で、もう一つこのFacebookの情報にくっついて面白い情報が。それは、未公開株式の取引市場が生まれているということ(すいません、情報獲得が遅くて…)。これ、法的な法則がどれほど適用されているのかはわかりませんが…恐い存在です。市場の臨む方向性としては理解できるのですが…その危険性もちょっと考えておくべきでしょうか。金融危機の第二幕の引き金にならないとも考えられません。ふむ、利益追求恐るべし。
しばしば哲学者は「物事において、陰と陽は表裏一体だ」と述べているのを耳にする。ある人にとっては、陰と感じる取れることが、他の人にとっては陽であることは容易に推測される。日本を横断する旅をすれば、小さなコミュニティ間にさえ「陰陽の違い」があること、感じ取れるはずだ。
書籍の主題である無縁についても、陰陽の関係は重要なポジションを占める。それは表裏一体という言葉が示すように、無縁という言葉が存在するからには有縁という言葉が存在するということだ。ここでは無縁とは、一般俗世から一歩距離を置き、一種の「自由」が暗黙の了承の中で認められた社会、有縁とはその反対、すなわち一般俗世の中の隷属にまみれた社会程度に理解していただければいいだろう。
無縁が生まれた背景をたどると、社会における「聖性な位置づけ」の必要性を垣間見ることができる。古く、我われの祖先は日本的な「神」の概念を埋め込むに、一般・俗物的な「位置」にそれを置いたとしても、如何せんその有効性・優位性を感じ取ることができないと感じ取ったのだろうか、この俗物世界から切り離された世界・神聖な場としての世界を築いたようだ。そして、その切り離された世界に、無縁なる要素を組み込むに至った。
興味深いのは、なぜかこの無縁なる要素を「そこ」に組み込んだのかである。聖性を考えるならば、肯定的な観点をもってその世界を築けばよさそうなものだが、なぜか否定的な観点から無縁の世界のフレームを定めてきたようだ。非人が「清目」「葬送」などを職権とする「職人=ある技術を有する/能力を有する」であったという史実がそれを裏付けよう。そこにはしばしば穢れ=俗世からは手出しをしてはいけないという了解がある…が、この手を出してはいけないという禁制は、しばしば人間を魅了してきたのも事実だ。これは、様々な「自由」が暗黙の内に了承されている無縁の世界から、賭博や金融業の胚芽が生まれたことからも理解できよう。
さて、この無縁の世界は現在の世界ではどのように捉えられているだろうか?周囲の人との関係を築こうとしない「ひきこもり」、会社の上下関係に耐え切れなく「鬱になった人」、他人との優劣に走る「ルサンチマン」etc。果たして、彼らが集うところに「聖性」なるものを見出すことは可能だろうか?一抹の希望を見出すことすらも難しい社会を築き上げてしまったのだろうか?ふむ、明確な答えは当事者の心情と社会における「逃げ場」の存在の有無に大きく寄るようだ。
※読んでる途中、アガンベンのホモサケルに通じるものを感じた次第です。簡単に「犠牲」にすることはできるのだけれど、ある条件下においては手を出してはいけない存在。聖性があることと穢れが有ることがどうして同じカテゴリーに納められたのかは不思議でならないのですが…表裏一体、陰陽の考え方をもう少し深く掘りさげる必要がありそうです。
