さて、昔の青かった時代を思い出し反省しつつ、新しいことに取組もう!という意識だけはやたらに高いけれど、「行動が伴なってないよね」と友人から痛い一言をもらい、意気消沈してしまうことしばしばなえびすが紹介する一冊はこちら。

いたって、本書の内容は相当にレベルが高いと私は思う。新書にしてはというのではなく、新書ではなくとも、それなりの知識背景がないと、記載されていることを理解するのは難しいのではないか(私の知性のレベルが低いだけかもしれないが…)。しばしば「哲学」をかじろうとして、新書から入る人が多いことだろうが、これが結構曲者である。何せ200ページ程度で一人の哲学者の思考を紹介しようとするのだから、それは相当に難しいことだろう。中山元のようにわかりやすい文体(現代に生きる人たちがとっつきやすい文体)かつ平易で身近な例から入っていくと、確かに理解しやすいが、そのような芸当ができうる著者は片手に数えるほどしかいないように思う…もちろん、私の主観である点、留意願いたい。
早速、本書の内容について紹介していこう。タイトルにある「知性の限界」について、ヴィトゲンシュタインの言語ゲーム、ポパーの反証不可能性、アーベントの、ゲーデルの不完全性定理を土台に数人の登場人物の会話・議論形式で明らかにしていく…のだが、ここに挙げた論に関する初歩的な知識を持っていないと、読み進めるのに苦労することだろう。であるので、まずはWikipediaで軽く目を通しておくことをお勧めしたい。
内容を極論すると、知性なるものは「我われが勝手に決めた決まりゴト」であり、これはこれ一つに決まる=一対一に対応するということを立証するのは不可能だということに尽きるだろうか。ヴィトゲンシュタインで言うところの、言語ゲーム:発する言葉・ジェスチャーを同じく理解するものでないと、発話者の意図を汲み取ることはできないのだが、その全てを汲み取ることなど不可能であり、一種の言語を読み取るゲームがそこでは行われているに過ぎないといった感じだろうか。日本で「Vサイン」はいい意味として理解されているが、某国にあってはかなり好ましくないサインとして認識されていることかが良い例として挙げられる。知性に関しても同じく、我われが有益だと思っている知性でさえも、ある人にとっては、単なる「戯言」にしか過ぎないものとなってしまうその代表者として、アーベントの存在は本書の中でもひときわ際立っていること確認できるだろう。
知性のフレームを定めてきたのは人間であり、その人間間においてそのフレームは異なる。そして、そのフレームを詳細に観察すると、それが極めて「個人の主観」に基づいて築かれている。しこうして、知性を知性足り得るものと定義する秤、その秤の役割は一体何か?それすらも、我われ人間が「頭脳の遊び」のもと築き上げたに過ぎたにすぎない…本書は哲学の始まりとゴールを同時に示しているように感じるのは私だけであろうか。
※会話調で展開していくので、結構スラスラと読みすすめてしまったのですが、内容理解については「?」な状態でしたので、もう一度読むわけであります。そこで感じたことは、本書を理解するに「一遍」ではなく、「断遍」でとらえるのが適しているかなと。腑に落ちると「あぁ、なるほど」となるのでしょうが、僕の脳には少々負担が重くのしかかったように感じます。はぁ、もっと本を読み込まなければいけないですねぇ。