さて、あんまりにも自虐的な「えびす」紹介が、あざとらしいという声を受けて、そろそろ新しい「えびす」紹介を展開していかなければと、一人焦るオトコ、えびすが紹介する一冊はこちら。
これほどまでに、時間を忘れて読書に取組めたのは久しぶりだった。本書を読了したときに脳裏をよぎったのは、何とも「味気ない」言葉に聴こえるかもしれない。だが、以下でその弁明を行いたく思う。この本が私に与えたもん、それは正に「革命」であった。
しばしば、同一作品であっても、その表現様式により、作品が持つ「様相」が大きく変わることは、よく知られたことであろう。「走れメロス」など、その代表例として挙げられる。アニメでみるそれは、非常にわかりやすく、内容も目と耳で追うだけで楽しむことができる。一方、書籍のそれは、内容を楽しむには「少々壁を感じる」といわざるを得ない…目で文章を追いつつ、そこに書いてある文章から情景を頭の中に描かなければいけないからだ。前者の楽しみに比べ、後者のそれには、視覚情報の自由度が幅広くとられているため、それなりに「想像力」を働かせることに慣れた・長けた人でないと幾分避けられる傾向にある。だが、私としては、その自由度に幅があるからこそ、楽しみの幅も広がり、それだけ千差万別の「脳内描写」が生まれ、それを共有することで、一層多様な作品が生まれえると考えており、どちらかというと後者のほうが好むところだ。
ところで、この書籍の文章を目で追うに当たっても、脳内に描く情景が変わることがある。句読点の打ち方による違いは谷崎潤一郎の「春琴抄」と川端潤一郎の「」を比較していただければよい。文体の違いについては、最近流行の「現代語訳」シリーズと、原著を比較していただければ即座に腑に落ちるはずである。今に適した文体であるからこそ、その内容理解も容易に、すーっと貼ってくること理解されよう。
さて、この「文体」のフレームを少し拡げて、本書が私を惹きつけた点について少し記したく思う。一般的に、この手の書籍=文学・社会学の批評を扱った書籍(と私は感じたのだが)は、少々難解で、遠回りをして、右往左往しつつ、結局視座がどこにあるのかについて読者側にそれ相応の力量を求めるものだ。しかし、本書を読んでいると、まるで著者が「対面して、語りかけ、説得している」かのように感じることだと思う。対面であるが故だろうか、書かれている内容が、どうもすべて「腑に落ちてくる」のだ…これは本当に不思議な体験であった。
内容もそれなりに面白く読める。だが、それ以上に、その文体にこそ注目して欲しい。本書の主題である「テクストを書く、そのテクストが革命を起こす」に並べて、本書が私にもたらした革命、それは「文体」が魔術性を帯びうるということを脳裏に焼き付けられたこと…これに尽きる。
※読書家の友人(普通に月20冊くらいは読む人たちです)、数人が本書を進めていたので、流されるように購入してしまいました。で、その感想は…「読書家の進める本にはずれなし」ということです。一人でチョイスすると結構「はずれ本」に当たる確立が高く、何とも「悔しい」思いになることしばしばなもので、最近は常に本を読んでいる友人諸兄のお力を借りることがしばしば。彼らのオススメにほぼ狂いはないので、安心して読めます。ただ、時折、僕の力量不足(難解な本は本当に難解なもので)で「悔しい」思いになることもありますけどね(笑)。
