今日もいつもの六本木ヒルズへきています。
ここのツタヤは最高♪
スタバのコーヒー一杯で、長居しちゃってすいません……。
僕以外の皆さんも結構な時間、滞在しているんですよ。
かるく五時間ぐらい勉強している人、ずーっとおしゃべりしている人、すやすやお眠りモードに入っている人。
まぁ、本当に色んなひとが います。
人の観察をしているだけでも、一日楽しく過ごせちゃいます。
で、そんな最高のスタバにて興味深い論を目にしたので、それを少し紹介させていただきましょう。
雑誌「広告」に記載されていた荻上さんのコラム。内容は、震災時にtwitterで瞬く間に広まったデマについて。情報の拡散性もさることながら、その情報が「正しい」ことだとして、誰も疑いを持たず、ドバーッと広まったことに社会の危なっかしさを指摘されています。これを踏まえて、全ての情報をオープンにするべきではないとのお考え。
で、これは僕も全くの同感なんですね。
震災直後のブログにも書きましたが(こちら)、「その道のプロに、素人がズコズコと口出しはしないでほしい」んです。
情報がどんどん横に横に垂れ流されていく……。
これ、かなり怖いことですよ。
ほんとうに、強い発言力を持つ人の「ことば」次第で、社会がいとも容易く一つの方向に向いちゃうわけですから。特に社会的地位が高く、学者として認められているような人の発言は、どこか麻薬めいた物がありますから。
でも、なぜそこまで一つの方向に向いちゃうようになっちゃったのでしょうか?
原因の一つは、圧倒的な情報量の前に、それらを逐一「吟味する」ことが出来なくなってしまった「社会」にあります。特に、専門的な知識については情報量を持っていないため、その情報をさもありなんと「みなしてしまう」わけです。なかば、オートポイエーシスに、それをそうあると見なす……これはとても怖いことです。情報をながすのは、個人の自由・判断でもってしかできず、一度流れたが最後、ドパーッと広がってしまう。
ながすとしても、そこにある程度の疑問の余地を残して示しておくのが「情報発信者のエチケット」でしょう。
海外の新聞記事を読まれれば(情報発信だけの記事はのぞきますよ〜)、すぐに気づくとおもいますが、必ずと言っていい程、ある一定の疑問の余地をそこに載せているんです。これ、かなり重要なことです。読者も、一義的な解釈ではなく、多面的な解釈をそこで得ることができます
今回の震災でも、どこぞやの学者が断定的に持論を語り、その後で間違いを直す……といったことが見られたように思います。どこからかデータを引っ張りだして来て「こうこうだから、放射能汚染もこの範囲までは安全だ」と断定する。
しかし、不測の事態が起こったらその断定はどうなりますか?
断定するからには、それなりに責任を持ってほしいものです。
間違いを正すこと自体はとてもいいことです。
ですが、取り上げる内容によっては、「後で」正しても遅いこともあります。
日常の生活に深く関わるような事柄に、「〜〜は間違っている。過去の事例からもこうすべきだ」との意見を述べる学者がいます。ですが、それが今の時代に最適な方法だと見なしているのは、その学者だけだったりするわけです。専門家は最前の方法を知っているけども、それをした所で発言力のある人に何を言われるかわかったもんじゃない。
結果、措置がおくれてしまい、被害が甚大になってしまうこともあり得るでしょう。
これは、理系的な考え方の特徴なのかもしれませんが、ほとんどの理系学者は白黒をはっきりさせることはしない。なぜか? 持論の「欠点」を把握しているからです。
自分の発言内容が全て正しいわけではない。こういった条件のもとだと、こういった結果が起こりうる。そこまで考えると、断定することは出来ない。
「逃げ」に聞こえる人もいるかもしれません。
国を引っ張っていくリーダーがこんなことを発言したら、国民は不安がるかもしれません。
ですから、トップは予防線を張った措置を講じるんです。
ちょっと大げさだと思うくらいの措置を選択する。ギリギリのラインで物事を解決することが出来ればカッコいいですよ。でも、それには相当なリスクが伴います。
いくらお金をつぎ込んでも、人の命には変えられません。
ちょっと大げさじゃない?そう思うくらいがちょうどいい。っと勝手に僕は思っています。
っと、少し愚痴っぽくなっちゃいました。
プロの仕事はやっぱりプロが一番良く知っているのは間違いない。
とくに、他の誰かの命や生活に深く干渉するような内容の事柄については、専門家に任せてほしい。
横やりが入ることで、どれほど彼らが動きにくくなったか、そのおかげで命を失った人もいるかもしれません。
専門的な分野に素人がズコズコ入って「自慢の知識論」を広く大衆一般にさらけだすべきではない。プロがいるんだから、プロの任せれば良い。彼らの行動を上から目線で非難するのではなく、暖かく見守ってあげることも大切なんではないでしょうか?
