理学ではなく、どちらかというと漠然とした、「純粋な認識」=かんじとるということ、そこまで。で留めているような気がする。
参考にしている学者の名前も、それほど知られていないだろう(もちろん、この分野の研究者の間では第一級の学者ではあるのだろうけれど)。本書が取り上げるサピア=ウォーフ仮説(以下ウォーフ仮説)と呼ばれる仮設があるのだが、これは本書を読み進める上で最も重要な仮設として位置づけられる。仮説そのものの起源は18世紀のカントらの学説にまで遡るとのことだが、その内容を簡単しるしておきたく思う。
ウォーフ仮説を一言で表すと、「言語は世界を分割する」といった具合だろうか。その分割のフレームはモノ、色、動物、物の内の関係にまで及ぶという。赤ちゃんから幼児にいたる過程で言語を習得するわけであるが、その習得する言語により「対象を言明するフレーム」が違ってくるという。簡単な例を示すと、こういうことになる…。
ある言語の内には「右と左」の区別があるのだが、ある言語の内には「右と左」という言葉そのものが存在しない。そなると「対象を指示」するにあたって、それぞれの言語間に指示の主・客に大きな変化が現れる。そして、これはそのまま当該言語の文化にも落とし込まれていくだろう。絵画芸術を一つの例にとって少し紐解いていこう。ここに「対象」を主観的に捉えた作品と客観的に捉えた作品がある。ここで考えていただきたいのは、その作家が、主客どちらの見方を作品に落とし込んだかについてだ。上述のように、主観的にしか対象を捉えられない場合と、客観的にそれを捉えられる場合とでは、その「選択性」に大きな差異がある。これはそのまま、物事の捉え方にまで落とし込むことができる…「なぜキミはこんな描き方を選択したのだい?」。説明責任ではないが、そこに「ことば」を上手く落とし込むこと、そこに芸術の一つのあり方を見る方法もあるということ…そう、選択性が広がるほどに、そこに据えつけられる「根拠・理由・思想」に『カラフルな模様』が生まれてくるのだ。
さて、この模様であるが、カラフルである=対象を様々に表明できるほど優れているのかというとそうでもない。有限な範囲で創りあげる芸術作品、原始芸術に素晴らしい作品が多々あることを鑑みれば、容易に想像がつくことだろう。そして、これをそのまま言語表現に落とし込んで考えていく。確かに、言語が持つ表現の幅は言語ごとのフレームの幅を決めることだろう。だが、フレームの幅は決まっても、その奥行きについては一意に決めることはできない。これは、アンリ・マティスの絵画を見ればよく理解できる…有限な色彩=有限なフレームしか用いていないにもかかわらず、その作品が持つ『奥行き』の深さに感嘆を覚えたのは私だけではないはずだ。
上述を踏まえて述べたいこと、それは言語のフレームが持つ幅に優劣を付すことには全くもって興味がないということだ…はたして、様々に色ついた他人様の人生に優劣などつけることができるのだろうか?Yes。私の意とは反対に、どうやら社会一般の通念ではこの優劣は「カテゴライズ化されうる」となっているようだ…その優劣の選定、その根源を辿ると「当人・当コミュニティ・当国家の認識」に大きくよることが理解できる。たとえ、ある社会が「これはいいものだ」と決めたとしても、他の社会では「そんなものに価値を見出すのは愚かなことだ」なんてことは日常茶飯事。そして、これが個々人の考え・思想にまで下ると、もはや単なるナルシズムと認識されてしまわざるを得ない。…なるほど、我われは「ことば遊び」の内に、各々の社会が形成した「カテゴリー」の中で、偏った集団の内に戯れるしかないということか。さて、この戯れはいったいどこまで浸透していくのだろう?年齢を重ねるとともに浸透圧こそ変化していこうが、半永久の時間経過を前提とすれば、カントが述べるような人間の根源にある「道徳」にまで、この戯れは浸透していくような気がしてならない…たとえ、それが全く新規な戯れであったとしてもである。
※当初は、どこに着地点を置こうか迷いました。で、結局は人間の道徳に落ち着くわけであります…このブログでは恒例になってきたかなとも感じているところですけれど、この落とし方、好きなんですね。一つの本から得られる知識を異なるフィールドに広げてみる。今回は、言語の世界から、芸術の世界へ、そして浸透圧という科学的要素を加えつつ、哲学的・人間の本質的なところに落とし込む…あな、たのしや。頭の体操として色々取り組んで見ましょう、そうしましょ♪
※当初は、どこに着地点を置こうか迷いました。で、結局は人間の道徳に落ち着くわけであります…このブログでは恒例になってきたかなとも感じているところですけれど、この落とし方、好きなんですね。一つの本から得られる知識を異なるフィールドに広げてみる。今回は、言語の世界から、芸術の世界へ、そして浸透圧という科学的要素を加えつつ、哲学的・人間の本質的なところに落とし込む…あな、たのしや。頭の体操として色々取り組んで見ましょう、そうしましょ♪
