さて、カーテンで気分一新するも、友人に「お前のセンスは…想像がつかないなぁ…」とたしなめられたことを、独特のセンスを持ってると勘違いしちゃう、ちょっとめんどくさいポジティブ野郎えびすが紹介する一冊はこちら。

教育に対し意識が高い人は相当な数に上る。私の友人・知人にも「日本の教育は駄目だ」と豪語する人が結構な数いる。ただ、その駄目な理由については、「教師が駄目」「教育方針が駄目」「家庭教育が駄目」…といった具合に、幾つかのグループに分かれるようである。もちろん、愚痴をこぼしているだけでは日本は変わらない。明治維新の志士たちのように、行動に移す先駆者がいてこそ社会は変革の道に歩を進めることができる。
多くの人(とかく言う私もその一人であるのだが)が抱く「教育を変えたい思い」の背景には、日本の社会を変えていくに上層(大人)からではなく、下層(若者)から変えていくしかないという思いが色濃く出ているように思う。日本の政治に如実に現れているだろうが、日本の社会をかえるにあたり、上層部に掛け合ってもなかなか承認が降りない…説得しようにも全く掛け合ってくれない…無理一辺倒…何度も体当たりを繰り返し、挑戦することは確かに大切なことである。しかし、昨今の日本情勢・世界情勢を鑑みると「時間がない」と感じざるを得ない。たとえばの話であるが、中国・インドの学生が世界市場に本格的に流出しはじめるのにあと二年の猶予しかないとして、二年後に何が起こるだろうか考えて見るとどうだろうか?2010年に日本社会が抱えていた問題に比して、なんと巨大な壁が現れたものだと嘆息している人が脳裏に浮かぶのは私だけではないはずだ。トップダウンへのアプローチだけではなく、ボトムアップのアプローチを積み重ねておくことは非常に重要なことだろう。トップダウンの壁が破れた時に、素早くそれに応じられる土台を造り上げておけば、変革のスピードはぐっと速まることだと思う。
社会を変えるになぜ若者の教育に目をつける人が多いのか?それは、若者の教育のあり方が人間(広くは大人)の考え方・習慣・知識の修得・文化理解etcに大きく影響を及ぼすからだろう。例を挙げてみよう。二つの国が争っているとする。各々の国で生まれた子どもは、日常生活の中で相手国に対する「負の感情」を、メディア/家庭/公共の教育を通じてすりこまれていく。「同胞が殺された」「極悪非道な殺人を繰り返している」…そして、自国の「それ」は美辞麗句をもって伝えられる…「命を捧げた英雄は後世にまで永遠に語り継がれよう!」「砲撃を受け、徹底抗戦!一部占領に成功!」。限られた情報しか与えられない環境においては、受け取った情報は「間違いはない」と決め付けてしまうのも無理はない。そして、若い時代に刷りこまれた考え方・習慣は、歳を重ねるほどに一意の「それ」に凝り固まってしまう人が多いことだろう。この域まで達してしまった人は自我が確立されて、ソトからやってきた人が異論・議論を差し出そうにも、断固と拒否し対話に至ることができない状況がしばしばあると聞く。自身のフィールドから外に出ることを極端に嫌う…まぁ、これまで築き上げてきた思想を壊し、新しい見方を身につけろというほうが無理な話ではある。その点、自我が比較的不安定な若いうち(考える気力・思いが『まだ』ある時代とも言えるが)に異なる見方・考え方に触れる機会があれば、多様な考え方を身につけつつ、自分の既存の考え方とぶつけ合わせ、自国はどうあるべきか?に関し思慮を深めることができる。もちろん、凝り固まった考えの人が、突如として考え方を変える機会もあること留意されたい。
上に挙げた例として興味深いのが社会主義国の代表であるキューバだ。報道統制がどれほどなされているのかはわからないが、国の収益源として観光業に力を入れていることから、外国人と接触する機会は相当にあるものと考えられよう。もちろん、多くの若者も外国人と接する機会はたくさんあろうし、自国のソトで生活する人たちと触れ合う内に、自身が知りえなかった「ソトの世界の存在」に惹かれるのは避けられそうにない。これは、若者の多くが「ソトの世界」へ眼を向けているという記事からも読み取ることが出来る。新しい情報に触れたことで、若者が持つ知識の幅が広がり、新しい世界へ旅立ちたい思いが湧いてしまうのは避けられない…「同じ20歳がビリオンダラー?この国に留まっていてはそんなことできるはずもない」社会主義国の細々とした生活と、豪華絢爛に誇張された生活を比較した時、後者に心惹かれるのは必然であろう。
ところで、多くの人が考える「教育を変える」が達成された時、社会はどのように変わるだろうか?まともな教育とは一体何か?教育改革を掲げて成しえた後の世界はどう進むのか?これに関し、本書の職業的意義に触れて少し綴りたい。フレームは「日本の教育と社会への適用」に留める。
そもそも論として「教育」が目標とすべきは、広く社会に「適用」できる素地を身につけることにあると考える人は多い。そして、今の社会の在りかたを見たときに、果たして現行の教育が、社会に「適用」できる教育を提供できているかについては疑問符をつけざるを得ない。技術革新の程度/触れる情報の量が小さく/少なかった時代にあっては、現行の教育で十分に事足りたのかもしれないが、昨今のそれはどうだろう?一人一台パソコンを所有数するのが当たり前になってきている社会、SNSを介して知らない情報に触れる機会が爆発的に増加した社会…このような社会への「適用」を鑑みると、如何せん現行の教育ではカバーできないところがあるのは否めない。が、根本問題として、このような社会を、我われは加速させるべきなのだろうか?私自身としては、アダムスミスが述べる「見えざる手」を止める手立てを早急に確立する必要があると感じるところでもある。
※久しぶりに長ーくなってしまいました。それだけ教育にかける思いが強いということでご堪忍下さいませ。少し、新しい風を下から創りたく、色々と活動をし始めたところであります。うーん、思い通りにいかないことばかりで四苦八苦してます…がこれも経験です。一つ一つ足場を固めつつ、Big Windowに育てていく思いであります。うむ、われ精進あれ!