最後に……
情報リテラシーのなさ。これは、今後の世界像を考える上でも心配な材料です。
これは何も若い世代だけのことではなく、広くネットで情報を発信している人たち全般に言えること。
ソーシャルは「つながり」を作ります。
そのつながりは、新しい世界を築いてくれるかもしれません、
ですが、同時に自分がしたことがどこに繋がるのかそこまで考えてほしい。
よかれとしてしたことが、はたしてどんな結果を招いたのか。
慈善だと「勝手に思って」したことが、時に当事者たちを困らせる結果になることもある。
今後、同じような災害がいつ起きるかもわかりません。
それまでに、なんとか情報のリテラシーを築いておきたいものです。
2011年7月9日土曜日
2011年7月6日水曜日
古典にみた【ある】鑑賞方法
7月に入って、身辺が少し落ち着いて来たこともあり、のんびり芸術鑑賞の時間をとることに。現代アートにするか、古典にするか迷いましたが、疲れを取るという点で、古典を選ぶことに。新国立美術館で開催されている「ワシントンナショナルギャラリー展」の鑑賞記録を少し綴りたいと思います。
「ワシントンナショナルギャラリーが所有する印象派の作品83点を集めてみました。ぜひきてちょうだい」と言わんばかりに有名な画家さんの作品が並んだ本展示。そのためか、
「有名な作家の作品ばかりだし、いかなくてもいっか〜」と避けてしまう人も多いのではないかなと思います。僕自身、「まぁ今回は見過ごしても良いかー」と思っていましたが、
友人にひどく勧められたので、しぶしぶ脚を運ぶことに。で、鑑賞し終わって、大満足すると。まったく、展示というものは脚を運んでみないとわからないものですね。
今回の展示作品は、その作家名こそ有名だけど、新しい発見がたくさんありました。「おぉ、ルノアールはこんなタッチでも描けたのか〜」「バジール、生きてりゃ間違いなく巨匠の一人になっていただろうなぁ……」「モネさん、光に溢れた時代の作品もまた、素晴らしいかったです」
注目すべきは、各々の作家の作品が一点だけではなく2点以上(一点のみの作家は二人だけ)展示されているところ。とりわけ、絵とその絵が描かれた年代の関係性は見逃しちゃうと勿体無い。
なぜそんなことを言うの?
それは本展覧会の作品構成を見ればすぐわかる。若い頃に描いた作品と、後年、画家として成熟した後に描いた作品では、筆のタッチ(緻密に細いタッチからダイナミックな勢いのあるタッチに変わった作家もいる)、構図の取り方(後年になるほどあえて特殊な構図を取っている作品もある)、配色の選定と、そこに観られる「大きな溝」。
肉体の老化・精神面の成熟・人生経験の積み重ねetc……それらが作品に及ぼす影響は、計り知れないもの。死にたい気持の時に作る作品と、めっちゃハッピーな気持ちのときに作る作品では、たとえ同じ人の作品でもがらりと絵の雰囲気が変わる。時にとんでもないオーラを纏う作品に出会うこともあるし。時に、本当にこの画家がかいたの?と疑いたくなる作品にも出会うこともある。不思議な題材/構図を持つ作品に出会って笑みを浮かべてしまうかもしれない(僕です)。そんな作品にであったときに、「何でこないやねん?」と疑問が出るようになって来たら占めたもの。その疑問をもとに、作品の楽しみ方は無限大に広げられる。
作品単品で鑑賞するのもいいが、作品群として鑑賞すると、あたらし「出会い」を手にすることが出来るはずだ。もっとも、その出会いを味わうためには、多少の勉強はしておきたい。とりわけ、歴史ある作品には、豊富な考察と解説が用意されている。
だけど、知識が多分にあるがために、新しい発見の目を積まれてしまうこともあり得る……。そこで、僕は次の3ステップで作品を鑑賞するようにしている。1、全てを取っ払った状態で純粋に鑑賞する。2、作品が描かれた背景と照らし合わせて鑑賞する。3、自分独自の(もちろん、そこで表現することばは借り物でかまわない)作品への思い・考察を作り上げる。
このステップを踏まえれば、美術鑑賞はいっそう有意義で楽しいものに変わるはず。
素晴らしい作品を観て、感動して、その良さを伝えることばが「すごかった」だけで終わらせるのはちょっと勿体無い。自分が感じたこと・考察を「ことば」に落とし込むには時間がかかるかもしれない。けど、それができると、美術鑑賞はいっそう楽しいものになるはず。
最後に僕の目に留まった作品をいくつか紹介しておきます。
マネからは、「プラム酒」。
