2011年2月1日火曜日

Standing on the One field, You couldn't go voyages of your lives.

2011年が始まって、早くも一ヶ月が経過してしまいました。いやはや、皆様、抱負は順調にこなされていますでしょうか?最初のスタートダッシュがしっかりしていると、結構すーっと進むことができたりするんですが、ここで躓くと後々まで尾を引きずることになってしまいます…うーん、まったくまったく。そのためにも、予めある程度の土台を築いてから一歩先に進みたいものです…もちろん、一目ぼれの勢いで突進することもしばしばあるんですけど。
経験量として、どちらに分があるのかははっきり言うことはできません。ただ、両者ともに「愚直に取組む姿勢」が必用であることは間違いないでしょう。一所懸命ではなく、一生懸命の心持ちで取組むことが、次へ繋がる秘訣だと、勝手ながら思っている次第です。

さて、ちょっとかっこいいことを述べると、途端に周囲の「おまえ、口先だけは達者だなぁ」という声をポジティブに受け取ってしまう、勘違い甚だしい思想の持ち主、えびすが紹介する一冊はこちら。

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先日、ポンティの書物を取り上げてしまったので、本書を紹介しないわけにはいかない。ベルクソンの著作のなかで、最も名が知られているだろう本書もまた、先のポンティの著作と同じく相当な読み応えがある一冊である…。

ベルクソンが本書に記した思考をたどるために、まず我われ一般人が持つ「認識」に関して一種の離脱を行う必要がある。一般的には、我われは五感を通じて物事を認識するに当たり、当該対象物に「自分が」何らかの接触を試みることで、それを認識しているはずだ。あくまでも、自分が「対象」を感じ取るところに、認識の根源を見出しているとする…と考えられているように思う。これに比して、ベルクソンが本書に記した認識の形相は大きく異なる様相を持つ…それは第一に、我われが当該対象を認識するに当たって、対象が「認識されるところの信号」を常時発信しているとするものだ。そして、その情報は一様な様相でもって発信されているわけではなく、時間・場所・空間(以下T.P.S.)によって様々に変化していく。わかりやすい例として、ちょうど我われが恋人・友人に抱く、友情・愛情・親密感がT.P.S.の要素により、しばしば変化することがあげられよう。T.P.S.によって変化する情報をここでは「イマージュA」と名づけたい。

さて、我われは外から入ってきた情報を、個々人の「主観」に基づいて咀嚼を行い、「栄養分」に変換し、自身の内にそれを取り込む。ここで獲得した栄養分を持って、我々は一つの「イマージュB」を創りあげたり、既存のイマージュBを新しいイマージュBに塗り替えたりする(知覚の断片による『智』の構築)。イマージュBはイマージュAと同じく、一意に定まるものではなく、受信者の思想・経験・生活構成etcによって様々に様態を変え、また時の経過による洗練・劣化・変態に曝されるモノだ。ここで留意すべきは、イマージュA,Bともに、「対象」の断片的な情報に過ぎず、対象の全てを「あらわした」像ではないという点である。当該対象を描くこと、その範囲はとてつもなく広い。一人の人間から学校の友人、スタバのコーヒーの味、携帯電話の機能、時計を構成する一つのネジetc。それらはあくまでも断片的ないイマージュAをもとに、自分の内に築き上げたイマージュBでしかない。

本書を通読し、私が感じ取ったことは、我われが思い描く「対象」のイマージュは、あくまでも対象の一面にしかすぎず、対象の「全て」を「とらえ」切れてはいないということである。ある哲学者の思想を借りるならば、「この世に我われが、対象のすべてを知覚しうることはない」ということ。我われの知覚には、不足している一面、捉えきれない一面、満足のいかない一面、都合が悪い一面が必ず存在しており、どれほどたくさんの「ソトからの情報」を獲得したとしても、全てを汲み取ることはできず、それらを糧にして自身の「ウチ」に築く思想・思考なるものは、自身が発するイマージュAの様相に変化を与えうる…が、それもあくまでも自己のナルシズムに属するものでしかないということだ。

ベルクソンの論を、哲学的なフィールドでのみ展開するのは宝の持ち腐れといえよう。個人として直面している問題、世界が真剣に取組んでいる諸問題、科学的事実の調査etc、何においても自身以外のことについて「確証」を築くことは不可能だという考えは、アカデミーはもちろんのこと、ビジネスの世界にも十分通用するはずである。もっとも、その裏づけは「自身の経験」によってしか、「確証」をもって述べることはできないのだが。

※うーん。ベルクソンの論は、まずもってその入り口を築くことが難しいです。普通だと感じていること、それをタブラ・ラサ(白紙)にしてから中に入っていかないと、路頭に迷うこと間違いなしです。僕も、何度も路頭に迷いましたし、今でも時折道筋を見失うことも。でも、道を見失うからこそ、自分で新しい道を築くことができるわけであり、それは全く新しい発見に繋がるものでしょう。まぁ、道を見失いすぎてしまうのもちょっと困りものなんですけどね。