2011年2月10日木曜日

Framing could be changed as you notice the "world" next to "it"

さて、二月上旬も瞬く間にすぎていく今日この頃、みなさまいかがお過ごしでしょうか?忙しく、充実した日々を送っている人もいれば、ぼけーっと月日が過ぎていくのを感じ取っているだけの人もいることでしょう…あ僕はもちろん後者の代表格であります。色々とやりたいことはあるんだけれど、それを達成するためには如何せんいくつもの「壁」を乗り越える必要があります。簡単に乗り越えられる壁もあれば、乗り越えられない壁もあり、また壁それぞれに癖があるのも事実。押して駄目なら引いてみろというように、ちょこっと見方を変えるだけで意図も容易く乗り越えられることもあります。見方を変えるチカラ…知っていることはもちろんのこと、それを臨機応変に取り出し、壁に合わせて変換しうる能力。うーん、生唾ものに欲しいチカラですね。え、僕だけ?

さて、無い物ねだりの話題で持ちきりな僕の脳内を静めてくれる、「どぎつい声」を待望するも、周囲の人がどぎついと考える声の程度では微動だにしなくなってしまった感が否めない、鈍感オトコえびすが紹介する一冊はこちら。

商品の詳細

私が空間の面白さを覚えたのは、大学生1年生の秋にある作品と出くわした時だったと記憶している。作家の氏名は杉本博。おそらく、現代アートの世界(写真の世界も、もちろんのことだ)を少しかじった人ならば、一度は耳にしたことがあるだろう。誰もいない、ただ静けさのなかに、寡黙のなかに佇む「海(『うみ』と表現したほうが適切かもしれない)」の姿を捉えた作品に対し、当時の僕が一番最初に抱いた思いは「何が言いたいんだ?ようわからん」という、何とも浅はかなものであった。

ただ何もない海を写真に収めること、そこに何を読み取るべき…いや、何を読み取りうるのか?人間のいない=原始世界?排他的世界?はたまた、理想郷?…思考は飛躍と分岐を繰り返し、一つの答えにたどり着くこともなく、やがて思考の足跡が『ダマ』を形成し始めた。外からみると一つの思想を構成しているように見えるのだが、内からみるとそれはひどく無秩序なものでしかない…ちょうど我われが把握しているであろうと「主観的なセカイ」の無秩序さを重ねることができよう。

さて、ここで一息入れて周囲を見渡した…すると、作品の右隣のスペースから、東京の街をガラス越しに見下ろすことができた。上空から見下ろす東京の街、それはひどく杉本が写真に収めた「海」の姿とは異なる。点在するビル、所々に現れる緑、国道を走る車両…一枚のガラスの「フレーム」の中に静けさを感じ取ることは到底不可能なことであろう。作品と対面しつつ、外の景色を見渡すこと小1時間…この、相反する図式が同じ一つの空間の中に佇む様子が、私の脳内に一つの「想起」をもたらした。それは作品を鑑賞するにあたり、その作品が置かれている空間と、その空間の構成とが「思考の内」に密接な関係性を生み出すということだ。東京の街景色と隣り合わせて比較しうる空間が、杉本の写真に見る「静けさ」をひきたてている…一としての作品、その作品が纏う「様相」はそれが置かれた空間により大きく変化するということを、この時私は始めて知ることとなった。

「空間に関してはわかったが、作品そのものの理解はどこへ言った?」という疑問をもたれている方がたくさんいらっしゃるはずだ。ここで留意されたいのは、杉本博の作品に関しては、私は「空間の面白さの想起」に至ることができたにずぎず、彼の作品の理解には至ることはできなかったこと述べておこう。もっとも、芸術作品の理解は所詮主観に過ぎなく、一つの言葉遊びの内で完結せざるをえないことから、当時の私の「作品を理解してやる!」という意気込みは、所詮ナルシストの戯言に過ぎないものであったわけだが。

※本書の内容を紹介することなく筆を置くことになってしまいました。申し訳ありません…如何せん、僕の体験談から空間について綴りたい思いが湧きあがってまいりましたもので…。ちょこっとだけ紹介しておくと、京都の建築物がまとう空間には、意図的に様々な工夫が盛り込まれています。例えば、ある寺院では屋敷の入り口にたどり着くまでに、何回も角を曲がることがあります。直線で通せばいいところをあえて手間を取らせる…こうすることにより、「ひどく遠くまでやってきた」という感覚を抱かせることができるのだとか。「世俗から隔てた地に足を踏み入れたと擬似的に思わせるため」に空間を上手く利用するその心…いやはや、昔の人は細部へのつくり込みが半端ないですねぇ。ちょっと見習わなきゃいけませぬ。