肌色の女性が、ピンク色の服を着て、背景には紅いソファーがあるわけです。そして、左端のテーブルの脚が深い緑色で描かれているわけですね。
同系色を三つも重ねると、どうしても色が持つエネルギー(この作品では赤です)に染まりやすいのですが、補色をさし色に持ってくると途端にエネルギーのバランスが中和されるんです。もちろん、配色の量・構図の置き方もとーっても大切になってきます。その点、この作品が持つ配色バランスには大きなインパクトを感じました。
ベルトモリゾからは作品群。
今回の展示は1869年の作品が2点、1884年の作品が1点展示されていました。1869年の作品は、いわゆる印象派っぽい(マネの交友ではありますが)描画技法を用いている一方、1884年の作品にはその面影は無く、筆のタッチは粗め、配色も大味に。後者の方が、よりモリゾらしい表現技法かなと。前者はまだまだ画家として修行中の作品でしょう。しっかりと対象を捉え、絵画に落とし込んでいく能力を身につけた上で、独自の技法を身につけていくのは、画家の鉄則。マネの展示作品「スパニエル犬」をみても、それは実感できると思います。
ゴッホからは「薔薇」。
タイトルの「薔薇」から、その作風は紅い薔薇と白い薔薇が混ざった感じかな〜と思い浮かべる方が多いのではないかと思います。ですが、ゴッホが描いた薔薇は白一色のみ(光の加減か、青っぽい薔薇もみられます)。そして、驚くべきはその背景。なんと薄い緑色。
タイトルがなければ、およそここに描かれた花が薔薇だと考えるのは難しいのではないでしょうか?作品の完成度も異様に高いように感じました。先に述べたマネ同様に、中心の壷がもつ薄いゴールド色との配色対比が素晴らしい。
ただ、薔薇というタイトルには似つかわしくない「薔薇」ですが、独特のタッチと、天才的な配色バランスはゴッホだからこそなし得tあmのでしょう。一点、気にかかったのは生気に満ち満ちていること(ゴッホのいわれと異なりますね)。なんでも、この作品は病院から退院する直前に描かれた作品だとか。ゴールド色の壷に生けられた白い薔薇と緑を主とした作品構成に、春の草木の息吹を感じとれた次第です。本展覧No.1のお気に入り作品でした。
休日だったこともあり、鑑賞者数も相当数いました。もし、ゆっくり鑑賞したいならば、平日に鑑賞することをお勧めします(※金曜日は20時まで開館)。
2011年7月4日月曜日
そろそろはじめまーす。
長らくお休みしていたブログも再開であります。
とりとめも無く綴りました。
まとめますと、
■アプリ市場への参入者が増加 → ■新規性あるアプリの枯渇 → ■デザイン性・UIで勝負 → ■デザイン性だけのアプリの増加 → ■消費者の「飽きた〜」感の増殖 → ■積極的に新しいアプリを探さなくなる → ■ダウンロードなんかしてらんねぇ。
ってな感じです。
ただ、お金を稼がなくてもいいという条件であれば、アプリの可能性はまだまだ広がります。街を歩いていれば、至るところでヒントが舞い込んできますよ〜もっとも、僕の思考が全てをアプリにつなげる癖をつけてしまったためかもしれませんけど。
いやはや、人間、充電期間は必要ですねぇ。アホみたいに集中して何かに取り組むのもまた、人生の醍醐味です。というわけで、プログラミングにちょっとはまっていました。
iPhoneアプリも作ってみましたので、ぜひご鑑賞くださいませ。
1ヶ月半で大まかなオブジェクティブCの流れを把握して、2週間でアプリを作り上げる。結構な労力が必要でしたが、良い経験になりました。
で、色々アプリについてしらべることで見えて来た、今後のアプリ展望について少し綴りたく思います。
■アプリ単体でお金を稼ぐことは難しい。
アプリをダウンロードしてもらい、利益を確保しようとと考えている企業はちょっとビジネスの方向性を変えなければいけないのではないかと思います。相当に面白いゲームも無料で提供されている昨今です(モバゲーとか)。そこで、お金を撮るのはちょいと難しくなるでしょう。スクゥエアやコナミといった知的財産/資本/信頼のある企業は別ですけどね。
もし、小さな企業が作るならば、相当にコアなアプリではないでしょうか。医学関係のアプリとか、会計関係のアプリとか。こちらは、勉強したい人がいるので、マーケットはもう、本当に誰が買うねん?と疑いたくなるくらいのアプリ以外は、無料にならざるをえないと思います。
■どうやってダウンロードしてもらう?
アプリは誰にでも作れる時代になるのも時間の問題。ホームページが誰にでも作れるように、アプリも誰にでも作れるようになるのではないでしょうか。制作ツールもどんどん簡単になってきていますし。そうなると、アプリが氾濫することに。
そこで何も新しいものを提供できなければ、アプリはデザインで勝負するしかありません。スタイリッシュさ、かわいさといった要素ですね。「アイコンかわいいからでぽちっ」を狙う感じです。もっとも、この点についてもそれなりのアイコンを作れるデザイナーさんはたくさんいますので、容易に作ることはできるのではとも。
アイコンのデザイン性の競争。そこに至ったとして、ハイレベルなデザインのアイコンがたくさん出てくると、どうなるか? アイコンのデザインでも競争力がなくなっちゃうわけです。どこかで聞いたレッドオーシャン状態に。いや、ほんと言うともうなっているんですけど(笑)。
で、みなさんどうするのか?というと……何もしなくなる(笑)。ダウンロードすらもしなくなる。今あるアプリでも十分楽しめちゃう。どこからか面白いよ〜と耳にしたアプリ以外は、ダウンロードしなくなる。
まぁ、最終的にはそんな状態になっちゃうんじゃないかなぁ。既に、僕の周りでもそんな人は結構出て来ています。使うアプリはFacebookとTwitterくらい。
もし、小さな企業が作るならば、相当にコアなアプリではないでしょうか。医学関係のアプリとか、会計関係のアプリとか。こちらは、勉強したい人がいるので、マーケットはもう、本当に誰が買うねん?と疑いたくなるくらいのアプリ以外は、無料にならざるをえないと思います。
■どうやってダウンロードしてもらう?
アプリは誰にでも作れる時代になるのも時間の問題。ホームページが誰にでも作れるように、アプリも誰にでも作れるようになるのではないでしょうか。制作ツールもどんどん簡単になってきていますし。そうなると、アプリが氾濫することに。
そこで何も新しいものを提供できなければ、アプリはデザインで勝負するしかありません。スタイリッシュさ、かわいさといった要素ですね。「アイコンかわいいからでぽちっ」を狙う感じです。もっとも、この点についてもそれなりのアイコンを作れるデザイナーさんはたくさんいますので、容易に作ることはできるのではとも。
アイコンのデザイン性の競争。そこに至ったとして、ハイレベルなデザインのアイコンがたくさん出てくると、どうなるか? アイコンのデザインでも競争力がなくなっちゃうわけです。どこかで聞いたレッドオーシャン状態に。いや、ほんと言うともうなっているんですけど(笑)。
で、みなさんどうするのか?というと……何もしなくなる(笑)。ダウンロードすらもしなくなる。今あるアプリでも十分楽しめちゃう。どこからか面白いよ〜と耳にしたアプリ以外は、ダウンロードしなくなる。
まぁ、最終的にはそんな状態になっちゃうんじゃないかなぁ。既に、僕の周りでもそんな人は結構出て来ています。使うアプリはFacebookとTwitterくらい。
■ソーシャルとの連携
アプリを作って稼ごうと思うならば、ソーシャルを外すことは出来ません。ソーシャル要素を上手く組み込み、たくさんの消費者に使ってもらって、アプリを介して広告料をなんとか稼ぐ。このモデルで勝負していくしか無いのでは。広告のベースとなるコンテンツに何を持ってくるかがとても重要になってきます。それ次第で、広告の仕方や種類(クーポンなのか、アフィリエイトなのか、契約なのか)も変わってきます。そこを上手くトータルいにデザインしたアプリを提供できなければ、どこかの大きな企業のアプリ制作に回った方が賢明な選択でしょう。
ただ、こんなアプリも作れますよ〜という「自社宣伝」アプリはつくっておいて損はなさそうですけども。
アプリを作って稼ごうと思うならば、ソーシャルを外すことは出来ません。ソーシャル要素を上手く組み込み、たくさんの消費者に使ってもらって、アプリを介して広告料をなんとか稼ぐ。このモデルで勝負していくしか無いのでは。広告のベースとなるコンテンツに何を持ってくるかがとても重要になってきます。それ次第で、広告の仕方や種類(クーポンなのか、アフィリエイトなのか、契約なのか)も変わってきます。そこを上手くトータルいにデザインしたアプリを提供できなければ、どこかの大きな企業のアプリ制作に回った方が賢明な選択でしょう。
ただ、こんなアプリも作れますよ〜という「自社宣伝」アプリはつくっておいて損はなさそうですけども。
とりとめも無く綴りました。
まとめますと、
■アプリ市場への参入者が増加 → ■新規性あるアプリの枯渇 → ■デザイン性・UIで勝負 → ■デザイン性だけのアプリの増加 → ■消費者の「飽きた〜」感の増殖 → ■積極的に新しいアプリを探さなくなる → ■ダウンロードなんかしてらんねぇ。
ってな感じです。
ただ、お金を稼がなくてもいいという条件であれば、アプリの可能性はまだまだ広がります。街を歩いていれば、至るところでヒントが舞い込んできますよ〜もっとも、僕の思考が全てをアプリにつなげる癖をつけてしまったためかもしれませんけど。
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